アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
転換.4
-
「…………おわった」
時刻は、午前2時。
無事処理が終わった書類の束に、一安心する。
それを折れないよう、慎重に鞄にしまい、ベッドに潜り込んだ。
ーーーー戻ってきた俺に、周りは驚くほどに甘かった。
「病み上がりだろ」
「無理はするな」
そんな言葉で、勝手に減らされる負担。
それが気遣いだとわかっていても、気に入らなかった。
『やると決めたら、やる。』
それは俺の、譲れない信念だから。
病み上がりだろうが、慣れていないという負荷があろうが、関係ない。
自分の状態は自分がいちばんわかっている。
何より、やると決めたのは自分だ。
だから、俺自身がやるしかない。
数日を費やし、それを何度も何度も告げれば、生徒会の面々は、困ったように、けれど仕方なさそうに笑った。
頼んだことは、至ってシンプル。
『本来俺がやるべき仕事をできるだけ全部やらせてくれ』
ただこれだけ。
勿論、記憶が不完全な俺では事足りないところはあるだろう。抜けていた期間もある。
それは承知の上で、俺ができるところは、できる限りすべてやりたかった。
"普段通り"を今すぐできないことは、承知の上。
一から覚え直す覚悟で、書類を手に取れば。
「…………!」
確かな、既視感。
無論、中学でも生徒会長をしていたというのもあるだろう。
しかし、それだけでは済まされいほどつつがなく、書類を処理することができてしまった。
「さすがですね」
なんて、特に疑問も持たずに言う柴山の声を聞きながら。
自分の方が、そのスムーズさに奇妙な気持ちになって。
ーーーー初めて、"記憶を失っている"ことを、"身をもって"実感していた。
他人の話から、周囲の様子からそれを感じたことはあっても。
自分の感覚や知識と記憶のズレを感じるのは、ひどく奇妙な感覚だ。
とはいえ。
やはり、多少のブランクはある。
完全にスムーズに作業をすることは、なかなか難しく、休んでいた授業の自習もあわせれば、どうしてもこんな時間になってしまう。
『しんどいと思ったらすぐにいってくださいね』
特に心配性らしい後輩はそういったが、そうするつもりは毛頭なかった。
他人より多くのタスクを背負おうとすれば、しんどくて当然だ。自分はそれを承知の上で、もう一度生徒会長に着くと決めたのだから、甘えるつもりはない。
だから、そこには何の不満もないのだが。
「………………ッ、」
は、と自分の荒い息で目がさめる。
時計を見れば、布団に入ってから僅か30分しか経っていないことがわかり、うんざりした。
焦らず、ゆっくり呼吸を落ち着かせていく。
そうして落ち着いた頃、耳をすませば案の定。
「………………あめ、か」
微かに聞こえるのは、降り注ぐ雨の音だ。
そう、仕事にも、学業にも、不満はない。
全ては自分が決めたことだから。
しかし、ただひとつ不満を挙げるとすれば、これだった。
雨が降っていると、どうにも寝付けないのだ。
「…………情緒不安定かよ」
嫌な夢を見た感覚も、形跡もあるのに、肝心のその内容は思い出せない。
それなのに、不快な不安感だけが確かに残っている。
そんな覚えのない状況に、そしてそれに抗えない自分に、さらに苛立ちがこみ上げる。
どうにか形だけでも休もうと再び目を閉じても。
小刻みに覚醒しては、少しまどろみ。
眠気が去って、ようやくすこしまどろんで、またすぐに覚醒する。
そんな最悪なループを何度も何度も繰り返し、辟易した。
「…………はぁ」
時計を見れば、午前4時30分。
これ以上はもう疲れるだけだと、靴を履いて外に出る。
全員が寝静まった、静かな空間に、自分の足音だけが微かに響く。
あてもなく彷徨いながら、ふと思い出した。
役員専用会らしい、この無駄に長い廊下の奥には確か、自動販売機とベンチが設置されていたはずだ。
特に何が飲みたいわけでもなかったが、部屋にはいたくない。とにかく行ってみるかとそこに足を踏み入れれば。
「…………は?」
そこには、先客がいた。
こんな早朝に、何故。
怪訝に思い、俯けられた顔を覗き込めば、閉じられていた瞳が開かれた。あまりのタイミングの良さに怯み、後ずさると同時に気付く。
この男は、たしか。
「…………"たけがわ"?」
声に出せば、その肩がピクリと動いた。
「つばきや、か」
どこか覚束ない口調でそう告げるところを見ると、どうやら寝ていたらしい。
こんな時間に、こんな場所で、何故。
もう夏だから寒くはないだろうが、ここはどう考えても、眠るのに適した環境ではない。
「お前なんでこんなところで、」
思うままに尋ねようとした質問は、武川の手で遮られ。
俺の腕を掴んだ武川は、迷いなく俺を引き寄せ、隣に座らせる。そのまま、武川の肩にもたせかけるように頭を置かれた。
「は?!なにして、」
突然のことに抵抗しようにも、寝惚けたような武川の力は存外強く。
「ねろ」
端的にそう告げる、眠そうな声も。
肩に頭を押し付けるその手の温もりも。
眠たげに細められた、その目から向けられる、暖かい視線も。
何もかもがそれ以上の言葉を紡ぐ力を、奪っていく。
「………………」
気付けば抵抗する力を抜いて、素直にその肩にもたれかかっていた。
そうすれば、頭を押し付ける力は和らいで、ただ手を添えているような形になる。
「…………………」
「……………………」
静かな空間と、人肌の温もりは、先程までの感覚が嘘のように、眠気を呼び起こした。
何の雑音もない、静かな空間がまたそれを助長する。
よく知っているはずの、よく知らない相手。
覚えがないのに、不思議と馴染む、その隣。
瞬きが緩慢になり、それすら億劫になるほど、瞼が重くなっていく。軽くはないだろうに、俺を肩に乗せたまま、押し付けたまま、武川は微動だにしない。
そうして、そこでふと気が付いた。
力を抜いても、添えられたままのこの手は。
ーーー雨の音が聞こえないようにしている?
少しはなれたところにある窓から聞こえるはずの雨音。それは、確かにその手によって阻まれていた。
それに気付いて、胸の奥から、言葉に出来ないような感情が溢れてくる。
お前は、どこまで知っている?
お前と俺は、結局どんな関係だった?
ーーーなんでお前の隣は、こんなにも心が落ち着くんだ?
きっと、この脳みそのどこか奥底にあるはずの答えは、ちっとも呼び起こされる気配はなく。
何もかもが不確かな、そんな状況。
半分は夢にひたりつつあるぼやけた意識で、それでも1つだけわかったのは。
あぁ、やっぱり。
少なくとも俺にとっては、こいつが"特別"だったのだと。
ただそれだけだった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
86 / 125