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事務員、再び
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「浅黄」
浅黄は自分の名前を呼ぶ女性の声で目を覚ました。
それと同時に、カーテンの引かれる音とともに、まぶしい太陽の光が彼の目を襲った。
「早く起きないと、遅刻するわよ」
カーテンを開けた声の主が窓際で振り返った。
浅黄は目を細めて女性のシルエットを見つめた。
知らない女の声だった。
いや、どこかで聞いたことがあるかもしれない。
浅黄はぼんやりした頭で考えた。
浅黄はまぶたを強く閉じ、ゆっくり開けた。
彼を気遣うような微笑が目の前にあった。
声に聞き覚えがあるのは当然だった。
彼女は、浅黄がアサイラムで働く前に付き合っていた女性、美咲だった。
「なんで、君がいるんだ?」
「ずいぶん、ひどいわね。
自分で誘っておいて、それはないでしょ」
彼は考えた。
誘った覚えも、彼女と会った覚えもなかった。
第一、きのうは綾倉と・・・。
そこまで考えて、ここがホテルの部屋でないことに気が付いた。
いつの間に帰ったのか。
その途端、彼は声を出しそうなほど驚いて起き上がった。
ここは、俺の部屋だ。
今住んでいる新宿のではなく、阿佐ヶ谷の、あのボヤを出して追い出された・・・。
浅黄は部屋中を見回した。
壁紙も、カーテンも、ベッドカバーも、枕カバーも、自分の着ている服も、彼女が来ている服も、そして、窓から見える景色も、すべて見覚えがあった。
「どうしたの、浅黄」
「これは、いったい、どういうことだ」
「何が?」
「だから、君がいて、俺がここにいて・・・」
「全部、覚えてないっていうの?
きのう、あんなに飲むからよ。
早くしないと会社に遅れるわよ」
「会社って?」
「もう、ふざけるのはやめて。
会社を辞めたって冗談は聞き飽きたわ」
浅黄はわけがわからないまま、美咲が用意したワイシャツとスーツを着た。
ネクタイとソックス、靴も含め、綾倉に買ってもらった高級なものではなく、すべて自分が以前持っていたものばかりだった。
彼は鏡に向かって、ひげを剃りながら考えた。
美咲は頭がおかしくなったのだろうか。
自分とよりを戻すために、昔のものをいろいろ集めて、雑誌さえも昔のを手に入れて、昔とそっくりにこの部屋をセッティングしたんだ。
そう、頭のおかしい人間なら、他人の髪の毛も一晩で10センチぐらい伸ばすことだってできるだろう。
山野のカットモデルをして変な髪形にされたのを、いつもの美容師が何とかしようとものすごい短髪にしていたはずだった。
浅黄は念のため、色を抜いた長いトップの髪を引っ張てみたが、どう引っ張ろうと自分の髪だった。
会社に着くまで、浅黄は何度も美咲に叱られた。
しばらく、電車通勤なるものをしていなかった彼は、定期券を忘れるわ、人ごみをうまく歩けないわ、道を間違えるわで、会社に行くだけで、すっかり疲れてしまった。
彼が以前勤めていた会社は、1階が店舗、2階が事務所になっている。
辞めて以来、初めて訪れた会社は、記憶と寸分違わなかった。
クビになったも同然の彼が現れても、にこやかに挨拶されるだけで、誰も何も言わなかった。
彼が自分の席だった場所に座っても、「そこは自分の席だ」と抗議してくる者はいなかった。
隣の席の山田が話しかけてきた。
「小川の子供がそろそろ生まれるんだ。
男か、女か、どっちにかける?」
「二人目が生まれるのか?」
「馬鹿言うなよ。
初めての子に決まってるよ」
浅黄は山田の顔をしばらく見つめた後、自信をもって『女の子』に1000円かけた。
もっとかけようとしたが、山田に断られた。
「前回」、彼は男の子にかけて、外れたのを覚えていた。
その日、小川は病院に飛んで帰ることになったが、彼から聞く前に、その女の子が「美沙」と名付けられるのを知っていた。
美咲と名前が似ていると思ったことで、よく覚えていた。
その晩、浅黄は美咲の誘いを断り、おそるおそる阿佐ヶ谷のアパートに帰り、ベッドの中で考えた。
あれらは全部、夢だったんだろうか。
綾倉も、アサイラムも、青山さんも。
浅黄はベッドから出て、スマホを確認した。
青山の電話番号は登録されていなかった。
綾倉との連絡用スマホもどこにもなかった。
翌朝、目を開けて彼が最初にしたことは、部屋の中を見回すことだった。
自分のいる場所が、相変わらず、阿佐ヶ谷だと知るとひどくがっかりした。
納得できないまま出社すると、その日の午後、綾倉が会社を訪れるという話で社内は騒然としていた。
浅黄は初め驚いたものの、よく考えてみると、自分が働いていた会社は綾倉のグループ会社だった。
浅黄は会いたい気持ちと会いたくない気持ちが半々だったが、綾倉は彼らのいる事務所には寄らずに、まっすぐ社長室に向かった。
「おい、誰か、これをコピーしてくれ」
たまたま、郵便物を取りに行って廊下を歩いていた浅黄に向かって、社長室から顔を出した社長が呼びかけた。
浅黄は断るわけにはいかなかった。
綾倉と彼の弁護士藤原は、社長室でいかにも面白くなさそうに座っていた。
藤原は、浅黄を見ても、驚きも、悲しみも、喜びも、怒りも、笑いもしなかった。
つまり、全く知らない人間を見るように浅黄を見た。
綾倉も、全く知らない人間を見るという点では藤原と同様だったが、関心を持ったことは浅黄にも分かった。
浅黄は部屋を出るまで、綾倉の視線を感じていた。
もし、誰かがやり直すチャンスを与えてくれたのだとしたら、浅黄が行動しなければならないのは今だった。
綾倉が浅黄をそばに置こうと決めたのは、浅黄が綾倉のオフィスに資料を持って行った時だと、綾倉自身から聞いたことがあった。
それは避けなければならない。
「会社を辞めるってどういうこと?」
美咲は浅黄の想像以上に驚いた。
「あの会社にいてもしょうがないんだ。リストラされるのは時間の問題だし」
「やめて、どうするつもり?」
「どこかで働くよ」
「私、あなたがそんな不安定な生活になるのは嫌」
「大丈夫だよ。君にたかったりしないよ」
「そんなこと言ってるんじゃない。
仕事も探さないで、昼間からお酒を飲んで、そのうち体を壊すなんてことになりそうで怖いの」
浅黄は黙って美咲を見つめた。
前に二人が別れたのは、結婚を望んでいた彼女が、リストラされる自分を見捨てたからだった。
彼は仕事を辞めたら、彼女とも別れるつもりだった。
彼女と別れなければならない特別な理由はなかった。
ただ、前に別れたから、いつか別れるもんだと思い込んでいただけだった。
このまま、彼女と適当にうまくやって、結婚して、子供を作って、平凡な生活を送ってもよかったのだ。
綾倉と知り合うチャンスはつぶしたし、青山や黒澤とも知り合いになれるかどうかもわからないのだから。
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