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猛は、聞いていなかったのか、と驚いたように呟いた。
「あれな。後遺症だよ。これから先もずっと、ああだ」
手が大きく跳ねた。胸に一瞬で雨嵐が巻き起こる。もうずっと、ああ、だと? 幸樹は困惑した。
「俺の方が危なかったと聞いていたのに」
「そう、おまえの方が危なかった。何せ、頭だったんだし。出血も多かったみたいだけど……でも、おまえが先に目覚めた」猛はまぶたを細める。「もしも目覚めた順が逆だったら、今頃はどうなっていたかな、って想像するのは阿呆だけどさ。でも、たまにそんな考えが浮かぶよ」
おしぼりで顔を拭いている猛に違和感を覚えた。目覚めた順が逆だったならば、何かが変わっていたとでも言いたげだ。何がどう変わると言うのだろうか。軽く想像してみるが、今と同じような光景しか浮かばなかった。
絹縫い針が、ちくちくと脳を刺しているような感覚。
「で、他は? もうない?」
聞きたいことはまだあるはずだけれど、今は思いつかなかった。
幸樹はしばらく、黙って酒を飲んだ。猛が質問を待っているような気配を窺わせてくる。
酒を飲み干してから、重い口を開いた。
「……記憶を取り戻す手助けをしてくれないか」猛に深く頭を下げた。「頼む」
誰かに助けを乞うことは、恥でしかない。しかし、それでも、この喪失感や気色悪さを払拭できるならば、歯を食いしばって耐えてみせる。
猛は暫し沈黙したのちに、深いため息をついた。
「おまえが頭を下げてくるなんて、明日は地球が割れるかな」
「何かが、何かが足りないんだ。どうしてもそれが必要なんだ。己が己であるための、芯になる何かが……」
「よく考えてみな。おまえの幸せって、何?」
思ってもみなかった返事がきて、幸樹は顔をあげた。
「幸せ?」
猛は刺身のつまを箸で弄っている。
「仕事は順調そうだし、嫁と子供がいる。親御さんも元気なんだろうし」猛が鋭い視線を投げてくる。「平凡かもしれないけれど、誰しもが手に入れられるわけではない幸せを、捨てる覚悟があるのか?」
「捨てる? 何故?」理解ができなかった。何かを手に入れるために、どうして他を捨てなければならないのか。
「だって、思い出した結果、どうなるのかわからないでしょうに」猛はそう言うと箸を置いて肩を竦めた。
「思い出したところで、子供がいるんだぞ? どうにもならない。思い出したらどうにかなるような過去が俺にあるということか?」言ってみただけでもぞっとするものだ。
「ほら、実はおまえに隠し子がいたとかさぁ」
「それはむしろ思い出すべき記憶だろう」返事をしてから、もしやそんなことがあるのか、という不安が頭をよぎった。
「でも発覚したら、家庭は崩壊するよ?」酒を舐めて、付け加える。「たぶん」
「だからといって、忘れたままでいるのは不誠実だ」語気を強めて言った。
居酒屋は客でどんどん埋まってゆく。ついにカウンターも満席となったようだ。空席を待つ客が、店のドア付近に集まり大声で談笑しているものだから、耳障りで仕方がない。
「不誠実、ねぇ」猛もそれが気になるようで、ドア付近を険しい目つきで眺めている。「とにかく、幸せについて考えてみなよ。子供もいることだし」
「……圭吾ならば、もっと何かを知っているのではないだろうか」
「駄目だからね」猛がすぐさま言う。
「おまえも一緒に話をするとか」
「い、や、だ」
幸樹は頭を抱えたくなった。猛よりもきっと圭吾の方が、ともに過ごした日々を知っているはずだ。何せ、親友、という間柄だったらしいのだから。
「俺たちをそこまで会わせたがらないのは何故だ」不自然だと思った。自分の知らない理由があるような気がする。
「だから、やきもちだって。他の男と話してほしくない」
「他の男って、既婚者だぞ?」
「関係ないさ」
唇を尖らせた表情を見て、幸樹は苦笑した。
「おまえがそんな様子では、圭吾も苦労するな」
「そうでもないよ。俺たちは、おまえに負けないくらい幸せになるんだ」彼は、手元を見つめる。「絶対に」
その発言から強い意志を感じ、言いようのない何かが胸に詰まった。
「そうか」
飲みたいと思った酒は、グラスの中から消えている。
「そうか」
今度は、自分に向けて言葉を放った。誰かの不幸を望んでいるわけではない。それなのに、どうしてか……不可解な不愉快さがある。
「そろそろシメ、いくかね」
猛から言われ、幸樹はメニューを手に取った。
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