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「っ?!」
「っ、と。翼さん?」
前も見ずに廊下を突っ走ったら、思い切り誰かとぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい…。真鍋さん…」
知った顔でホッとした。
「っ、ふ…」
あれ?な、みだ…?
ホッとしたのと同時に、涙腺が一気に緩んでしまった。
「翼さん…。これは、私に死ねとおっしゃっているのでしょうか」
「え…?」
またこの人は何を言い出しているのだろう。
「翼さん…」
なんでこの状況で深い溜息なんだろう。
ギュッと胸にしがみついた手と、押し付けた泣き顔を迷惑そうに見下ろされる。
「っ…」
「とりあえず離れていただけませんか」
冷たく呆れ果てた視線が落ちて、俺はもう何だか色々なことがぐちゃぐちゃにこんがらがってしまった。
「嫌ですっ…」
「翼さん?」
「嫌です。離れませんっ。真鍋さんっ、今日俺を泊めて下さい」
きっと冷静になったら何をトチ狂っているのだと思うのだろうけれど、今の俺に冷静な判断力はなかった。
「あなたはまた…」
「いいでしょう?お願いします。俺、今日はもう、火宮さんのところに帰りたくない…っ」
ギュッとさらに真鍋にしがみついて身体を押し付けた。
「これは、今日が私の命日ですね」
「っ…?」
「まったく。あなたがたは、痴話喧嘩なら他所でやって下さい」
心底呆れた声が放たれ、ベリッと音がしそうな勢いで身体が引き剥がされてしまった。
「っ、痴話喧嘩って…俺と火宮さんじゃ、喧嘩になんてなりませんよ…。喧嘩ができるほどっ、対等になんか扱ってもらえてないっ…。こんなのきっと、火宮さんにとったら、俺が1人で勝手に拗ねて、勝手に怒ってるだけでしかなくて…」
しゃべっているうちに、火宮の前では最後まで堪えていた涙が、ボロボロと目から溢れてしまった。
「会長と対等、ね…」
「っ!」
ポツリと聞こえてきた真鍋の声が、混乱した俺の頭にスッと水を差した。
おかげでハッと我に我に返る。
「っ、ごめん、なさい…。俺っ、どんどん欲張りになってて…。俺…こんな、一銭もない、むしろ負債しかない、男で、子供で、なんのメリットもない不良物件を…好きだと言ってくれただけで十分なのに…」
「………」
「なんか、恋人だってことで、調子に乗っちゃって…。1人で行ける範囲くらいは…自分で出来ることくらいは、誰かを煩わせることなく、自分でしたいな、とか」
「………」
「火宮さんが稼いでいるのは分かっているけど…何もかも火宮さんに出させるんじゃなく、俺だって男だし…火宮さんにとっては端金なのかもしれないけど、自分で出せる部分は出させてもらいたいなとか…」
つらつらと思いのままに口が動く俺を、真鍋が無言で見下ろしていた。
その目には何の感情も映らない。
「っ…俺はっ、火宮さんの恋人で…それは今みたいに、依存した関係じゃないって、思っ、て…。だから…。これじゃ、俺はただの所有物で…火宮さんがいなければ、何1つできない、火宮さんの、ただの人形みたいで…」
思いが極まって、また新たな涙がいくつも溢れた。
「はぁっ…。翼さん、それをきちんと会長にそう伝えましたか?」
「え…」
「それと会長のお考えを、きちんと会長の口から聞きましたか?」
「っ、いえ…」
だって聞かなくたって…。
「このように拗ねて飛び出して泣き喚く前に、あなたはまず会長ときちんと向き合いなさい。あなたがたの抉れる原因は、言葉が足りないことと、思い込みが激しいことで…」
説教を垂れ始めた、と思った真鍋の声が、不意に途切れて、俺は不思議に思ってその目を見上げた。
「真鍋さん…?」
視線の先を追って、後ろを振り向いた俺は、目を眇めてこちらを見ている火宮を見つけて、ビクリと身体が強張った。
「ひ、火宮さん…」
「翼、いい度胸だな」
「え…」
「真鍋、それを寄越せ。それともそのまま浮気に加担するか?」
緩く頬を持ち上げ、冷たいオーラを身に纏った火宮が近づいてくる。
「浮っ…?!」
「いいえ。むしろ、これ以上私の時間を無駄に拘束なされる前に、早急に引き取っていただきたいのですが」
「クッ、だ、そうだ、翼。こちらへ来い」
クイッと偉そうに顎をしゃくられたって、はいそうですかと行けそうにはない。
「翼さん、私は非常に多忙です。早急に取り掛からねばならない、予定変更とスケジュール調整という仕事が入ってしまいましたので」
え。急に何…。
「ふっ、よく分かっている。さすが有能な右腕だ。頼もしい」
「お褒めに預かり光栄です。ですが明日のハードスケジュールはお覚悟を。文句は一切受け付けません」
「その冷徹なところがなければもっといいが」
「仕事ですので」
ニヤリと傲慢に笑う火宮と、ヒヤリと冷たく微笑む真鍋。
2人とも見惚れるような美貌だけど、互いが纏っている空気は周囲を圧倒し、凍りつかせるようなものだ。
「っ…」
例に漏れず固まった俺は、真鍋にズイッと身を押し出され、フラリと火宮の目の前に立ち竦む。
「では私はこれで。下に車の手配はすぐに」
「あぁ、ご苦労。行くぞ、翼」
「え…?ッ、痛いっ。痛い、火宮さんっ、離して…」
「ふん」
グイと指が食い込むほど強く掴まれた腕を引っ張られる。
痛みについ顰めた顔を、火宮の怒りを宿した鋭い目に睨み下ろされた。
「っ!」
「黙ってついて来い」
何をそんなに怒って…。
わけがわからないまま、けれども逆らう勇気もなく、俺はズルズルと火宮の力に引き摺られるようにして、1階エントランス前に横付けされたいかにもな黒塗り高級車に連れ込まれてしまった。
何人かのいかにもなお兄さんたちが、エントランスで「お疲れ様でしたーっ」と一斉に野太い声で見送って来た声が、やけにボワンと耳の中に残った。
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