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そうして、風呂から上がってきたら、火宮の姿はもうリビングにはなかった。
多分書斎だろうと思って、俺は気にせず寝室に向かう。
「ふーっ…」
ベッドに倒れこみ、大きく伸びを1つ。
火宮のせいで微妙にサイドチェストが気になる。
どうせいかがわしい道具の宝庫なんでしょ。
チラッと向けてしまった視線が、ついつい鋭くなる。
「今度、火宮さんがいない隙に、全部捨ててやろうかな…」
物騒な考えが頭をよぎり、けれどもすぐに思い直す。
「なんて…そんなことした日には、それこそ何でどんな目に遭わされるか…」
どSで意地悪で俺を虐めるのが大好きな火宮を思い浮かべる。
「っ…」
怖…と思ってしまった俺に、チェストの中身を処分する勇気はなかった。
そうしていつの間に眠ってしまったのか。
気付けばカーテンの裏は明るく、火宮が出掛ける時間になっていた。
「うわっ!もう朝…」
早っ、と思いつつ、慌ててベッドを飛び降り、玄関に走る。
ギリギリセーフで、火宮が出社して行くところに間に合った。
「あ、っと、おはっ…その、い、いってらっしゃい…」
ヘラリと笑った顔を、火宮が苦笑して見てくる。
「また派手な寝癖だな。別に無理に見送りなどしなくても」
寝ていていいぞ、と笑ってくれる火宮だけど、そこはそれ。
「だ、って…」
悪いっていう遠慮がないわけじゃないけど、1番の本音はただ俺が見送りたいだけ。
「ククッ、これか」
「え?」
ぐいっといきなり引き寄せられたかと思ったら、次の瞬間にはもう唇が火宮のそれで塞がれていた。
「んっ、んーっ…」
「ククッ、行ってくる」
強引にキスを奪っていった火宮の唇が、緩く笑みの形に弧を描いて、チラリと赤い舌が覗く。
「朝からっ…」
濃厚すぎだ、ばか、という苦情は言葉にはならず、代わりに睨みを効かせてやる。
「なんだ。涙を浮かべてそんな熱い視線を送って。誘っているのか?」
は?
「っー!バカ…」
「ククッ、その暴言は仕置きの催促か」
あぁ、もう誰かこの人なんとかして。
朝っぱらから頭が沸いている火宮に呆れたところに、ふと本気で救世主が舞い降りた。
「社長、お戯れはそこまでで。時間です」
クールを通り越して、歩く冷凍庫。
今日も相変わらず表情のない真鍋が、スッと玄関のドアを開けて火宮を促した。
「ふっ、わかった。翼、いい子にしていろよ」
いい子って…。
はいはい、と思いながら、おざなりに手を振った俺を可笑しそうに見て、火宮が悠然と玄関を出て行った。
「………」
「………」
え?なんで?
火宮が消えて行った玄関扉。
その内側に、何故か真鍋が佇んでいる。
「あの…」
てっきり火宮に同行していくかと思ったのに、まさかもしかして、こんな早くから家庭教師か?
戸惑いが伝わったのだろう。
小さな苦笑が真鍋の顔に広がる。
「勉強ではありません。少しお時間よろしいでしょうか」
「え、あ、はい…」
勉強じゃなきゃ、何の用だ。
説教?それとも火宮に関する何か?何か…。
って、何か!
「そうだ真鍋さんっ!」
「なんでしょう」
「酷いじゃないですか…この間」
「この間?」
何のことだ、とシラッとしている真鍋に、一瞬苛立ちが湧いた。
「とぼけないで下さいっ。火宮さんに密告るなんて…。メール!」
「密告?あぁ、翼さんが私を誘惑なされた件ですか」
「なっ…だからっ、俺は誘惑なんてっ…」
まったくこの人は何を言い出すんだ。
「会長にお叱りを受けましたか?」
「っ…」
そりゃもう。
あなたのせいで、俺はあんな、あんな…。
「ふっ、しっかりと躾けていただけたようで」
俺の表情から何を読み取ったか、満足そうに口元を緩める真鍋が憎い。
俺の方はそれこそ不満爆発だというのに。
「っ…真鍋さんのせいでっ…」
「それは違います」
「っな…」
「あなたが会長のイロであられるという自覚が足りないからです」
イロ?
キョトンとなったのが顔に出たんだろう。
「あぁ、我々の世界では、情人または恋人のことをそう言います」
「はぁ…」
で、その恋人の自覚が足りないからって…。
十分自覚しているつもりなのに。
「そのご不満な表情が、甘いというのですよ」
「は?え?」
「あなたは会長のイロ。あの蒼羽会会長が、ついにそれと定めた本命に、どれだけの価値があるかお分かりですか?」
俺の価値?
そんなの…。
「まぁ分かっていらしたら、そもそもあの様な振る舞いをなさるわけがありませんね」
だから一体何だというのだ…。
「はぁっ。ここ数日の傍迷惑な噂話も、あなたの振る舞いのせいですよ」
「噂話?」
「うちの事務所内に広まっている、会長と翼さんと私が三角関係にあるという」
「へっ?」
あ、まさか浜崎さん…。
勘違いをしたまま誰かに漏らしたか。
「そこへ来て、あなたが会長の部屋から泣きながら飛び出してきて、私の胸に縋って泣いていればですね…」
あー、その根も葉もない噂話に花を咲かせてしまうわけで。
「ついに昨日、会長のお耳にも入ってしまい…」
「あっ、だから昨日はあんなに不機嫌で…」
「不機嫌?会長がそれを露わに?」
え?と目を丸くしている真鍋に、俺の方が目が丸くなった。
「そうですけど…」
「ふっ、やはりあなたは…」
「な、何ですか…?」
意味深に笑った真鍋の意味は分からなかった。
「ご寵愛結構。ですがだからこそ、翼さんにはきっちりとご自覚いただきたい」
「え…」
「あなたが望む望まないに関わらず、あなたへの興味関心、注目は、あなたが思うよりずっと高いという事です」
「はぁ…」
「そしてそれは同時に、あなたの利用価値の高さにも繋がります。決して安易な振る舞いで、隙をお見せ下さいませんよう」
俺に、利用価値が…?
「あなたは火宮刃の恋人、伏野翼であると同時に、蒼羽会会長の本命、でもあられるのです」
個人と公人ってこと?
難しいけど、何となくわかる。
火宮は一個人であるけれど、それは多くの人間の上に立つ、公な1人でもあるのだ。
「ですから窮屈かとは思いますが、本日の用向きは、これがメインです」
「え?」
「池田、及川、入れ」
スッと無表情になった真鍋が、不意に玄関扉の外に向けて、鋭く切れるような声を放った。
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