アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
229
-
ガシャン!
「あっ、やば…」
手が滑って床に落ちた湯飲みが割れた。
「火宮さんのだ…」
わざとではないし、多分怒られはしないだろうけど…。
なんだかゾクッと嫌な予感がして、俺は破片を拾い集めようと、慌ててしゃがみ込んだ。
「痛っ…」
チクリとした痛みを指先に感じ、ビクッと手が震えた。
「あちゃー」
ツゥ、と指先に滲んだ血を見て、思わず眉が寄る。
「やっちゃった…」
割れた破片で切ってしまった指を見つめて、俺はそこをペロリと舐めた。
「伏野さんっ!…伏野さん?」
突然、バンッ、とリビングのドアが開く音がして、ドカドカと人の足音が響いてきた。
声からすると浜崎か。
こんな夜に何の用だろう。
「伏野さんっ?!」
あ、見えないのか…。
焦ったような足音がバタバタと歩き回っているのを聞いて、俺はゆっくりとキッチンの床から立ち上がった。
「ここです、どうしました?」
ひょこっ、と調理台の影から顔を出した俺に、浜崎が一瞬驚いて飛び上がる。
「のわっ!あぁぁ、よかったっす。そんなところにいたっすね」
俺だと認識して、ホッとしたように調理台を回ってきた浜崎の目が、足元の床に落ちて止まった。
「これは…」
「あー、ちょっと落として割っちゃって…」
「っ!伏野さん、怪我は?」
「あは。やっちゃいました」
ドジが恥ずかしくて、舐めていた指をそっと見せたら、浜崎の顔が大袈裟なほど青褪めた。
「す、すぐに手当てをっ!救急箱はありますかっ?!なかったら下に行ってすぐ取って…あっ、でも今持ち場を離れるわけにも、そうだ内線で…」
ワタワタとパニックを起こす浜崎に、思わず苦笑が漏れる。
「あの、こんな小さな切り傷、大丈夫ですから」
正直、舐めておけば治ると思う。
「でもっ、会長の大切になされているお身体にっ…」
「あー…」
そうだった。
「俺のものに傷をつけたな?仕置きだ」って、ニヤリと笑って迫ってくる火宮の姿を、簡単に想像出来てしまった。
「はぁっ…」
火宮の帰りが憂鬱になってしまった俺に、浜崎の苦笑が向く。
「とりあえず絆創膏とか…」
「それくらいなら向こうの棚にあります」
怪我用ではなく、別の用途に買っておいたことは内緒だ。
「自分でしますから」
「そうっすか?まぁオレなんかが伏野さんに触れたらマズイはマズイっすね」
「またぁ」
「いや、マジっすから。じゃぁ伏野さんは下がってもらって、オレが割れたものの片付けをしますから」
これ以上怪我を増やすなと言われて、俺は大人しく破片を避けてキッチンを出た。
俺がやらかしたのに、その後始末をさせるのを悪いとは思う。
けれどもし手を出して、浜崎の目の前でさらに怪我をしようものなら、浜崎の立場が悪くなってしまうことはさすがに分かっている。
「すみません…」
「気にしないでください。それより片手で手当てできるっすか?」
「大丈夫です」
ペロペロと指をしゃぶりながらリビングに向かった俺から、何故か浜崎が気まずそうに視線を逸らした。
「あっ、ねぇそういえば、浜崎さん」
絆創膏を貼り終えて、ひょこっとキッチンを覗いた俺は、大事なことに気がついた。
「なんすか?」
「いや、こんな夜にわざわざ来たのって、何か急用があったんじゃないんですか?」
もう夕食も済んで、食器の片付けをしていたところで湯飲みを割っちゃったわけだし。
「え、えーと、そのですね…」
「はい?」
「いや、用というか、その…」
この歯切れの悪い態度はなんなのか。
「浜崎さん?」
「そのっ、オレ、申し訳ないっす…」
え?何これ。
いきなりガバッと頭を下げられるって。
「え、何です?」
まさか火宮の帰りが遅い隙に…夜這い的な?
「はぁっ?!ちょっ、伏野さん!いくらなんでも、その勘違いだけは勘弁してくださいっ!」
ガシャン!
せっかく拾い集めていた湯飲みの破片が、またも床に散らばった。
「あれ?俺、口に…?」
「あぁぁ、すみませんっ。片付け直します。けどっ、たとえ冗談でもその発言はないっす!」
「す、すみません…」
怒鳴られちゃった…。
さすがはヤクザの構成員だ。
普段は忘れがちだけど、こうして鋭く睨まれるとやっぱりちょっと迫力がある。
「あ、いえ。その、怒ったわけじゃなくって…その、ちょっとテンパって…」
「あ、はい。うん、分かってます」
俺が夜の突然の訪問の理由を、勝手におかしく解釈したから。
「あの、その…」
オロオロと、さっきの迫力が嘘みたいに、今度はものすごく困った顔を浜崎が浮かべたとき、またもリビングのドアが無造作に開いた。
「伏野さんっ」
ばっ、と床から立ち上がった浜崎が、俺の前に回り込む。
「何を騒いでいる」
浜崎の背中に隠され見えない向こう側から、冷たく平坦な聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ほっ、真鍋幹部…」
「何か割れた音と、言い争う声が聞こえてきたが?」
ひょこっと浜崎の後ろから顔を出したら、ジロッとこちらを睨んでいる真鍋が見えた。
「無事か」
「はいっ。こちらは何も異常ありません」
「それは?」
俺と浜崎の側まで来て、床に散らばった陶器の欠片を見下ろした真鍋の目が鋭く光った。
「あー、俺が手を滑らせて割っちゃって。火宮さんの湯飲み…」
「会長の…」
ポツリと呟いた真鍋に、浜崎の身体がピクンと震えた。
「あの…」
「翼さん、お怪我は」
「指先をちょっと。でも大したことないんです」
ほら、と絆創膏を巻いた指先を見せた俺に、真鍋の目が細められた。
「消毒はきちんとなさいましたか?」
「あー」
思わず逸れてしまった目に、真鍋の深い溜息が被る。
「手当てをし直しますので、こちらへ」
呆れた顔でリビングのソファの方へ誘われる。
「浜崎はそれを片付けておけ。まだ当分、こちらにいてもらう予定だ」
「はいっ!」
ピンッ、と背筋を伸ばした浜崎が見える。
だけど何だろう。
幹部の前だから、という緊張感の他にも、何だかやけに緊迫した空気を感じる。
それは浜崎からだけではなく、真鍋からも感じる気がして…。
「あの…真鍋さん」
「何ですか?」
「どうしてこんな夜に…真鍋さんだけで…」
火宮同伴じゃなくって、連絡だけ、っていう様子でもなくて。
「浜崎さんも…さっき、俺を庇うように、前に飛び出しましたよね…」
まるで賊でも入ってくることを警戒したみたいに。
「真鍋さん、真っ先に無事を確認…っ」
あぁ、気付いてしまった。
浜崎が夜に突然、これといった用事もなく来た理由。
真鍋までやって来て、こちらの異変を気にした理由。
「何が、あったんですか?」
何かあったのか、ではない。
何かがあったのが確実だから。
ジッと見つめて答えを求める俺に、真鍋の少し困ったような苦笑混じりの微笑が向いた。
「さすがは優秀な頭脳をお持ちですね…。頭の回転が早すぎます」
「真鍋さん!」
誤魔化すなんて許さない。
だって、全ての状況から導き出される答えは、だって…。
「火宮、さん、は…?」
ただ1つしかない。
震える声が、どうか予想が当たらないでくれと訴える心を滲ませてしまった。
「真鍋さん…?」
縋るように見つめてしまった目の先で、真鍋の唇が、まるでスローモーションのように、ゆっくりと言葉を形作った。
「え…?」
聞こえなかったわけじゃない。
脳が、理解することを拒否した。
「えっと…」
嘘だ。真鍋さんでも冗談を言うことがあるんですね。
ヘラッ、と緩めたつもりの顔は、多分笑顔に失敗して、不恰好に崩れた。
「嘘でも冗談でもありません」
「っ…」
嫌だ、やっぱり聞きたくない。
耳を塞ごうとした手が、その目的を果たそうと、耳に辿り着く前に。
真鍋の口が再び同じ言葉を紡ぎ出す。
「先ほど会長が、撃たれて病院に運ばれました」
ジーンと痺れたようになってまったく動かない頭の中に、誰かが激しく絶叫している声が聞こえた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
229 / 781