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その夜。
いつまでもいつまでも眠ることができなかった俺は、布団の中でグズグズと起きていた。
なのに火宮は、遅くになっても、日付けが変わっても、夜が明けても、隣に滑り込んでくることはなかった。
「帰ってない…?」
遅くなる、とはいっていたけど、帰らないとは聞いていない。
念のためと手を伸ばして取ったスマホにも、連絡が入っていないことを確認する。
「火宮さん?」
ギクリとして、まだ夜が明けたばかりの薄暗い室内を、そっとリビングへ向かう。
恐々とドアを開けて寝室を出た瞬間、たまたま偶然にも、書斎から出てきた火宮と出くわした。
「あ…」
「翼?早いな」
「っ…火宮さんは…」
遅いの?
それともとっくに帰っていたのに書斎で寝た?
ボタンを2、3個外したワイシャツに、スラックス姿という出で立ちからは答えが見つからない。
「どうした?眠れなかったのか?」
ジッと見つめてしまっていたら、隈が出来ている、と目元に火宮の手が伸びてきた。
「っ…」
思わず避けてしまってからハッとした。
「翼?」
「あ、いえ…」
ストンと俯いてしまった顔が、裸足の指先に向かう。
キュッと丸めた指先が見える。
「翼?」
窺うように火宮の足が1歩近づいてきたのが分かって、俺はビクリと身体を引いていた。
「翼…。俺が怖いか?」
ポツリと落ちた火宮の声が、そっと耳に触れた。
「っ、違っ…」
怖くはない。
それは本当だ。
フルフルと左右に首を振れば、フーッと長く吐き出された火宮の吐息が聞こえた。
「では嫌か」
「っ…そ、じゃ、ない…」
嫌悪かと言われれば、それは微妙に違うんだ。
またも小さく首を振ったが、火宮はハッと短く息を吐き、スッと俺から距離を取った。
「別に誤魔化さなくてもいい」
自嘲気味に吐き出された火宮の声が聞こえて、俺ははっとして顔を上げた。
火宮は自分の手を見つめて、薄く目を細めている。
「っー!違うっ…」
違うんだ、本当に。
火宮自身を嫌なわけでも、嫌悪しているわけでもない。
「俺はただ…俺は」
火宮が触れて来ようとする手から、身体が反射的に逃げていて、こんなの説得力がないかもしれないけど…。
「俺はやっぱり、浜崎さんとか護衛についてくれる人は、仕事だからとか、割り切れなくて…」
「………」
「だからちゃんと感謝とか、気持ちとかを伝えたいと思って…」
だから火宮の言うことを、上手く受け入れられないだけで。
決して火宮を疎んでいるわけではない。
「そうか。だが翼、できれば、あれらを人と思うな」
「え?」
一瞬、火宮の放った言葉の意味がわからなかった。
「あれらはそう扱われることを承知して、その役目についている」
「っ…」
重ねて放たれる火宮の言葉は、やっぱり俺の頭では理解できなくて、ただただ呆然と目が見開く。
「ひみや、さん…?」
「それに、心を砕くな」
「っー!」
非情で冷たい火宮の声だった。
「な、に、言って…」
「あれらは…」
「っ!あれら、じゃないですよね?人ですよね!怪我をすれば痛いし、血だって流れる、人ですよね、彼らは…」
「だから翼、それは…」
駄目だ。
火宮にはやっぱり届かない。
火宮の言葉はやっぱり分からない。
「何でっ、何でそんなに冷酷なことが言えるんですか…?」
「冷酷、か…」
「だってそうでしょう?!人を人とも思わずに、感謝も痛みも持っちゃいけない、誰かに代わりに血を流させて、自分がのうのうと過ごすことは…」
無理だ。
俺にはできない。
「翼」
「俺は、火宮さんのようにはなれない。人の血を見慣れて、それを当たり前だと言い放つ…」
そんなことは。
「俺は、復讐のために、人の血を流すことのできたあなたとは違う」
「………」
「他人の流れる血を見て平気でいられるあなたとは違うっ!俺は…」
はっ!
俺は、今、何を言った…?
いつもの不敵な笑みじゃない。
薄っすらと微笑んで、俺を見つめている火宮の表情に、足がガクガク震えてきた。
「っ…違っ、俺、ごめっ…」
「いいんだ、翼。謝るな」
「っ、俺…」
どうしよう。
この火宮に、なんて顔をさせてるんだ。
口から放たれてしまった言葉をこんなに後悔したことはない。
「翼」
「っ…」
「おまえに何と言われようとも、俺は浜崎の負傷は当然の責務の結果だと思っている」
「っ、ひ、みや、さん…?」
一瞬前の淡い微笑みは跡形もなく消えて、その整いきった美貌に浮かぶのは、冷たく鋭いやいばのような表情。
「これが、俺だ。おまえが文句を言おうが憎もうが嫌がろうが構わない。ただ、これが俺だ。それでも側にいたいと思うなら、この俺に、おまえが慣れろ」
「っ…」
「俺は、蒼羽会会長、火宮刃。おまえの男は、そういう人間だ」
凛として鋭く、人の温もりをわずかも感じない冷たい声と表情だった。
初めて、感じた。
この人は、ヤクザの頭だ。
いつもは優しく笑うから、ふざけたことばかりを言っているから、今まで1度も思ったことがないのに。
冷酷で非情で、触れれば切れそうな鋭さと、油断すれば呑み込まれてしまいそうな圧倒的な存在感と深い闇。
他者を威圧し、凛然と佇む孤高の王者。
「っ…」
俺は、そんな男の、恋人。
ゾクリと震えた身体は、どんな理由からのものか。
「シャワーを浴びて仕事に出かける。おまえは眠れていないようだから、少し休め」
スッと俺の横を通り過ぎ、火宮が浴室に歩いていく。
触れそうで触れられない、ほんの数センチの距離。
すれ違いざまに感じた切ない胸の痛みが、チクチクと後を引く。
パタン…。
互いに互いを振り返ることも、目をわずかも合わせることもなく、火宮と俺の間のドアが、静かに閉ざされた。
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