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「ふぅっ、疲れたぁーっ!」
「クスクス、お疲れ様」
ようやく気が抜けたのか、豊峰がダランと両足を伸ばして、大きく両手を突き上げた。
「ホント、なんつースパルタ授業だよ。翼はいつもあんなん受けてるわけ?」
そりゃ、成績も上がるわけだ、と豊峰は笑う。
「うーん、いつもじゃないけど、必要なときは」
はい、と、買い置きしてあったジュースを差し出しながら、俺は曖昧に微笑んだ。
「必要、か…」
「うん」
ポツリと落ちた豊峰の声に軽く頷いて、俺はストンとソファに腰を下ろした。
「翼には、やっぱり勉強が必要か?」
「あー、まぁね」
「おまえ、進学希望?将来なりたいものとか決まってんの?」
「え?俺?うん、一応」
ゴクンとジュースを飲みながら頷いた俺に、豊峰が手の中でジュースのコップを弄んだ。
「そっか。やっぱり、会長サンの手伝いをすんの?どっかの手持ちの会社に入るとか」
ヤクザになる?とは聞かれなかったけれど、豊峰が聞きたいのは多分そこなのかな、というのはなんとなく分かった。
「んー?俺は、医者になるよ」
「は?」
「俺が目指しているのは医大。もしくは医学部」
「医者…」
唖然と口を開いた豊峰が見えて、思わずクスクスと笑ってしまった。
「意外?」
「あ、あぁ、いや、そっか。翼なら、医大くらい、サラッと入れちまいそうだけど…」
「そうでもないけど、絶対に入りたいとは思ってる」
「だから、勉強か…」
そっかぁ、となにかを考えるように呟く豊峰を、俺は黙って見つめた。
シーンと沈黙が訪れる。
それを破ったのは、豊峰のポツリと落ちた声だった。
「翼はやっぱり、ヤクザにはなりたくねぇの?」
「え?ヤクザに?うーん、どうかな。考えたことない」
「は?え?だっておまえ、火宮会長のオンナだろ…」
まぁそう言われればそうなんだけど。
「それっていわば蒼羽会の姐さんだよな?」
「確かに、そういう立場にはなるみたいだけどね」
「会長サンに、ヤクザになれ、って言われないのか?」
目を丸くして尋ねてくる豊峰に、俺は苦笑を浮かべるしかなかった。
「まぁ、蒼羽会の頭のパートナーだし、養子縁組をして入籍までしているけどね。火宮さんは、俺に組に入れとも、姐の仕事をしろとも、構成員になれとも言わなかったよ」
「そ、うなのか…」
「うん」
期待した答えではなかったのか、豊峰の声が少しだけ沈んだ。
「火宮さんはね、俺に、好きなことをして、好きな未来を選べ、って言ってくれた」
いつかの日に、ふとそんな話になったとき、火宮は俺の意志を尊重すると断言してくれていた。
「っ、じゃぁ、翼は、医者になりたくて、医者になれるのか」
ポツリと呟かれた豊峰の言葉に、俺はにっこりと笑って首を左右に振った。
「ううん、医者という道を望むのは、火宮さんかな」
「えっ?」
「あ、でも別に、火宮さんが俺に医者になれ、って言ったわけじゃないよ?だけどただ、もしも医者になってくれたらいいな、って火宮さんが思っていることは分かったから」
「だからおまえは医者になんの?結局は、会長サンが望むから、おまえはおまえの道を決めるってことか?」
くしゃりと歪んだ豊峰の顔が見えた。
「うん。だって、俺の望みはね、火宮さんと一生共に歩いて行くこと。火宮さんと一緒に笑って一緒に悩んで、ずっと一緒に、ずっと隣で、生きていくこと」
「っ…」
「俺は、火宮さんが、好きな未来を選んでいいと言ってくれたときに、迷わず進路を決めることができたよ?」
「っ、それが、医者?おまえは火宮刃のため、に、生きるのか?」
「それが俺の望む生き方だから」
正々堂々と言ってやった俺に、豊峰の顔が、ぎゅぅっ、と辛そうに崩れた。
「っ…苦しく、ねぇ?」
呻くような声を搾り出した豊峰が、どんな答えを期待しているのかは簡単に分かった。
だけど俺は、期待に沿うような応えは持ち合わせてはいなかった。
「苦しくないかな、俺は」
期待を裏切ると分かっていて口にした俺に、豊峰の顔がますます歪んで、ぎゅぅ、と固く目が閉じられた。
「っ、なんで。なんでっ?だってもしも会長サンに出会っていなければ、会長サンと付き合っていなければ、おまえはもっと別の道を選んでいただろう?」
別の道、ね。
火宮刃のため、という生き方をしない道。
「ないよ」
「え?」
「そんな道はない」
きっぱりはっきりと断言した俺に、豊峰の目がパッと開いて、パチパチと瞬きした。
「なに?どういうこと」
「だから、俺は現に火宮さんと出会っちゃったし、火宮さんのことを好きになった。だから、それ以外の道なんて、存在しない」
まぁ考えたところで、もし火宮と出会っていなければ、俺は死んでいた、なんてことまでは言う必要がないから黙っているけど。
「っ、でもそんなの…」
「うん。子供は生まれてくる場所を選べない。産んでくれる親を選べない」
「っ、翼っ?」
ビクッと身を竦ませた豊峰の言いたいことは、俺にははっきりと分かっていた。
「もしも豊峰家に生まれていなければ。豊峰組長の一人息子でさえなければ?」
「っ…それは」
「うん。考えても、無駄」
「っ、翼…」
「だってありえない。そんなもしも」
厳しいだろうな、とは思いながらも、俺は敢えて冷たく豊峰の希望を打ち砕いた。
くしゃりと豊峰の顔が潰れる。
「俺はっ…」
「うん」
「っ…俺は」
「うん。現実は変わることはなくて、藍くんはその中で、自分の生き方を見つけなくちゃならないんだよね」
「っ…おまえみたいに?翼みたいに、翼が会長サンを愛していて、会長サンが翼を愛してくれていて。そんなおまえだから簡単だろうけどっ、俺は…」
愛や恋で片がつく話じゃないんだ、と叫ぶ豊峰に、俺はふと、とてもシンプルな答えに気が付いた。
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