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序章:誰かが嘘を吐いている
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[chapter:序章:誰かが嘘を吐いている]
その男はふざけた調子で嘯いた。
「この世こそ地獄ではないか」
好戦的な微笑みと挑発的な目線、そして扇情的な物言いだった。噂に違わぬ軽薄な男だと思った。俺の視線を見詰めるようで、しかしその男の眸が映すのは俺ではない。目の前で話しているのにまるで男が違う場所に生きているような、不思議な感覚に襲われる。
仕事だから、上司に言われては仕方がない。
胸のざわめきに苛まれても男との面会は続いた。二日、三日、一週間。会う度に俺はその軽薄な男に魅せられてゆくのがわかった。男が吐き出す熱っぽい言葉が心房の底に募っては、まるで雛鳥のように孵って囀った。
この男の言葉をもっと聞きたい――、いつの間にかそんな願いすら抱いていた。『上司の命令で仕方なく』最初こそ真実だったその理由すらもこの時には会う為の口実になっていた。何時から、何処で、何が、男に惹かれる理由を探す事もしなくなっていた。
男と出会ってから二ヶ月。
別れを目前に二ヶ月間の僅かな時間を惜しむ頃、仕事を終えた男はいつものように軽薄な態度で俺に微笑みを向けた。「これでお別れだ」
舌先を踊らせた男は清々しい表情だ。
男にとっての俺はただ一度の仕事相手に過ぎないのだから当然だろう。
「お前の仕事には感謝する」俺は声音も変えずにそう言った。
「敵が多いのはお互い様さ。いつでも連絡するといい」
掌で覆ったライターの灯火が伏せた睫を濡らす雨粒を照らして浮かび上がる。硝子に走る引っ掻き傷のような無数の雨に遮られた横顔はただ儚く白んで霞んだ。
首の根元で傘を支える肌に浮かんだ血管は細く、赤く灰色の景色によく映えた。
「お前は、なにをそんなに背負っている?」自分の口からこぼれ落ちた突飛な言葉に自身ですら驚いた。
訂正の言葉も浮かばずに視線を泳がせる俺を彼は怪訝に睨み付けると大口を開いて笑った。ガードレールに腰掛けて竦めた肩口から鎖骨が覗いた。
「俺が背負うものか」悪戯っぽく呟き擽ったそうに目を細めた。
「私は馬鹿だが節穴ではないぞ」彼の口調を真似て声音を歪めてみせる。指先を男の肌に滑らせて首筋にかかる黒髪を払った。
「首筋が赤い、それに熱い。……体調が悪いなら、そう言えばいい」
指先で触れただけで感じる程の高熱は今も男の身体を蝕んでいる。なのに男は顔色一つも変えずに軽薄に笑うのだ。微かに震える皮膚を微塵も見せず、巧妙に隠して。
「お前がそんなに背負っても、世界は変わらないぞ」
「喩え、世界が変わらなくても人を変える事は出来る」
挑発的な目付きが車のハイビームに反射して一際に輝いた。胸がざわめくのだ。とても煩く、耳障りな程に騒ぐのだ。衝動的に男を抱き締めたくて仕方がない。
すると男はすべてを見透かしたかのような口振りで嘯いた。
「あんたの事も背負ってやろうか?」
見え透いた挑発だ。厭らしく細められた目尻が吊り上がり舌舐めずりをした。
「……その挑発は、少し不愉快だな」
「すましたあんたの怒った顔が見たかったのさ」
「おかしな男だ。『俺』をからかってなにが楽しい?」
「高潔なマリアほど汚しいものはないだろう?」
男の胸倉を掴み上げたのは悪戯程度の感覚だった。わざと挑発に乗った事も狡猾な彼なら見透かしていただろう。男は声音を尖らせて「すべてを知っていても『なにも知らない』のがあんたたちの鉄則だろう?」言った。
「俺をあまり見くびるな。俺はお前の事など知る気もない。どこの誰かも興味ない」
突き放すと男は再びガードレールへと腰を落とした。道路側へと転がってゆく雨傘が車に撥ねられて高く舞い上がる。濡れてゆく黒髪は光を多分に含んでいっそうに艶やかに煌めいた。
「本当になにも知らないと、あんたは証明できるのか?」
好戦的だった男の表情が僅かに揺らいだ。「そんなものはない。だが、『俺が』知らないと言っている」不機嫌に放つと男は両眉をつり上げた。
「なんだよ、それ」弱々しく口元だけで笑って男は顔を伏せた。
竦めた肩口にシャツから覗く鎖骨、黒く浮かび上がる雨に霞んだ歪な姿、不確かで不明瞭な存在。熱のない言葉。「そんなお前を俺が背負ってやるよ」今度は俺が嘯いた。
ネクタイを緩めた首元に雨粒が紛れ込み、肌を滑ってゆく感触に身震いした。
「……背負うなんて簡単だ」
男は顔を伏せたまま自身の足下へと投げかけた。
弱々しい声音で細々と呟く。
「いくらだって工夫できる。俺が頑張ればいい。どんなに非力でも誰かの為だと思えば頑張れる。だが『背負わせる』のは訳が違う」
男に長い沈黙が訪れる。前髪から微かに見えた睫は微かに震えて、肌を流れる雨粒が鼻先にぶら下がってから静かに落ちていった。その長い、とても長い沈黙の後に彼は漸くと言葉を絞り出した。
「一度背負ってもらうと際限なく甘えたくなる。応えてもらえないと殺したくなる程に堪らない。すべてが相手基準になる。どんなに望んでも、足りない。……怖いよ。怖いんだ。怖くて仕方がない」
譫言のように上擦る声音が鳴り止むと男は輪郭を持ち上げて悲しく微笑んだ。
軽薄に努める男の微かに見せた人間らしい言葉。その言葉に喩えどれ程の嘘が混ざっていても今はただ彼の言葉を信じたいと思えた。
「もしも、最後に縋った相手すらも失ったとき、俺はきっと二度とここへは戻れなくなる。あんたはそれでも俺を背負うと言うのか? 『背負わせる』ってのはそんなに簡単なものなのか?」
震える輪郭で懸命に微笑む姿に車のハイビームがぶつかって、何重にもなって浮かぶ光の粒が幻想的に男の周りに舞い上がる。瞬きする度に形を変える光の粒はいつまでも、いつまでも光り輝いて俺は言葉もなく釘付けになった。
「……『外道の赤飛(あかとび)』、あんたのどこが外道だって?」
嘯く男の表情にはもう先程までの弱々しさはなかった。骨の折れた雨傘を拾い肩に乗せると彼は振り返り「あんたは面白い男だな、また会える事を願うよ」そう笑った。
出会った頃、俺と彼はなにも知らなかった。
互いの素性も出自も生い立ちも、それでもこの時にはもう俺たちには互いの存在が必要だった。運命などという陳腐な言葉にも縋れず、宿命よりも眩く、因縁よりも煙たい。近付く度に離れてゆく三日月のように、登れば落ちる太陽のように、瞼を開けば彼は必ずそこにいた。
外道と呼ばれる俺に、悪魔と呼ばれる彼。気が合うのも或いは必然なのかもしれない。
「……柄長類(えながるい)、きっと俺は新しい一日が始まる度にお前に会いたいと願うのだろう」
この思いだけがいつまでも色褪せない。
この世界がいつか地獄に変わっても、それでもこの世界が素晴らしいとお前がいうのなら。
誰かが嘘を吐いている
(彼の吐く熱のない言葉だけが誰かを救うと信じている)
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