アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
一章「03:きみがいない」
-
※グロテスク・残酷描写を含みます
side:鳥居 隈貴
細く弱々しい雨が頬を撫でる。白く薄い雲が素早く流れてゆく姿を恨めしく睨んで短く吐息を漏らした。例年より幾分も早い冬の気配に嫌気がさす。
「まだ十月なのになんで雪が降るのさ」不機嫌を装ってわざとらしく声を尖らせた。
路肩に薄く積もった雪を蹴り上げて振り返れば背後で赤飛が苦く表情を歪める。「解りかねます」酷く神妙な様相で真面目に答えるから思わず間が抜けた。
良くも悪くも赤飛はいつでも『いつもの赤飛』だ。真面目で堅物、僕の冗談にも笑みすら浮かべない。どんな悪態にも誠実に答えようとするからこちらが疲れてしまう。不満げに口先を尖らせて僕は視線を頭上に飛ばした。町並みに上手く擬態する事務所を背後にして僕は奥歯を噛んだ。「本当に吐き気がするよ」
道行く人々は誰も僕らに気付かない。――いや、気付いていても関係ない。喩えすべてを解っていても『知らない』のがこの世界の掟だ。耳を塞ぎ、視界を閉ざし、口を噤む。なにが起こっても『知らなかった』と言えば救われる。
僕はこの世界が嫌いだ。
北陸の小さな港町。冬になれば大雪に閉ざされる灰色の街。
開拓を繰り返し削られた山は街を取り囲み、終わる事のない道路整備が行く手を阻む。薄暗い路地に、奇妙に浮いた真新しい建物。この継ぎ接ぎだらけの歪な町並みは僕の心をいつでも逆撫でる。
僕はこの街が嫌いだ。
「若、時間がありません」背後で赤飛が声を小さくさせる。
解っているさ、声を荒らげると赤飛の小さな眸が微かに揺れた。「申し訳ありません」震える声音がそれでも変わらぬ口振りで淡々と吐かれる。振り上げる掌は深々と下げられた赤飛の頭を、なのに叩けなかった。「お前のそういう所が――」短い吐息に混ざった言葉は最後まで鳴らなかった。
事務所から数メートル進んだ先で車が待機されている。厳めしい顔付きの高級車だ。只ならぬ雰囲気を持ったスーツ姿の男たちに囲まれた黒一色の重たい胴体を遠巻きに眺める人々はその姿に表情を顰めては、はっと顔を背ける。
律儀な反応を見せる民衆に僕は冷めた一瞥をくべるだけだ。
「……本当に、吐き気がする」低い車体に身を屈めて潜れば即座にドアが閉められた。
******
崖の縁に立てば不思議と走り出してしまいそうだった。
山の中腹に当たる場所で、不格好に張り出した岩肌を潮風が駆け上がる。開けた視界には荒々しい海面が広がり、頭上では灰色の薄い雲が足早に流れていた。海も空も、木々ですら色をなくした冷たい冬の景色は途方もない力で人間を追い立てる。この景色を見ると走り出さなければいけない気分になる。
「若、準備が整いました」
僕は赤飛を振り返りもせずに鼻先を鳴らした。
冬の日本海に視線を残したまま振り返り僕は漸くと視線を前に転がせた。海を一望するように佇む小さな倉庫だ。トタンで作られたそれは長年潮風に晒された所為で赤錆と腐敗が進んでいた。胴体の大部分を占める正面のシャッターはもう随分の間開かれた形跡はない。
角が尖った真四角の倉庫へドアから入れば、中では数人の男たちが僕を出迎えた。
青年団に所属する組員だ。黒のスーツ姿に収まる屈強な肉体が僕を振り返り深々と頭を下げる。僕よりも一回りも二回りも大きな男たちを服従させるのはなかなかに気分がいい。腕力がなくとも人を地べたに跪かせる事は出来るのだ。
「ん、もういいよ。あとは僕がする」吐いた声が室内で固く反響した。
工場を兼ねた倉庫内にはいまでもその名残があった。乱暴に投げ捨てられた資材、不規則に並ぶ機材、車の部品と思われるものもある。埃と土臭さに鼻を摘まんだ。
出入り口に程近い場所で『そいつ』は蹲っていた。木箱を抱えるような格好で憔悴した眸が焦点を探して彷徨う。「やあ、田所さん」僕は陽気に声を鳴らした。
脂の浮いた黒髪には埃が纏わり灰色に変わっていた。瞬間に青ざめた表情も、血の気を失ったそれでは区別が付かない。哀れみを覚えると同時に愉快だった。
この男、名前を田所という。強欲な詐欺師だ。血の気が多く好戦的な男だったが、それももう過去の話だ。何度も流れたであろう涙の跡をなぞるように再度、涙が伝った。口から漏れるのは悲鳴になり損ねた呻き声ばかり。
赤黒く腫れ上がった指は、それが指だったかも解らぬ程に変形していた。
「拷問で死なれたら話聞けなくなるでしょ? 指潰されるぐらいで済んでよかったじゃん」
場に似合わない調理用のミート・ハンマーが彼の手元で僅かな光を含んで、てらてらと光る。彼をここに繋いでから一週間、質問も聞き取りもせずにひたすらに手を攻撃したのは『答え』を聞く為ではないからだ。
「僕は強欲なんだ。君よりもずっと。だからなんでも欲しくなる。そして一度手に入れたものを奪われるのは酷く堪らない。それが捨て所しかない泡銭でもね」
ハンマーを振り上げた途端に田所は断末魔の叫びを挙げた。執拗に繰り返した反復作業は彼の神経に深くこびり付いて、拭いきれない恐怖になる。振り上げただけで失神する程の。
彼が抱きかかえる木箱がその一瞬で僅かに動いた。彼が本能的に逃げようとしたのだ。だけど、決してそこから逃げる事は出来ない。重りを仕込んだそれに固定された手が彼の行く手を阻む。
「本当に、人間って奴は酷い事を思い付くよね。……寒気がするよ」
頭上で動きを止めたハンマーをそのまま投げ捨てる。白目を剥いた彼は木箱に項垂れて痙攣をした。
木箱に腰掛けて腕を伸ばすと先端に煙草がセットされる。すでに火の点ったそれを口に運び入れて煙を吸い込んだ。「もう解放してあげていいよ。このままじゃ話が進まない」
言えば男たちが田所の手から釘を抜き取った。
幾つも並んだバケツに張った水を左端から順番に田所に浴びせてゆく。吐いた息が白く染まる気温に冷まされた水は、その老体には堪えるだろう。三つ目のバケツを逆さまにした時に田所は意識を取り戻した。
「やあ、田所さん。目覚めはいかが?」
木箱で足を組む僕を見上げて彼の眸は酷く狼狽した。
或いは目覚めるとすべてが夢になっているとでも思っていたのか。この世は残酷だ。夢であってほしいと願う程、それは現実となる。この世は狂っていないと生きられない。
「僕の質問に『YES』か『NO』で答えるんだ。いいね?」
煙草を地面に投げ捨てる。「君を嗾けたのは柄長類か?」
潜めた声の先で田所はか細く首を縦に振るった。
刹那に僕は背後を振り返りこれ見よがしに視線を赤飛に投げた。小さな眸が微かに震える。「お前のそういう所が、僕は」喉の奥で絞め殺した言葉を僕は微笑みで隠した。
二週間前、まだ九月だった季節に生じた『誤算』がこうしてまた僕の邪魔をする。その男はまるで獣になり損ねた『けだもの』だ。欲望のままに他人の人生を貪り、行く手を阻む。赤飛を『いつもの赤飛』ではいられなくさせる存在だ。
「聞いてくれ!」田所が叫んだ。
俺は騙された、懸命に叫ぶ田所は息つく間もなく捲し立てる。「俺は悪くない、柄長の言う通りに動いただけだ」動かない手をそれでも必死にばたつかせ、田所は僕の足下に擦り寄る。柄長がケダモノならば、田所は人間だ。半端に知恵を持ったばかりに自身を驕り、そうして身を滅ぼす。ああ、なんて愚かで浅ましい強欲の塊だ。
「虫酸が走る」吐き捨てる。
立ち上がった僕の手元に差し伸ばされた黒い物体を掴んで田所に向けた。黒い銃口は光すら拒み重く固く、暗闇によく馴染んだ。銃口を向けられた瞬間に田所の表情から最後の光が途絶える。「どうして」上擦った声が涙に重なり、わなわなと震える。
「嫌いなんだ。君が」
「それ、だけで……?」
「充分な理由さ。気に入らない、むかつく、嫌い、人間はそれだけで人を殺せる。僕も『人間』なんだよ」
「あ、あいつは! 柄長は埠頭の第三倉庫にいるんだ。根城がそこだと柄長自身が言っていた。許してくれ、もうしない! 詐欺師も辞める、もうなにも悪い事はしない、だから!」
「煩い蠅だ。君は所詮、人間にもなれない羽虫だよ」
引き金を胴体に押し込んだ刹那に火花が散る。目が眩む程の閃光が暗闇の中で爆ぜた。
銃弾が彼を打ち抜いてすぐに地面へと頭がこぼれ落ちる。骨がぶつかる鈍い音ばかり空間に響いて、僕は瞼を閉じた。「ああ」嘆じた僕に帰ってくる言葉はない。
そろそろと爪先に躙り寄る血液はまるで僕を恨む田所の腕のように、真っ直ぐ僕へと向かってくる。例えばもしも、本当に田所がただの被害者ならば或いは死なずに済んだかもしれない。だけど、彼は大きな間違いを犯した。
最後に柄長の居場所を吐露した事だ。この世界は『なにも知らない被害者』だけが救われる。知っている自分は有益な存在なのだと自身を驕り、剰え相手に報せた事が彼の失敗であり死因だ。最後まで被害者あれば救われたというのに。
「どうせ死ぬなら最後くらい綺麗に死んでほしかった」
さめざめと吐いた僕の手から銃口を抜き取って、赤飛が声を低くさせた。「埠頭を調べますか?」その声音を避けるように赤飛の横をすり抜けて僕は外へと出た。灰色の世界が変わらずそこに存在している。
「調べる必要なんてないさ」
追い掛けてくる赤飛を振り向いた。
海面に渦を巻く白波が岸壁に打ち付けられて破綻してゆく。「あの程度の男に居場所を知らせる程、柄長は馬鹿じゃない」
裾の長いジャケットが潮風に靡く。潮の香りはどこか血液のそれに似ている。
地平線の向こう側に例えば見知らぬ世界があっても僕は漕ぎ出す事はしないのだろう。どこへ行こうと空の色は変わらないし、雲を辿れば必ずここへ戻ってきてしまう。ならば最初から足掻く事はない。僕はどこにいても僕だ。
獣にもケダモノにもなれない、地を這いずるだけの人間だから。「それでも『お前』は人間を愛するというのか?」途方もなく呟いた先で誰かが鼻を鳴らした気がした。
*******
その瞬間、全身の毛穴が開くような寒気を感じた。
佇む姿は暗闇の中で尚も黒く浮き上がり、禍々しい殺意をぎらつかせる。銃口が持ち上がると同時に火花が散った。あ、と思う間もなくすべてが掌からこぼれ落ちてゆくのだ。その黒はまるで悪魔だ。そこには打算も計画性もない。欲望のままに貪る桿ましさだけだった。
すべてを奪われて、裏切られては蔑まれた。その嘲笑の先にはいつでも噎せ返る程の『白』の景色が僕を一瞥する。僕はただ無様に泣き喚き、声にならない悲鳴を上げて絶望するだけだった。
「本当に、愛を知ったケダモノは厄介だ」数秒前に呟いた自身の言葉が遅れて耳に届く。
銃弾が目前に迫った頃、僕の視界を大きな身体が遮った。
大柄の体躯に極限まで詰め込んだ筋肉が瞬間に軋んで、力なく崩れてゆく。五発の銃弾を受け止めたそれが地面にすべてが落ち切ると、開かれた視界の先で黒い悪魔が無様に泣き叫んだ。
駆け出そうと動く身体をスーツ姿の男たちが殴り落とした。
「赤飛」沈んだ身体を爪先で揺すると、小さな眸が微かに揺れる。
いつだってその悲しそうに揺れる眸は縋るように僕を見詰めるのだ。愛してくれと泣き叫ぶように僕を捕らえて離さない。どんなに酷く扱っても赤飛が僕を見限る事はしなかった。十五年の長い時間をすべて僕に捧げて生きた。
「お前のそういう所が嫌いなんだよ。……赤飛、縋るお前は醜い」
吐き付ければ赤飛は幸福そうに微笑んだ。
きみがいない
(かみさまのいない世界で)
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
4 / 7