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一章「04:それでいい」
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※暴力描写を含みます。
side:柄長類
彼は俺に問いかけた。「こんなオヤジのどこがいいのだ」と。
例えば俺が彼を想う気持ちを言葉にすれば或いは彼を手に入れる事が出来るのなら、俺はいくらでもこの感情に名前を付けよう。だが俺の持つそれは恋と呼ぶには薄情で、愛と呼ぶには白々しい。
どこが好きかと問う事は、なぜ生きるのかと尋ねる事に似ている。
そこに正解などないのだから。
「縋るお前は醜い」と、暗闇の中で憎らしい声が響く。
ここが夢の中だと理解するのは簡単だった。伸ばす腕は途端に腐り落ち、その憎らしい声が喉の奥を掻き毟る。身体を無数の腕が引き摺って、視界を閉ざすのだ。足下は頭蓋骨で埋められていた。
求めなければ失わずに済むだろう、反響する声を振り返ればそこには俺と同じ顔をした男が死人のような眸でにたりと笑った。「後悔するのは穢れた腕をそれでも伸ばすからだ」男の輪郭はたちまち溶けて黒い液体へと変わり俺の足の裏に張り付いた。
追ってくる。どこまでも、その影が俺を追い掛ける。
見開く眸にねじ込む黒い微笑みが、俺を指差した。「お前は、なぜ生きる?」
視界の中で四角い空が白んで輝く。
マンションの一室と思われた。爽やかな目覚めには程遠い、不愉快な痛みの残る朝日だった。痛む後頭部を擦りながら身体を起こせば首に巻き付いた鎖が皮膚を噛む。
どれ程の時間を眠っていたのか。微かに記憶を燻る夢の欠片が脳を指した。
「目覚めはいかがかな、柄長くん」背後に響く声を振り返る。
硝子の扉にもたれ掛かる鳥居隈貴がこちらを見下ろして目を細めた。白いシャツの前ボタンを外して露出した薄い胸板が朝日の中で白く光り、どこか気怠い表情はまるで情事後のそれのように妖艶だった。
「俺は犬かよ、首輪なんて着けやがって」
「ケダモノにはお似合いさ」
「へ、悪魔の次はケダモノかよ。人の事を勝手に化け物みたいに扱いやがって。俺はしがない三十三歳の善良なる一般市民だっつーの」
「それだけ喋れるなら医者は要らないね」
爪先が尖った鳥居の革靴が煙草の箱を踏みつぶす。白地に黒いドットの入ったパッケージに俺は顔を顰めた。「俺の煙草じゃねーか」声を尖らせると「もう要らないでしょ」鳥居は楽しそうに微笑む。
溜息に頭を擡げて俺は頭を掻いた。円形の絨毯はコンクリートの堅さを和らげる程に分厚く、濃い灰色の部屋にはよく映えた。首に巻かれた鎖は特大の錠前でテラスの柵に繋がれており、全開の窓からは冷たい冷気が吹き込んだ。視界は高く、この部屋が高層階に存在している事は理解できる。「逃げ道がねーな」俺が暢気に呟けば「それこそ必要ないよ」と笑い声が帰ってきた。
「それなりの持て成しはしてくれるのか? 俺は持て成しには煩いぜ」
「お気に召せばいいけどね」
「楽しみだ」
足を崩した俺の目の前へ鳥居は腕時計を投げ放った。長い毛先を持つ絨毯にも埋もれる事がない大きなものだ。金色のベルトは歪な輝きを持ち、文字盤には趣味の悪い宝石が散っている。見覚えのあるものだった。
そいつは強欲な男だった。人の良さそうな薄顔で微笑むと人は容易く騙される。特に年寄りは簡単だと、男は得意げに鼻を高くする。打算的で狡猾な男だったが、反面に気性が荒かった印象がある。そんな男が自身の成功を誇示する為に好んで着けた高価な腕時計が、それだった。
「そうか、田所は死んだか」声を潜める。
「君の所為でね」
「線香くらいあげてやらなきゃな」
「無駄だよ。今頃はミンチになって魚の餌さ」
得意げな声音をはっと睨み付けた。鳥居の表情は微かに引き攣って、両眉を引き上げる。唾を吐くように冷めた口振りが不機嫌に声音を凄ませた。
「まさか、可哀想とか思っているの?」
不快そうに歪む表情はなのに綺麗だった。
鼻筋の通った小鼻に皺が浮き、目頭には深い影が落ちる。黒目がちな眸が小さく見開くとその表情は刺々しい笑みを刻み込む。その姿はまるで羅刹のよう。
「なにを苛ついている?」尋ねると幼さの残る表情は人間臭く変わった。
「田所を殺したのは君だよ」
「だろうな。使い捨てるつもりで利用した。だが、だからといって笑い飛ばす気にはならない。人が死ぬってのは、そんな簡単な事じゃないだろう?」
吐いた言葉の先で鳥居の表情は途端に青ざめた。
酷く歪んだ顔が、それでも綺麗だ。大きな眸は朝日を多分に取り込んでぎらつく。いつだったか、鳥居を羅刹と喩える人がいた。『その姿はまるで地に落ちた羅刹のよう』――、或いはその美しさが人間離れしていると言いたかっただけなのかもしれない。しかし、けれどそれでは余りに惨たらしいではないか。
「君がそれを言うんだ」寂しげに呟く鳥居は、容易く傷付く。
それは羅刹か、それとも愚鈍な王か。だが、俺の言葉に酷く傷付く様は王と呼ぶには稚拙で、ただ泥の中で助けを求め足掻く子供のように見えた。もしも彼が本当にただ玉座に君臨するだけの暴君ならば、こんなにも悲しい眸もせずに済んだだろう。
「ふ、期待に添わない言葉で傷付いちゃったか?」
「君って本当に白々しいね。いっそ、その軽薄な口を縫い付けてあげようか」
「ははは。『壊れない玩具』を他人に壊されて王様はショック受けちゃったようだ」
「本当に、ムカつくな。……君は人を苛つかせる天才だよ」
「ならアンコールに応えてもう一言いいかな、王様?」
「……もう喋らなくていいよ。本当に殺してしまいそうだ」
「そう言わずに聴いてけよ、王様。――ふ、死にたいと願いなら生きても死んだようにしか生きられないぜ? 生きる事から逃げるお前は醜い」
刹那に銃声が響く。
絨毯を焦がした銃弾は、俺の足下で細い煙を上らせる。「人のものを勝手に使うなよ」凄める声音の先端で鳥居はおぞましい程の微笑みを浮かべて目尻を吊り上げた。
「天使が羽根をもがれると悪魔になるなら、悪魔の羽根を奪うと『なに』になるのかな?」
「……――『人間』だよ」
「なら早く落ちてくるといい。僕の所まで」
密やかな声音が静かな怒りを奏でて、微笑みのままに背を向ける。
例えば人が誰かをなにかに喩えるとき、そこには何が含まれるのだろうか。人は説明のつかない存在を恐れる。災害、天変地異、才能を持った人間に対しても。それらに名前を与えれば或いはその不条理を説明が出来ると思うのか。すべての物事に一つずつ名前を与えていけば、世界が綺麗に整頓されるとでもいうのか。
そんな筈はない。
「人間はどこまで落ちても人間だよ」鳴らした言葉は鳥居の背中には届かなかった。
取り残された空間に、途方もない静寂が落ちる。
掌に残る五回の銃声。瞼を閉じれば鮮明に蘇る赤い景色。火花の先で沈んだ大きな体躯に重なった自身の無様な叫び声。眼窩を焼くとても優しい微笑みばかりが俺を突き放す。彼に一瞥すら与えられず、伸ばした腕も届かない哀れで惨めな自身。
自分を恨む時間だけが途方にある。この静寂はあまりに痛い。けれど、どれ程胸が痛んでも、いくら自身を恨んでも、俺は。
「生きてやるさ。そうして何度だってあんたに手を伸ばしてやる」乾いた舌を鳴らせば鱗が無理に剥がれる音がした。
数刻の時間を静寂の中で過ごした俺に対面したのは三人の男。
大きく分厚い身体を窮屈そうにスーツに納めて、物々しい顔が鼻息も荒く眸をぎらつかせた。大きさだけなら赤飛さんにも引けをとらないだろう。だが、やはり赤飛さんとは違って迫力に欠ける。もしも彼にこうして睨まれれば途端に鳩尾が震えあがる。
奴らに怖さなど感じなかった。
「殺す気でこいよ、クソガキども。さもないと食っちまうぞ」
口端に笑みを作るが、言葉が鳴り止む前に大きな拳が頬を殴った。瞬間に視界が白く爆ぜて、後頭部が悲鳴を上げる。体勢を整える間もなく俺の頬を打ち抜いた拳が身体の反対側から裏を向いて出戻ってくる。太い腕が俺の首に直撃して、俺はそのまま後方へと吹き飛ばされた。
重なった硝子窓へと背中から飛び込んだ俺の身体がそれに触れた途端に、硝子片が飛び散って皮膚を劈いた。尖った破片は肉に刺さり、深く切り裂く。鈍いその音が脊髄を伝い、内部から鼓膜を揺さぶる。
生々しい音が耳鳴りのようにいつまでも三半規管に反響して、目眩がした。
「だから、どうした?」喉の奥で呟いた。耳鳴りなんて『あの頃』からずっと鳴っている。目眩も頭痛も、胸糞の悪さもいつまで経っても消えやしない。「それでも抱えて生きるんだよ」一人で喋る俺を高い場所から笑う男たちへ笑みを飛ばした。
不機嫌に眉を歪めた男が胸倉を掴んだ頃、俺は男の首に飛び付いた。身体を揺さぶって俺を引き離そうとする男の右耳へと噛み付く。短い悲鳴が鳴った刹那に腕を使って再び後方へと吹き飛ばされた。
床に散らばる硝子片と皮膚の擦れ合う音の中、咥内で男の耳の欠片がぐちゃり、と歪な音色を奏でる。――暗闇はいつも問いかける。「なぜ生きるのだ」と。
生きた分だけ重たくなる身体を引き摺って、俺は何度もそれに答えた。時には鼻先で笑い飛ばした事もあった。たまには躓く事もあったかもしれない。それでも俺はいうのだ。探して見つかる程度の存在意義になんの意味があるのだ、と。斜に構えた笑みをまるで化け物でも見るかのような怯えた眸が見詰め返す。
身体を揺さぶって立ち上がる俺を見る男たちは表情を硬くさせた。
「前戯は終わったか?」軽薄に笑う俺の頬を男の拳が殴り飛ばした。
生きる事は愛する人を殺す事に似ている。答えなんて見えないのに痛みだけがそこにある。未来はいつでも薄情だ。
*********
赤かった絨毯が俺を中心に黒く変色し、いまでは固い突起物になっている。
時計がない事に苛ついたのは三日目の昼で、五日目の夜は肋骨が折れた。十日目にはいつ太陽が昇ったのかも解らなくなって、首輪が外されたのがいつだったかも、いまとなってはどうでもいい。
最初は赤く腫れ上がっていた身体は黒ずんだ痣になった。どこかの骨が折れている事は解るが、痛みしかない身体ではどこが折れているのかも定かではない。
「気分はいかが? 柄長くん」
弾んだ声音が酷く白々しい。這い蹲るような格好で俯せに転がる俺の前髪を乱暴に掴んで、強引に首を反らせる。無理に見上げる体勢が潰れた喉には酷く不快できつく睨み付けた。
「やっとボスの登場か。待ち侘びたよ」嗄れ声が間抜けに響いた。
男の一人が鳥居に声を掛けるが吐き終わる前に翳された掌に遮られる。背中越しに払うような手つきを見せる鳥居を男たちは恨めしく睨み付けて、けれど酷く悔しそうに奥歯を噛んだまま部屋を立ち退いた。
「この二週間で随分と君に情が沸いたようだ」鳥居は声を細めた。
「ストックホルム症候群で病院にぶち込んでやれよ」
「そうするよ」喉の奥で笑いを噛み殺す。
動かない身体をそれでも強引に起こして、俺は鳥居の手を払いのけた。立て膝に腕を置いて自身を支える俺に鳥居は驚いたような無邪気な声を響かせる。
「へえ、まだ動けるんだ。ねえ、この二週間どうだった?」
「まあまあな持て成しだったよ。だが、気に入らない。お前ならもっとキツい拷問も知っているだろう? なぜ『ただ殴らせる』なんて事をさせた?」
乱暴な言葉に鳥居は含んだ笑みを浮かべるだけだった。
すべての前ボタンが取れたシャツの、はだけた隙間から冷たい風が吹き込んでくるが熱を持って火照った身体には心地いい。吐き捨てた唾は赤く、黒ずんだ絨毯に溶けて消えた。
沈黙の時間はそう長くなかったが妙に惜しく感じた。弾んだ声音が呟いた言葉がさらにそれを感じさせた。
「僕は君を理解したい」含みを持った声音だ。
愉悦に浸るような表情には辟易すら感じる。鳥居が持ち込んだアタッシュケースを頭上で開くと、中から大量の紙がこぼれ落ちて目の前に積もってゆく。散らばった紙のすべてを埋め尽くす程の文字に目を細めた。
「わざわざ全部調べたのかよ」すり潰した声を、得意げな微笑みが迎えた。
「僕がこんなにも人に執着したのは初めてだよ。やっぱり君には才能がある」
「へえ、なんの才能だよ」
「人を狂わせる才能、かな」
揃えた爪先の上に座って鳥居は一枚の紙を目の前に拾った。
そこに刻まれた懐かしい名前に胸がざわめく。鳥居の満足げな表情も相まって随分と俺の神経を逆撫でた。この程度で揺さぶられる俺自身も腹立たしい。「随分と懐かしい名前だ」苛立ちがそのまま声に乗った事が俺を余計に不機嫌にさせた。
「君は両親に捨てられた。借金をした挙げ句、君を置き去りに夜逃げ。そして君は『この男』に拾われた。ねえ、この男はもしかして君の初恋の人?」
「冗談だろ、それ。あんな頭のネジが飛んだイカレ野郎に惚れる訳がない」
「だよね。だってこの男は君が殺したんだもの」
「……ああ、そうだ」喉の奥で声をすり潰した。
その男は俺が最初に殺した男だった。頭のネジが飛んだイカレ野郎。肩がぶつかった、それだけの理由で人を殺せるような人間だった。八歳の頃に出会い、十四歳まで共に生きたが殺しても俺はなにも感じなかった。
この世界は狂っていないと生きられない、男が教えた通りに俺は狂っていた。
「なんで殺したの?」
鳥居は声を弾ませる。子供じみた愛らしい微笑みが無邪気に問いかける。ここまで調べて、それを知らない筈がなかったが鳥居はどうやら俺の口で理由を語らせたかったらしい。それで俺の感情を揺さぶる事が出来る、と。
「肩がぶつかったからだよ」
睨み付けた瞬間、鳥居は身体を大きく軋ませた。
酷く青ざめた表情からは微笑みが消え、その眸には怯えの色が見て取れた。まるで、化け物でも見るかのような眸だ。俺はいま、どんな顔をしているのだろうか。
鳥居には俺が化け物に見えるのか?
俺は、化け物か?
「俺が怖いか、鳥居。これはお前が引き出したんだぞ」
「……怖い? まさか。見取れていただけだよ」
震えた声がそれでも気丈に微笑んだ。「そうかよ」目線をそらせば、鳥居は短い溜息を振るわせる。最初に鳥居を見た瞬間、俺は鳥居に『その男』の姿を重ねていた。容姿も言動もまるで違うのに、時折見せる微笑みがとても似ていると思った。
あの男も、いつもそうして笑っていた。
「柄長くんは、どうして生きているの?」
弱々しい声音が視界の外で鳴った。振り向けば鳥居は悲しそうな微笑みで俺を見詰めている。大きな眸の輪郭が微かに揺らいだ。
「命の恩人を殺して、最愛の赤飛を撃って、君はそれでも生きている。死ぬ事も出来たのに、なのに生きている。……どうして?」
「生きる事に、理由なんているのか」
問い返すと微笑みから血の気が引いた。
小さく見開く眸が途端に潤んで、けれども懸命に声を奮い起こす。か細く震えた輪郭がさらに問いかける。
「生きるには、理由が必要だよ」
「要らないだろ。いま生きている、それだけだ」
「冗談だよね、それ。生きるのはそんな簡単な事じゃない。そうやって割り切れないから苦しいんだ。君は、だって親に捨てられた。殺し屋だった恩人も殺して、君自身も殺し屋になった。それにはちゃんと理由があるはずだ。理由がないと、……そうじゃなきゃ人は容易く壊れてしまうじゃないか」
絞り出される声音が悲しく鳴る。「嘘吐かないでよ」悲しそうに震える微笑みが膝を崩して縋るように俺の胸倉を掴んだ。
「鳥居。……そんなに鳴いても『親鳥』は戻ってこないぞ」
言った瞬間に鳥居の大きな掌が頬を殴った。
弱々しい力は、俺の身体に痣を刻んだ男たちの半分にも満たないものだ。小刻みに震える指先がなおも拳を作り、頭上へと振り上げられる。だが、その拳は宙を彷徨うだけで一向に降りてこなかった。
「自分だけが不幸だと思っているなら、お前は頭が悪い」
「……君を、理解できるのは僕だけだ」
「だから俺にもお前を理解しろと?」
「君は『希望』なんだろう? 希望の名前を持った悪魔、大層な名前だ。……君が本当に希望というのなら、僕を救ってみせてよ」
掴んだシャツを引き寄せて、鳥居は健気に微笑む。
両親を目の前で失った子供が背負うには『この世界』は余りに惨い。子供である事すら許されず、けれど子供だと嘲られる。何度も裏切られ、見捨てられて、それでもこの世界から逃げる術もなく静かに狂ってゆく自分を眺める事しか出来ない。
それが絶望なら或いは救われたかもしれない。
けれど、絶望と呼ぶにはこの世界は余りに悲しい。
「希望は救いじゃない。そんなに救われたいなら神様にでもお願いしてみろよ。ただの人間を悪魔だの希望だのと本気で思えるのなら、簡単だろう」
乱暴に吐き捨てた言葉に鳥居は深く瞬いた。
離れてゆく腕を、今度は俺が引き寄せた。「勝手に希望なんてもんを俺に押し付けるな!」荒らげた声を見開いた眸がじっと見詰めて、小さく歪む。
「うんざりなんだよ、どいつもこいつも勝手な事いいやがって。俺になにを求める? 俺は俺だ。俺には『柄長類』って名前があるんだ。死にたきゃ勝手に死ね。お前が後ろでどんなに泣き叫ぼうと俺は前に進むだけだ。誰が死のうが俺には関係ない」
張り上げる自身の声を、脳内の俺が鼻で笑い飛ばす。寒々しい台詞は何度吐こうと寒々しさに代わりない。なぜ生きるのか、幾度となく繰り返すその問いに例えば何回答えれば人は救われるのだろう。死にたければ死ねばいい、生きたければ生きればいい。そんな簡単な答えを聞く為に人は悩み苦しむ。
それが求めるものは『生きる意味』か、或いは『生きてもいい理由』か。
なぜ生きる事に証明や許しが必要なのだ。生きる為に生きる、そこには答えも理由もないじゃないか。
力任せに胸元へと引き寄せた鳥居の腕がまるで死体のように冷たく凍えている。青白い表情は小刻みに震えて、なのにとても綺麗な微笑みを浮かべる。狂った世界を生きる為に自ら狂う事を選んだ男、本当は頭のどこかで理解していた。この男は本来、同情に値する人間だと。親の死を目撃した子供。本当は親と一緒に死ねる筈だった子供。きっと何度も繰り返したのだろう。『あの時、死んでいれば』何度も、何度もその言葉を繰り返して生きてきたのだろう。
だけど、だからなんだというのだ。
「お前がどんなに可哀想な子供でも、お前が赤飛さんを玩具にしていい理由にはならない」
「……はは、それを言われると、言い訳のしようがないね」
「俺はお前が嫌いだ。赤飛さんが好きだ。それ以上も以下もない」
「君は、いいね。単純で」
一度、大きく見開いた眸が柔らかく細められて鳥居は幸福そうに声を鳴らした。崩れ落ちるようにその場に座り込んでから鳥居は瞼を伏せる。長い睫がふるり、揺れて持ち上がった。
「赤飛は生きているよ」静かに放つ。
いまも眼窩を焼く光景が途端に眼球の裏で燻った。その名前がどんな時も俺を奮い立たせる。「赤飛さん」呟けば視界は華やぎ、血管が膨らむ。体内を流れる血液が熱く、煮えるように身体を火照らせた。
「ねえ、君はどうして赤飛が好きなの? あいつに意思はない。君のいうように、あいつは僕の玩具だ。それだけの男。その為だけに生きてきた男。君の想いは決して報われない。なのに、君はあいつを好きだという。なぜ? ……それとも、好きと思う気持ちにすら理由はないと君はいうのかな?」
視線を尖らせる鳥居に、俺はなにも答えなかった。
口元で笑みを作り満足げに吐息を漏らすと鳥居は一枚の紙を俺の前へと差し出した。角張った手書きの文字が指し示す場所に俺ははっと頭を持ちあげる。「鳥居」声を投げた先にはもう、鳥居の姿はなかった。
*********
選択肢は無限にある。
問いを向けられる度に俺は目移りして、いくらでも惑うのだ。それは正解なのか、沸き上がる疑問すらもまた選択肢を増やすだけだ。取捨選択、執拗に繰り返す反復作業は容易く俺の感覚を狂わせる。自身の吐く言葉のどこに真実が含まれているかも、解らなくなる程に。
夜の街はネオンに溢れて、視界がぐっと白んだ。
皮膚は冷たいのに、身体の芯が熱く火照って苦しかった。動く度に疼く傷口が、激痛を持って鋭く肉に食い込むようだ。支えがないと自身の身体を支える事もかなわない。踏み出す歩幅は狭く、足裏を路面に擦るように前へと進む姿はまるでB級映画のゾンビのよう。
動かない身体に比例して、気持ちばかりが急いてしまう。
脳内はまるで静寂の湖面のように静かだが、その下で鋭い海流のような思考がしきりに信号を送り出す。早く、もっと早く、一秒でも早く――、リンパ管を駆け抜ける電流はどこか絶望に似ていた。
街中を抜けた瞬間に視界がぱっと開けた。その中央で一際に大きな建物がそびえている。暗闇に佇む姿は塔のように高く伸びて、白く無機質なそれは墓標の姿を思わせた。辿り着くまでにどれ程の時間を要したのか、建物の背後で光を含んだ東の空が唯一朝を告げる。
その中は冷たい空気にシンと静まり、厳かな雰囲気にみなが口を噤んでいるようだ。
ひたり、物音に視線を背後へ飛ばすが自身の足音だとすぐに理解した。首筋を冷たい汗が伝う。鳩尾が凍えるような錯覚が胃液を押し上げる。耳の裏に吹き出す汗が、やはり冷たい。これではまるで怯えているようだ、苦く笑った。
「――――赤飛さん」呟いた瞬間、体温が一度ほど下がった。
硝子窓に遮られた大きな室内を廊下から覗き込む。窓に触れると指先が這った場所に黒ずんだ筋が通った。空白のベッドを挟んだ最奥に彼は眠っていた。幾つもの管に繋がれた身体は長い時間をそこで過ごしている事が見て取れる。ぴくりとも動かない身体は青白く、血の気の引いた肌が一筋の朝日を含んで光っていた。
なんて美しい光景だろうか、感嘆に毛穴が開く感覚を身震いすると同時に胸が痛んだ。「ああ」と声を漏らして眸を見開いた。後悔はいつも優しい。自身へと募る悔恨だけが逃げ道を作っては俺を誘う。もう楽になろう、そう言って腕を引くのだ。
逃げ出してもいい理由がそこにあった。
「赤飛さん、どうしてだ」呟く名前が俺から体温を奪ってゆく。
溢れる言葉は鳴り止む前に嗚咽に途切れた。どうしてと問えば「役目だから」と帰ってくるだろう。彼の人生は自己犠牲の元に成り立つ。乱れを知らない前髪が額に項垂れても、彼の横顔はどこか誇らしげだ。
それが彼の生きる理由とでもいうのか。
憎くて堪らないのだ。彼の喉の奥へと射し込まれた管が生命線ならば、いっそ引き抜いてしまいたい。その誇らしげな横顔も、自己犠牲を謳う人生も、そのすべてが憎くて堪らない。
彼に焦がれる程に、彼を想う程に俺が醜く汚れてゆく。
ただ傷付けたかった。傷付けてみたかった。美しい彼が人間臭く足掻く姿を見てみたかったのだ。だけど、解っている。……――「こんなにも好きなのに、殺したいなんて狂っている」
弾き上げた輪郭に水滴が伝う。
縋るように指を這わした硝子には黒い手形が付き、映る自身の姿はまるで影のように黒かった。俺には俺の顔が見えない。鏡に向かってもそこには黒い影が映るばかり。
胸膜を揺さぶる嗚咽すらも、ただ肺を黒く染めてゆく。俺が吐き出す言葉に真実などないのだ。「大好きなんだ」繰り返し呟く言葉にも、きっと。
「好きな人間を意味もなく傷付けたい人間なんているもんか。……こんなにも好きなのに、あんたは振り向かないじゃないか」
絞り出す声がか細く震える。伏せた視線をそろそろと持ち上げればそこには誇らしげな彼の姿が変わらずにある。いっそ、その管を引き抜いてしまおうか。耳障りな鼓動音をこの手で止めてしまおうか。
好きだからこそ傷付けたいのだ。
好きだから、俺以外に傷付けられたくないのだ。
「この気持ちが恋じゃないのなら、あまりにも惨いじゃないか」
刹那に硝子へ映った俺の背後に人影が見えた。まるで俺と同じ姿をした男が俺を指差し笑ったのだ。咄嗟に振り返るがそこには誰もおらず、静寂の空間だけがとぼけ顔で俺を包む。
途方もなく、笑い声が漏れた。
硝子に背を預けてそのまま滑り落ちる。廊下を這うと黒い手形が跡を伝う。「この姿のどこが悪魔だって?」力もなく吐き捨てた。
硝子に対面した壁際へと這って進み、もたれ掛かった。俺は無様だ。ここにあるのは自分の顔すらも忘れ、腐った身体で這いずるだけのゾンビだけだ。伸ばしても届かないものに焦がれ続ければ少しは人間になれた気がした。
「ああ、なんて痛いんだ」
身を捩った刹那、俺は意識を手放した。
目を覚ました瞬間に身体を弾き起こして部屋を見渡した。
乱雑に積まれた荷物に白い布を被せてあり、棚には未開封の治療用品が箱のまま並んでいる。この部屋には見覚えがあった。五年前に仕事をした時に赤飛さんが連れてきた部屋だ。古い病室をその時分から倉庫として使っている、と彼が自慢げに話していた事をよく覚えている。
この病院とは懇意にしている、彼はそう語った。
東棟の奥に当たる部屋だ。棚の位置、そして匂いすら五年前のあの頃のままだ。懐かしさの後を追って心臓がみしりと痛む。楽しげに微笑む彼の姿は、射し込む西日に照らされて輝いていた。まるであの頃を思い起こさせるように窓には西日が見える。
頭上にぶら下がる点滴袋すら、その当時を思わせた。
「僕が見付けたからよかったもの」
苦みの強い、すり潰すような声に再び部屋を見渡した。すると扉の隙間からこちらを覗き込む視線と目が合う。部屋に唯一存在する出入り口の隙間には眼鏡越しの片目が睨む。「お前は妖怪か」からかう口振りの俺をその男は溜息と共に鼻先で笑い飛ばした。
「手当てしてあげたんだから感謝してよね」
「お前がこの傷作った張本人だろ。当然だ、クソガキ」
「ふふ、冷たい人」
口先で笑みを含ませた鳥居は部屋の中央まで一気に入り込むと俺の目の前で静かに立ち塞いだ。頭上から覗くように見下ろす眸は熱く火照りを持って視線を飛ばす。言葉を含めた口の形を作るがなにも語らない、そんな静寂の時間が暫く続いた。
「お見舞い。君の為に花を買ってきてあげたよ」
突然と声音を弾ませて鳥居は眼前に花束を伸ばした。黄色の小さな花弁が力一杯に開いた姿をさも愛しげに見詰める鳥居は口先で声を滑らせる。「ガーベラだよ」
「花の名前に興味ねーよ」
「ガーベラの花言葉は究極愛と親しみやすさ、君はどっちも持ってないからよく見習うといいよ」
「嫌味かよ」
けっ、と唾を吐くと鳥居は楽しげに肩を揺らせた。「君の為」そんな言葉をわざとらしく選んで白々しく笑う姿はどこか幼い。それは悪戯が成功した時の子供の微笑みだ。棘もなくただ純粋に楽しむだけの。
そのあどけない微笑みには少し面食らった。
まるであの人のようだ、脳裏を掠めたそんな言葉に苦く奥歯を噛む。俺と『あの人』が初めて出会った時の事を思い出した。長い麻色の髪を風に揺らして、大人のくせに浮かぶ悪戯な微笑みは子供のようにあどけない。弾んだ声音に、無邪気な眸、――そうだ。俺はその一瞬で、あの人の笑顔に夢中になった。
遊び相手を見付けた、そんな気分がした。
受け取った花束を無言で眺める俺を、鳥居は不思議そうに尋ねた。「ガーベラ、見るの初めてなの?」口先を尖らせて目を丸める。「そうじゃないさ」と、にやけた口元で笑みを吹く。
「花を貰ったのは初めての経験だ」
くすぐったさに肩を竦める。閉じた瞼をゆっくりと持ち上げて、再び花束へと視線を落とす。掌に溢れる黄色の束から香り立つ甘い匂いは、角もなく鼻孔を擽った。鮮明で、柔らかな発色が押し寄せる。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
「次は、現金にしてくれ」真面目ぶって言えば鳥居は声をあげて笑った。
仄かな静寂を無言のまま飲み込むと、鳥居は穏やかな口調で告げた。挑発も、煽りもない静かな面持ちだ。視界の隅で、そうして鳥居はいうのだ。
「僕のものになってよ」
酷く真面目にいうものだから、俺は笑うタイミングを逃した。
「こんなにも夢中になったのは初めてなんだ。僕は君が欲しい。僕を愛してよ。そうすれば僕も君を愛してあげるから。――君が赤飛を思うよりもずっと多く、僕を愛して?」
鳥居の口振りはまるで、愛を疑わない子供のようで。無償の愛があると信じたい大人のようで、縋るような視線が痛々しかった。「冗談だろ、それ」笑えば鳥居は酷く傷付いた表情をみせた。
「俺はお前が嫌いだ。前にも言ったろ。それに相手が愛せば自分も愛せるなんて傲慢な男を誰が好きになるんだ?」
「僕はしつこいよ? 逃げるなら地獄の果てまで追い掛けて君を殺す。僕を愛さない人間なんてみんな死ねばいいんだ。だから」
「だから俺もお前を愛せってか? 馬鹿だろ、お前。やっぱり俺はお前が嫌いだ。そんで、赤飛さんが好きだ。それ以上も以下もない」
「どうして」
「ふ、擦り切れるくらい首を洗って待ってろ、クソガキ。今度は俺がちゃんと殺してやるよ」
点滴の針を抜き取って鳥居の顔に向かい投げ捨てた。
薄く細い身体の前に立てば鳥居は不機嫌に眉を歪める。「どうして」再び問う言葉に俺はなにも答えなかった。鳥居の頭へ向けて伸ばした腕を途中で止めて、俺は誤魔化すように手を振るう。殺してやるよ、そんな熱を持たない言葉だけが優しい。
「禿げるくらい悩め、ばーか」
中指を立てて舌を見せた。
すると鳥居は苦い笑みを吹き出して「お前が禿げろ」と同様に中指を立てた。
鮮やかな黄色が灰色に輝く。微かに色付く景色をそれでも灰色は容易く塗り潰してしまうから。「赤飛さんを任せた」呟いても俺は振り返らない。
「僕が絶対に死なせない」
背後の言葉に俺は口元だけで笑みを作った。
開いた扉の先では待ち構えていたように黒い人影がにたりと笑う。俺と同じ姿のそいつは変わらぬ笑みで俺を指差すから「傷付いてなんかやらねーよ」声を潜めた。刹那に男は影へと溶けてゆき、俺の影と混ざって足裏へと張り付いた。
例えばそれが俺の贖罪というのなら、俺はただひたすらに生きてゆく。
優しい殺意が俺を殺すまで。
それでいい
(貴方の名前を口ずさむ、邪な僕をどうか神様)
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