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一
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―善右衛門―
暮れ六つになり、薬種問屋の店仕舞いをしていると、わざとらしく母さまのため息が聞こえてきた。
まただ。二十を過ぎた頃から日に何度も聞いているため息に、気分が滅入ってくる。もう一つ大きなため息を吐いて、母さまは口を開いた。
「善右衛門や、仕事や勉学に打ち込むのもいいですけどね、何か大切なことを忘れてやしないかい?」
「はて。何のことやら? 薬缶なら洗いましたし、当然火の始末も終わっています。火事は怖いですからね」
とぼけて返せば、またわざとらしいため息が返ってくる。
「もう春ですよ。外ではニャーニャーと猫が子作りを始めたというのに、善右衛門ときたら仕事にばかり打ち込んで。今日も呉服屋の娘さんがわざわざ理由をつけて会いにきたのに、文を貰ったまま読みもしない」
「ああ、急ぎの用ではなさそうでしたので、後ほど目を通すつもりでした」
「そんなことを言って。目を通してもろくに返事もしないでしょう。気まぐれに、『どこどこの娘さんと茶屋に行ってくる』と出て行ったかと思えば、本当にお茶を飲んで、菓子を食べただけで帰ってくる。母さまは情のうございますよ。まさか小半刻(三十分)の間に事を済ませたわけでもあるまいだろうし」
母さまはどうやら、私が色事に疎いことが余程心配らしい。こうして事あるごとにおなごと遊ぶことを催促してくるのだ。早く夫婦となる人を見つけて、子を作れと。
「そんな明け透けに催促されても困ります」
「明け透けに催促をさせてるのは善右衛門です! 全く。最近は二件先にある廻船問屋のおかみさんの、『倅の吉原通いが過ぎて困ってる』という言葉すら、自慢に聞こえてきますよ」
母さまは鬼気迫る顔で私に近付いてくると、縮緬の銭入れを手に握らせた。手の中でジャリンと小判の擦れる音がする。
「今夜は吉原に行って、どこかで夜鳴き蕎麦を食べてから帰ってらっしゃい。それまでは敷居を跨がせませんからね」
さぁさ、さぁさ、と女と思えぬ強い力で店から追い出された。背後でむなしく板戸が閉まる。夜鳴き蕎麦を食べて――って、夜が更けるまで帰ってくるなということか。
手の中の銭入れが再びジャリンと音を立てた。銭はある。おそらく十分すぎるほどにある。そもそも不自由なく遊べる程度には、普段から給金を貰っているのだ。だからといって、喜び勇んで吉原に行く男であれば、とっくのとうに行っている。
どうしようか。飯屋はもうすでに閉まっている。湯屋もあと一刻もしないうちに閉まってしまう。この時間に暇を潰せる場所など思いつかなかった。
仕方ない。吉原に行って、冷やかして帰ろう。おなごを買うつもりはないが、知らぬはずの吉原の様子を少しでも話せば、母さまも納得して下さるだろう。
夕餉を食べたら、師事している先生からお借りした蘭学の本を読むつもりだったのに。恨みがましく思いながら、閉まったままの戸を見据えた。おそらく母さまは、私が去るのを息をひそめて待っている。
母さまと同じようにわざとらしいため息を吐いて、一先ず北西にある浅草寺を目指すことにした。
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