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「社長」
ふと、それまで運転席で黙っていた秘書が、チラリとバックミラー越しに後部座席に視線を流した。
「あぁ。放っておいていい」
「よろしいのですか?」
「構わないよ」
「わかりました」
山岡にはよくわからない会話が終わり、千里が山岡の肩に触れた。
「え…」
「背を向けろ」
不意に、グイッと肩を押された山岡は、千里と反対の窓を見る形で、千里に背を向ける体勢になった。
「あの…?」
ゴソゴソと背後で千里の手が動くのを感じたと思ったら、ふと両手に自由が戻った。
「え?」
いきなり拘束を解かれ、わけがわからず、山岡は千里を振り返った。
「どうやら今日も私の負けらしい」
「あの、えっと…」
とにかくわけがわらからない山岡に、千里は薄く微笑んで、ドサッとシートに身を埋めた。
「死にたいわけじゃない…」
「っ…?」
「治せると言い切る医者がいるのなら、縋りたいさ…」
「日下部さん…」
「でも、違うのかもな」
「え?」
「治すのは…私、なのか」
フッと笑った千里は、そのまま静かに目を閉じた。
キキッとブレーキがかかる音がして、身体がガクンと前に揺れた。
「っ?!」
「鬼ごっこはお終いか」
フッと笑いながら目を開けた千里を、山岡は不思議そうに見つめた。
「千洋には黙っていてくれ」
ポツリと、不意に呟いた千里に、山岡は意味を取りかねて小さく首を傾げた。
「お迎えだ」
バタン、とドアが開く音がしたのは、運転席から秘書が下りた音だった。
続いて山岡が乗っている側のドアが外側から開けられた。
「え…?」
「どうぞ」
「え、あの…」
「逃げたいだろう?いいと言っている」
「え、でも…」
「あのワルガキコンビには敵わんなぁ。ここで引かなければ、今度はこの車でも壊されかねない」
ハハッと笑う千里が何を言っているのか、山岡はいまいちわかっていなかった。
「あの、えっと…」
「ふふ。いつの間に尾行につかれたのやら。まだまだ甘いぞ」
山岡を通り越して、外にいる秘書に告げた千里に、山岡はようやく状況が飲み込めてきた。
「申し訳ありません」
「それともわざとかな?」
「…いえ。そのようなことは決して」
深々と頭を下げる秘書を見てから、山岡は車内の千里を振り返った。
「行きなさい」
「っ…」
クイッと開いたドアに顎をしゃくる千里から目を引きはがし、山岡はそっと身体の向きを変えた。
「いいんですか?」
確か、2度と日下部の元には帰さないとか、情報を持ってしまったのにとか言っていなかったか。そのことを気にした山岡に、千里の小さな笑い声が聞こえた。
「老いたくはないものだ…」
ふふ、と笑う千里の言葉に、山岡の肩がピクリと揺れた。
(見たくないものが見えてきてしまう、か。山岡さんもよく言っていたな…)
初めほど千里から感じる敵意がなくなっていることに気づきながら、山岡はそっと車から足を降ろした。
「なぁ、きみは…」
「え…?」
「いや…。私は諦めないよ」
背後で、ポツリと呟いた千里の言葉の意味がどちらなのか、山岡にはわからなかった。
(命を?それとも日下部先生を?)
「日下部さん」
スッと車の外に降り立った山岡は、振り返って上半身を縮め、車内を覗き込んだ。
「もし、もし希望されるのなら…」
「なんだね?」
「セカンドオピニオンをお受けします」
「ほぉ?」
「守秘義務…負わせたら、オレ、口外できなくなりますよ」
きっと素直に依頼なんかしてこないだろう千里に、挑むように山岡は微笑んだ。
「っ…きみは」
「失礼します」
千里の答えを待たずに、ペコリと頭を下げた山岡は、パッと踵を返して千里に背を向けた。
「本物だと言うのか?本当に千洋を想って…?私が見くびっていたとでも?予想よりもずっと賢く、深く…」
ポツリと落ちた千里の声は、すでに駆け出してしまった山岡には聞こえなかった。
スルリと秘書の脇を通り抜け、どこかにいるらしい日下部を探してタタッと駆ける。
「海…?」
走りながら周囲を見た山岡は、随分と遠くまで連れてこられていたことに気がついた。
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