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そうして、どれくらいの沈黙が下りたか。
黙って千里が口を開くのを待っていた山岡の耳に、小さな吐息が聞こえてきた。
「ふぅ。私は、何千、何百という人間の生活を背負う経営者だからな」
「はぃ」
「勝ち目のない博打を打つような真似は、1度だってしてきたことがないんだ」
「はぃ…」
「打つのなら、確実に勝てる手を。この足が歩む道は、よりメリットが大きな方を。私はそうして選んできた」
ひとつ、ゆっくりと瞬きをして、千里がゆるりと微笑んだ。
「千洋はきっと、私が用意した椅子には、絶対に座らんな」
「日下部さん…」
「諦めようと思う。夢を、1つ」
穏やかに微笑む千里は、すでに何かを決意しているようだった。
「……」
「そして、諦めないでいようと思う。命を」
きりりとした目で、真っ直ぐに視線を向けた千里を、山岡は静かに受け止めた。
「諦めないでいようと思う…」
ゆっくりと瞼を伏せた千里が何を思っているのか、山岡にはなんとなくわかるような気がした。
「さてと。ところで山岡先生」
「はぃ」
「こちらに転院を希望したとして…そのとき、執刀医は、きみになるのかな?」
ん?と首を傾げた千里を見て、山岡は静かに微笑んだ。
「ご指名とあれば、切らせてもらいますが」
「千洋は?」
「そうですね。基本的には、身内のオペはしないものです」
「できないのか」
「いえ。当人同士がよろしければ、駄目ということはありません」
「そうか」
ふむ、と1つ頷いた千里が、何かを考えるようにしばし黙った。
「転院…なさるおつもりで?」
「いや。検討中だな」
「日下部先生は…」
「ん?」
「日下部先生は多分、切れないと思います」
ポツリと、山岡の口からは、思わず言葉が漏れていた。
「切れない?」
何故?と不思議そうな顔をしている千里に、山岡はハッと自分が口走った言葉に気づいて、口を手で覆った。
「いえ…すみません」
「山岡先生」
ピシリ、と逃げを許さない千里の声だった。
口を手のひらで覆ったままの山岡が、その声にピクリと震える。
「っ…」
「技術がないと?」
ジッと心の底を見透かすかのような千里の目を向けられ、山岡はゆっくりと口元から手を離し、小さく首を振った。
「いえ。技術に関しては、十分すぎるほどです。むしろ日下部先生以上の腕を求める方が難しいです」
「では何故」
疑問だ、と瞳を揺らす千里に、山岡はそっと目を伏せて、ポツリと口を開いた。
「父、だからです…」
「なんて?」
「あなたが、日下部先生の、お父様だからです」
スッと目を上げて、凜然と告げた山岡に、千里はますます不思議そうに首を傾げた。
「それが何か…」
さらに追求の手を伸ばそうとした千里は、山岡がただ静かに微笑んでいるのを見て、口を結んだ。
「きみという男は…」
「すみません」
「後は直接、千洋に聞けということか」
「申し訳ありません」
静かに微笑む山岡を見つめたまま、千里は参ったというように、ふらりと天井を仰ぎ見た。
「ふぅーっ…」
「……」
「話は、以上かね?」
「他に、疑問や質問がなければ」
「そうか…」
「はぃ」
またも、わずかな沈黙が、診察室内の空気を満たした。
ふと、次に静かな空気を割ったのは、千里の起こした小さな衣擦れの音だった。
「失礼するか」
「はぃ」
「治療は、する。入院も、手術も。転院は…少し考える」
「はぃ。前院と、それほど違う真新しいアプローチ法を提示できたわけではありませんので。敢えてこちらに移るメリットは特にないと思います」
「デメリットは…千洋に知れる、か?」
「そうですね。いくら特別室でも、うちの科の医師に隠し通すことは、さすがにできないかと」
「わかった。そういえば、あいつは?」
「え?」
「うちの秘書がいたろう?」
「あぁ、お会いしていきますか?もうICUも出て、病室に移っています。もうすぐ面会時間になりますし、お会いできますよ」
ニコリと微笑む山岡に頷いて、千里はゆっくりと椅子から立ち上がった。
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