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今日はここに帰ってきたのか。
この部屋の主は3日に1度くらいの頻度でここに来る。普段どこにいるのか、こういう部屋がいくつあるのか疑問に思うが知りたくない。別にどうでもいいのだ、この男のことは。
「7月に札幌にいくことにしたから」
ソファに寝そべったまま、顔をみることもなく告げる。視界は茶色いソファの背に向いているから僕には見るべきものがない、この部屋には……何もない。
「なんで?」
なんで?ときたか。僕の生まれた土地だ。帰る理由はたくさんあるだろう。
シュルシュルと音がする。ネクタイをはずしている、その音をぼんやり聞く。高校生の頃締めていた制服のネクタイは華奢なつくりで、すぐほつれた。当たり前のようにそれを身に着けて過ごした3年間。皆はネクタイをして会社というものに行っているのだろうか。
モリは土と格闘しているからネクタイは持っていないかもしれないな。
ユキは?と考えそうになる自分を押しとどめる。考えても仕方がないのに、ふとしたときいつもユキは浮き上がってくる。
スーツに合わせて買ったあのネクタイはどこにいったのだろう。この男がどこかに追いやってしまった僕の荷物の中にあるはずだ。当てこすりのように聞いてやろうと決めて少し気持ちが浮き上がる。でも僅かな間だけで気持ちはまた下がり始める。
堕ちたまま浮上もせず、諦めたり無気力だったり、結局マイナスの場所を行ったり来たりするだけの毎日。僕はなぜここにいるのだろうか。
「なんで?と俺が言ったのは聞こえたのか?」
うん、よく聞こえたよ。ハンガーがカタカタ鳴っているから、もうスーツは脱いだようだ。話をするなら何かしている時の方がマシだ。こっちを向けと言われながら何かを話すのは嫌い。僕の目には何も映っていないから。
この男は自分の姿が僕にとってなんの価値もないことを知っている。知っているくせに頑なに信じている。僕の心変わりを。
心変わり。僕が一番それを願っているというのに、自分の心はままならない。後悔と疑問が一緒くたになった想いは年月をかけて心に降り積もる。溶けもしなければ消えてもくれない。どんどん、どんどん、その重みは僕を沈め、水面に向かうことを許さない。
「友達が結婚するんだ。モリが来た時に『出席します』のハガキを持ち帰ったからね。僕は帰らなくちゃいけない。スーツを返してくれる?あとネクタイも」
「一緒にいく。まるで俺が盗んだような言い方だな、そう思わないか?」
ほらな、思った通り。こうなることはわかっていた。本当に面倒くさい。意図せずに僕は鼻で笑っていた。その音が聞こえたのだろう、すごい力で体が反転したから。
「なにがおかしい?」
おかしいだろう、何もかもだ。この男に引きずられるように連れてこられて、住んでいた部屋を勝手に引き払われた。自分の荷物がどこにあるのかも知らない。逃げ出せば見つかり、外に出れば誰かが付いてくる。
細かいエッセイやコラム程度の仕事しかしていないからPCの中身を見られても問題ない。メールは編集者とのやりとりのみ。助けを求めることを考えたが、相手に迷惑がかかってしまうだろうから止めた。誰も巻き込みたくなかったから。
でも、この男が居ない間に書いている、あれは見せられない。僕は毎日USBメモリースティックの隠し場所を変えて大事に守りつづけている。
ここから逃げても、きっとこの男に捕まるか、同じような人間に見つかるだけで何も変わらない。言い訳だろうか……でも、そうだとしたらここに居ても同じじゃないか?
1年くらいこんな状態を続けている。先生の言うとおり、僕はたくさんのものを無駄にしているようだ。
「おかしくないよ」
何も映りこんでいない視線を向けてやる。そうすれば、痛みの時間がやってくるから。僕は自分を傷つける勇気がない。でも傷が治っていく過程をみるのは好きだ。修復できない物はないと思えるからだ。元に……戻ると思えるからだ。
そのための男だ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな存在だから僕の心を変える力がない、君には。
僕はボロボロになればなるほどに、痛みを感じるほどに底に沈んでいく。本当に浮き上がれないほどの底に行きついてしまったら、そんなところまで行ってしまったら迎えにきてくれるかもしれないと……何故か思えるからだ。
迎えにきてくれるだろうか。
心の底からそれを望んでいる自分が哀れで……涙がこぼれた。
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