アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
<7>
-
「何回も言ったはずです。これは薬で治るものではない」
体中にちらばる鬱血のことを言っているのだろう。
「じゃあ、噛み傷に消毒液でも塗ってください」
先生は大きなため息をつく。医者が患者に向かってため息をつくのは、反則だろう。
「最近……熱は?」
先生は30代の半ばだろう。銀縁の眼鏡をかけ白衣を着ている。清潔な白いシャツとダークトーンのネクタイをいつもしっかり締めていて、首元を緩めている姿は一度も見たことがない。
「大丈夫です、無茶は……されていません」
「ハタケ大好き」を聞けない時間が僕を少しずつ壊していった。色々なことに無感動になり食べることを忘れ、泥のように眠るだけの日々。延々繰り返し思い出すユキのこと、そして自分の心。考えたり思い出すのは嫌なのに消えてくれない。だんだんそれにも疲れてしまった。結局自分はどっちなのか。ユキの『こっちにこれるか?』という問いに応えられる人間なのだろうか。
それを知りたかった僕は3年前、知らない男に初めて身を任せた。相手の顔はもう覚えていないが優しい男とはいえない部類だったのだろう。同性のSEXをよく知らないまま自分を投げ出した結果、身体が鉛のように重くなり発熱してしまった。
ふらふらしながら信号を渡ろうとボンヤリ見た先に「飯田クリニック」の看板が目に入り、とにかく楽になりたかったからドアを開けた。
それ以来、体調に問題がなくても病院に行く。先生と話をするのが唯一僕の落ち着ける時間になった。
ここ一年くらいは、体中に散らばるキスマークの残骸と、噛み痕、強くつねった内出血が混在する身体を先生に晒している。自分で見て怖気をふるうほど醜いこの肌を、先生は平然として受け止める。
そして思う、僕はまだ大丈夫かもしれない……と。
◇◇
『何か……そうですね、書いてみませんか?』
そう言ったのは先生だ。最初何を言われたのか全くわからず、次の言葉を待った。
『埋もれるに任せるなら、息ができるように少し掘り出してあげないと。自分のことを』
ユキから沢山借りて読んだおかげで言葉とはすんなり仲良くなれた。言葉の羅列は、難解、軽妙、厳か、暗い、明るい、様々なものを存在させていた。それは音と共通だったから、身体に入りやすかったのかもしれない。
世界に存在する言葉は僕を裏切らない。ただそれが自分に向けられた時、言葉によって心が鋭く抉られる。でも希望を捨てきれない。たった一言で天国に行けるような気持ちにさせてくれるのも言葉ではないかと。
何を望んでいるというのだ、いったい……
『そういうことです、それを残してみませんか?』
意味がわからず先生の顔を見返す。
『今、あなたは話をしている時よりたくさんの表情を浮かべましたよ。心を形にしてみてはどうですか?』
◇◇
自分を掘り出すことができるのか半信半疑のままポツポツと書き始めた。とりとめない文章がある程度まとまると先生に手渡す。
僕にとっては心の断片を言葉に置き換えたものでしかない。短い物語、詩のような感覚的な文章、日常にある瞬間を文章化したもの。内容は様々でまとまりがない文章が少しずつ増えていった。
出版社の編集をしている先生の友人に引合わされ、先生に渡していた原稿を「読ませていただけませんか」と言われて驚いた。
まとまりのなかったものを繋げて補う。自分のことであるのに他人事にしか思えない文章を言われるまま組み直す。僕の心の断片はストーリーに変化し、本というものに形をかえて万人に晒された。
何年も努力し、一生かかっても夢をかなえられずにいる人たちを差し置いて、こんな僕の言葉が本になっていいはずがないと最初お断りした。それに自分だと知られるのも嫌だった。結局は相手の熱意にほだされ、僕の名前はペンネームによって隠された。もちろん著者近影などというものも存在しないしプロフィールもない。
波多家俊哉ではない僕が生まれて、この本は少しだけ話題になった。綺麗だと言われ女性に人気らしい。この僕の空っぽの心の断片が綺麗だと言われることに、いまだに納得ができないでいる。
書けば自分の何かが整理されるかもしれないと先生は言った。少しだけ期待したが状況は何も変わらないままだ。僕の体は相変わらずひどいものだし、いっこうに心変わりもできないでいる。
でも少し変わったことがある。僕はユキに腹を立てていて、それを通り越して憎いとさえ思っている。それなのに憎み切れない。なぜそう思うのか……それはまだ僕がユキを必要としているからだ。
でもそれは夢のまた夢で、僕を迎えにくるはずもない。今まではずっと避け続けてきたけれど、今はそれを認める自分がいる。たしかに何かを吐き出したら底に沈んでいるものが浮き上がってきたのだろう。
憎いと思うほどに憎み切れず、逢いたいと思うのに叶わない。その悪循環は一つの物語に転嫁された。それが今コソコソしながら書き綴っている新作になるであろう小説で、それを守りたいと考えたら、思いつくところは一つしかなかった。
ポケットから取り出したUSBメモリースティックを先生に渡す。
「隠れて書くのは問題ないのですが、隠し場所に困るようになりました。パソコンの予備はありませんか?」
「私のオフィスに5年前のポンコツがありますよ。ワードなら問題なく使えるでしょう」
「ここで書きます。これで少し安心できる」
先生は不思議そうに僕に言った。
「私が断ることを想定していなかった?」
僕は正直に答える。
「先生は断われないと思います。僕を見るとき、先生は僕以外の何かを見ているので……そこにつけ込みました、ごめんなさい。でもこれを完結させないと、僕は後戻りばかりなのです」
先生はまた一つため息をつく。
「どうしてあなたほど聡明な人が自分を無駄に扱うのか理解できません」
そんなの簡単ですよ、自分に価値が見いだせないからです。イイコのハタケ君は実は空っぽなんです。そんな言葉を投げかけたところで先生が困るだけだ。
「よく言われました。モリが……あ、小学生の時からの友人が、ハタケは自己評価が低すぎると。そして僕が落ち込んだりヤサグレたりすると『ハタケ大好き』って言うんですよ。このあいだ久しぶりに逢ったんですが、5回くらい言われました」
それほど僕の有様が酷かったのだろう。1日に5回も言われたのは初めてだった。
「おあいこです」
眼鏡を外した後、顔をゴシゴシと両手でこする。顔をあげた先生は、眼鏡がないせいか若く見えることに驚いた。
「かつて救えなかった人の代わりにしているのでしょう。あなたが自分を取り戻したら、私は救われると期待してしまっている。たぶん、あなたの為ではなく自分の為です」
もしかしたらずっと言いたかったことなのかもしれない。でも自分から言い出したり、それを認めたりするのは苦しかったのか?
先生と何かを共有しているような気がした。それはきっと「後悔」だ。
「先生、後悔はいつになったら消えてくれるのでしょうか?」
「たぶん……薄れることはあっても消えることはないのでしょう。きっと」
先生は少し首をかしげて僕の後ろの壁を見詰める。僕はそのまま次の言葉を待った。
「同じことを繰り返さないように、消えることがないのが後悔です」
悔い改めよ。僕はずっとそう思ってきた。悔いてそれを善い方にもっていかなければならないと。『同じことを繰り返さなければいい』 この言葉は今の僕には大きな救いだ。もし、万に一つの「もし」だとしても、次があるのなら繰り返さなければいい。
「気が楽になるものですね、少しの違いで」
先生は少し微笑んで眼鏡に手をのばす。眼鏡をかけてしまえばいつもの医者の立場に戻ってしまうだろう。僕はその前に問いかけた。
「先生の救えなかった人って恋人ですか?」
先生は眼鏡をもったまま、またひとつため息。
「いえ……たった一人の兄です」
そう言って先生は眼鏡をかけた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
10 / 48