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先生に教えられたマンションはこれといって特徴のないありふれた建物だった。ドアノブをひねると、鍵がかかっていなかったので勝手に上り込む。
リビングにはソファとテーブルとテレビ。台所はあまり使われていない様子で、冷蔵庫を覗くとヨーグルトと果物しか入っていなかった。
寝室として使われていた部屋にはベッドだけ。建てつけのクローゼットを開けると左側には申し訳程度にシャツがぶらさがっている。右側にはスーツが2着、たぶんこれは吉川のものだろう。
下に置いてあるカゴには下着類、もう一つにはチノパンやジーパンのボトム類とTシャツがまるめられていた。
部屋の隅にノートパソコンが置いてある。
この生活感のまるでない部屋に1年もいたというのか?以前住んでいた時の荷物は、あの男が管理しているようだが、この部屋の寒々しさに勢いが削がれた。
時間は無駄にできない。部屋の中を次々写し始める。
『それほど時間はかかりませんよね?』
折り返しかけてきた電話の向こうでバーテンダーはそう言った。
「ああ、こっちの言うことに納得してくれれば5分で済むよ」
『……わかりました。では15:00に』
時計は間もなく15:00、5分で済めば万々歳。
玄関の開く音のあとに足音が続いた――予想に反して2つ。吉川以外の人間が一緒のようだ。
「勝手にあがりこむとは、相変わらず図々しいですね」
愉快そうに笑いながら言ったのは、あのバーテンダーだった。
「鍵は開いてたし、ソファに踏ん反り返ってないだけ、まだましだろう」
「じゃあ、私は座らせていただきます」
ソファの横にたったまま座らない吉川は、俺を見ようともしない。
「立った男二人に見下ろされるのは勘弁してほしいものですよ、まったく。吉川さんは座ってください」
吉川が触ったものなどに座れるかと思う。昨日の自分なら怒り狂ってこの時点で殴りかかっているだろうが、今は驚くほどに冷静だ。
「それで?」
「なんで、あんたがくっついてきた?」
煙草に火をつけて、煙をふうと吐き出し俺を見上げる。
「ご覧のとおり、吉川さんは無口ですから交渉事にはむいていません。
あなたと同じですよ。私、お節介なもので。それに仲介者であり立会人ですから最後まで見届ける必要がある」
座っている相手に立ったまま話をするのは落ち着かないが、向かい側の床に座る気にもならない。壁にもたれて吉川を見据える。
「シュンは俺が連れて帰る。このまま放っておいたら、何をされるかわからないからな。
だから俺達のことは忘れてくれ。以上だ」
「へえ」
「なんだよ」
背もたれに凭れたままタバコを咥えてニヤニヤしている。隣の吉川はピクリともしない。
「てっきり慰謝料……治療費?そんな要求だとばかり」
「金なんかいらないよ。放っておいてくれればいい」
うっかり金なんか貰えば厄介事から縁を切れなくなるじゃないか。
「約束はできない」
さすがヤクザと思わせる低くうなるような声で吉川はそう言った。冷たい頭の中に響いた声に恐怖は感じなかったが、代わりに怒りがこみ上げてくる。
「ヤクザ、一般人、堅気……そういう話じゃない。
好きな相手になんであんなことができるのか、同じ男として理解できない。約束できない?あんたで埒があかないなら、若頭さんでも組長さんにでも状況を説明して怒ってもらうしかないな」
吉川は勢いよく立ち上がり、こっちを睨みかえしてくる。睨んだからなんだ、それで俺が引くと思うのか?
ここでしっぽを巻いたら、7年前に逆戻りなんだよ、こっちは!
上着のポケットから写真をだしテーブルの上に放り投げる。できれば人目に晒したくないシュンの姿。
「波多家さん、よく撮らせましたね……こんな姿」
「言ったはずだ。あいつは恐ろしく自己評価が低いし、自分を捨て置く天才だ。写真を撮るといったら「好きにしてくれ」と言ったぐらいだからな」
「さて、意外とやっかいですね。写真があるとはね……いっそうのこと、あなたを此処で消してしまうこともできますよ?」
「ヤクザならともかく、バーテンダーのくせに脅しかよ。いいよ、それでも。こっちだってヤクザさん相手に話をするからには覚悟をしてここにいる。俺が死んだら、今度こそシュンは自分を消してしまうだろうな。だからどっちにしたって吉川さんのものにはならないってことだ」
「シュンじゃない!俊哉だ!」
吉川に胸倉をつかまれてバランスを崩しそうになるが足を踏んばって堪えた。
「波多家君、ハタケ、波多家さん、若干の俊哉だ。シュンと呼んであいつが返事をするのは世の中で俺にだけだ。あんたがシュンといったところで無視されるだけ。俊哉と呼んでもまともな反応はなかっただろ?
殴れよ、気が済むなら!殴られようが腕をもがれようが俺は絶対折れないぞ!」
気が済むまで殴ればいい。嘲笑いながら睨みつけたところで吉川の携帯が鳴った。俺の胸倉をつかんだまま携帯を確認すると手が離された。でなくてはいけない相手なのだろう。
スタスタと寝室に向かったので歪んだネクタイをもとに戻す。
「肝が据わっているというより、頭が悪いようですね、木崎さんは」
返事をする必要がないので聞こえないふりをした。
吉川はすぐ戻ってきて「兄貴の呼び出しだ」とバーテンダーに言い、立ち上がるように促す。
「時間切れらしいな。こっちの要求どおり、放っておいてくれ。それ以上何もいらない」
俺は写真をまとめ始める。こんなところに長居は無用だ。
「いえ、そのままでいてください」
バーテンダーは電話をかけはじめ、俺は写真をスーツのポケットに戻した。吉川は電話で話している男をじっと見つめたままだ。
面倒臭いことはナシでいいじゃないか、お互い忘れて道ですれ違っても他人のフリをすればいい。
「桜沢にきてもらいます」
「なんで兄貴が……」
「組にかかわることですしね。木崎さんはオヤジさんや若頭に会いたがってます。さすがにそれはまずい。だから桜沢なんです。
堅気の若造にうつつを抜かすくらいなら見ないふりもできましたが、この有様はなんですか?
あげく素人にしっぽをつかまれるようなヘタを打っておいて、約束できねえと凄んでみせても滑稽です。それと私がなんで今日お前に付いてきたのかは、後々わかります」
二人のやり取りを聞くと、このバーテンダーは単なる水商売の男というわけではなさそうだ。友達というのも嘘だろう。バーテンの口調が変わり吉川を「お前」呼ばわりだ。
これからくる桜沢は吉川の兄貴。ということは若頭補佐とかいう役職で吉川が付いている男だ。桜沢がくるまで話は進まない。俺はまた壁に凭れてその男の到着を待った。
15分ほどした時、玄関の扉が開いた。
「お疲れっす!!」
吉川は玄関の扉があいた時点でソファの後ろに場所を移してこの第一声。
縦社会なのは想像できるが、体育会系のノリだなと少しにやけた俺を見据えた後、バーテンダーは不機嫌な表情を浮かべ煙草に手をのばした。吉川と違ってこちらはソファに座ったままだった。
「ニヤニヤするとはいい度胸だな、どこのもんだ?」
部屋に入った桜沢は吉川の挨拶も存在も無視し、俺の顔を面白そうに見据える。
オールバックに撫でつけられた黒い髪。鋭い眼光と厚い胸板は押しの強さを物語っている。ダークスーツに織りが施された光沢のあるブラックのネクタイというシックなコーディネイトだが、あきらかにヤクザとわかる雰囲気。吉川とは格が違う。
「口角があがっているので、笑っているようにみえるだけです。それとどこぞの組でもありません、普通のサラリーマンです」
桜沢はフフンと笑い「減らねえ口だな」と言いながらソファに座った。
「マル、俺は忙しい。今日は予定が詰まっている、手短に」
「じゃあ、木崎さんどうぞ」
マルがつく苗字なのか?喰えない男だ。3対1の状況を作って俺が怯える姿でもみたいのだろう。だが体の中には静かな熱がこもっている。脅しや恐怖に屈する気はない。シュンを守る為なら何でもできる。
「そこの吉川さんは俺の友人である波多家俊哉を約1年前からここに住まわせています。本人の意思に関係なく住んでいた部屋を勝手に引き払いました。
荷物の管理もしていると思われます。
不動産には確認を取りました。代理人と称する男が来て、十分すぎるほどの「清掃代金」を渡したようです。清掃代が効いて特例で急な解約に応じたみたいですね。因みにその証言は録音済です。
何度か逃げ出すたびに連れ戻され、見張られての生活。住む場所もない波多家さんは仕方なくここにとどまりました。
相当不愉快な思いをして過ごしていたと思います、彼の体はいつもこんな状態でした」
写真の一枚をとりだし、テーブルの上に滑らせる。面白くなさそうに聞いていた桜沢の眉間にしわがよる。
「それは彼の主治医がなにかの時のために撮影したものです。この執着は異常です」
桜沢は俺を見上げるが何も言わなかった、先を言えということだと解釈して話を続ける。
「先週結婚式が札幌でありました。波多家はかなり痩せていましたし、笑顔をまったくみせない様子が普通ではなかった。吉川さんはご丁寧に札幌までついてきましたよ。そして昨日。酷い目にあった彼は電話をかけて助けを求めました、足を使って」
そして残りの写真をバサバサとテーブルに落とす。今度こそ桜沢の顔が剣呑なものに変わった。
「結束バンドで手首を縛られて、複数の男たちの前でSEXさせられたわけです。そしてギャラリーである欲求不満の男たちが自分の欲を裸の彼にかけました。まさにここの隣の部屋で」
あまりの素早さに何が起こったのか一瞬わからなかった。
桜沢は素早く立ち上がり、ソファの後ろにいた吉川を殴り壁に飛ばした。さっきまで立っていた吉川は床にうずくまっている。大量の鼻血が滴り落ちて床を汚していた。
マルと呼ばれた男は知らん顔をして爪の甘皮をこすっている。
「お前、名前は?」
「……木崎です」
「じゃあ、聞くよ木崎さん。今の説明が事実だとしてだ、イロとのちょいとした痴話喧嘩で度がすぎたって事に聞こえるがな」
それは予測できた問いだった。
「イロじゃないから拉致監禁ですよ」
「イロではない根拠は?」
「吉川さん、彼にお金を一銭も与えていませんから。ヤクザさんの愛人さんはお手当いただけるものだと俺は理解してますが、波多家の口座は彼が自分で得ている収入のみです。
この住まいを見ればわかるでしょう。これでよく1年も暮らしていたという質素な部屋。これが愛人にさせる生活ですか?
皆さんが来る前、ここの写真は撮影して自分のPCに送りました。証拠にはなりませんが、複数の人間を納得させるだけの状況証拠にはなります。
監禁だと思うはずです、この状態では。それに吉川さんはヤクザですしね。
口座に金を振り込むなんてどうにでもできるでしょう?
相手が一般人だから甘くみたのかもしれないですが、暴対法があるこのご時世で外堀を埋める作業もせずに我をとおしたのは、しがないサラリーマンの俺からみても、不味いといえる状況に思えますが?」
クスクスと笑いながらバーテンダー改めマルが灰皿にタバコを捻る。
「ユキちゃんは、昨日の今日でそれだけの材料集めたの?」
「できることなら夕方にして欲しかったですよ、15:00なので焦りました。
吉川さんは波多家に客をとらせて、AV撮影をもくろんでいたようです。俺も攫って共演させる企画もあったようですね。懇意にしている撮影会社を見つけようとしたんですが、時間切れで残念です」
「ということなんだよ、桜沢。あなたの預かり知らぬところでこんなことになっている。あげくこの素人さん骨があるものだから、全然私達を怖がらない。
吉川が条件を飲まない場合は若頭や組長に直談判するつもりらしい、それも本気で。
だから桜沢を呼んだ」
「木崎さんの条件はなんだ?」
ようやく本題になった。吉川が「うん」といえば5分で終わる話なのに。
「俺達を放っておいてください。一切関わりたくない。吉川さんは約束できないとおっしゃりました」
桜沢は立ち上がり吉川を蹴り上げた。鈍い音がひびく――たぶんろっ骨が折れた。
「保管してある荷物とここにある物はいらないので処分して下さい。今後吉川さんがシュンの周りをうろつく様なことだけは遠慮してもらいたい」
「こっちの気が済まない。それにあんたが他言しないっていう保証もない」
金だろうがなんだろうが一切いらない。できることなら忘れてしまいたいことなのに何故それがわからないのだろう。
「俺は波多家のこんな姿を世間や他人に晒すつもりはありません。
マルさんは吉川が本気だと言いました。でも同じ男として好きな相手にこんな仕打ちをするなんて考えられない。異常です。吉川と一緒にいて幸せなら俺だって出張ってきません。あんなに痩せてひどい状態、あげく人前で裸になれないような痕。おかしいですよ、そんな人に今後関わりたいと思いますか?俺は思いません。だから一切何もいらない」
「桜沢、この人頑固だから聞かないよ?
札幌でユキちゃんに逢って、自分が負けていることを知って好きな相手にこんなことをした。腹いせかもしれないが始末が悪い。いずれ吉川はつまらない事件を起こしそうだ。
自分の下に置く人間を吟味しなければ、いつか足元をすくわれますよ?」
桜沢はかなり不満そうに俺を睨みつけているが、あんたの部下がしでかしたことで、関わりたくないと当事者が言ってるのだからハイと言えばいい。
「吉川がこれ以上何かしないように俺が責任をもつ。俺の気持ちとしては「治療費」ぐらいは渡したいところだが」
「いいえ、それを貰ったらすべてが台無しです。普通のサラリーマンらしく静に生活できれば問題ありません」
桜沢から目を逸らさずにきっぱり言ってやった。俺とシュンの生活に今後一切かかわってくれるな、それをしっかり視線に乗せる。
桜沢は眉間にしわを寄せながら小さくため息をついた。
「じゃあユキちゃん。私の店にきたら一生のみ代タダにしてあげますよ」
「行くわけがない。それに「ユキちゃん」はやめてくれ。気持ちが悪い」
ようやく話が少し進んだ。きちんとした言質を取るまで粘ってやる。気を引き締め、桜沢とマルを見据えた。
マルはようやくソファから立ち上がり、胸ポケットから紙をとりだした。どうやらエクセルの資料らしく数字がびっちり印字されている。
「ユキちゃんには関係ない件だが、吉川の今後に関しては私も片足突っ込んでいるのできっちり締めさせてもらう」
「これは?」
桜沢は渡された数字から目を逸らさずに問う。
「桜沢が管理している芳樹のもち物件の『ジュリエッタ』の数字」
内輪の話らしいので黙って見ているしかなかった。いずれにしても吉川が今後関わってこない何かをマルが握っているのなら彼のいうように締めてもらいたい。
「そこの女の子をローテションで「接待」させている。
店長は芳樹の指示だと思って従っていたらしい。店長ごときが若頭に直接コンタクトをとれるわけでもないし、指示に従って運営をするだけだ。そして実際にこの物件を管理しているのは芳樹ではなく桜沢だ。そこがミソ」
マルはおもむろに転がっている吉川のところにいき足で身体をひっくりかえし仰向けにした。殴られた顔は腫れあがり、鼻からは固まりかけた血の筋が顔を汚している。
「「接待」の発案運営は、こいつ」
桜沢は黙って目を閉じたまま何も言わない。
「帳簿をチェックしても表の売上しか示していないし、この別アルバイトは違う帳簿で管理されていた。
その1、店長は吉川の指示はイコール芳樹の命令だと信じて従い、他の可能性はまったく考えていなかった。
その2、管理者のお前もまったく知らない話だ。帳簿にはでてこないし、他の管理物件同様毎月のあがりの注意をしているだけでは見切ることができない。
その3、吉川はその金を何に使っているかと思えばこの監禁部屋と波多家さんの荷物を預けている倉庫の金額、それと生活費。派手に何か使うわけでもないし残りは貯めこんでいるだけ。
わからなくても仕方がないが、少し脇が甘いね、桜沢」
マルは今までの人を喰ったような態度が一変して高圧的で冷酷な空気を纏って立っていた。桜沢はいまや蒼白な顔で床に転がる吉川を見るだけだ。
「ユキちゃんが言うように、AVにも手をだしている可能性は高い。探ればすぐに出くるだろう。私のことをしがないバーテンダーと見下しているようだが、甘く見られたものだ。
店で大きな顔をするあたりでケツの穴の小さい男だと思っていたが」
吉川はピンハネしていたらしい。面子大好きヤクザさんの上を騙していたとなるとタダではすまないだろう。ようやく少し、見通しが明るくなってきた。
「吉川、お前は少し度が過ぎた。何よりも自分の欲を優先させるようだね。組織にはもっとも不必要な人間であることは間違いない。
お前が誰を囲おうが私には関係ないが、やり方が相当まずい。おまけに相手を見極める力もない。ユキちゃんの方がよっぽどふてぶてしいし強い男だと思わないか?」
マルはしゃがみこんで吉川の顎を掴み自分の方に向かせると静かに言い放った。
「皆が噂か都市伝説だと思っている『peur』のことは聞いたことがあるだろう?権田にいるのだから」
プール?いったい何の話だ。
「お前は、その上層部を怒らせたようだよ?意味わかるよね。あと、私はしがないバーテンダーだと思われたようだが、権田の外腹だ。この意味もわかるよね?」
マルは掴んでいた顎を離し手についた血を吉川のシャツになすりつけた。吉川はガタガタと震えだし無表情だった顔はいまや怯えしか映していない。
「そういうことだ、桜沢。面倒なので、芳樹の幼馴染ということになっているが、私は弟くんなのだよ。権田と『peur』の橋渡しは私がずっとしている。これは他言無用で。
吉川の始末は私がする。波多家さんに迷惑をかけたお詫びと、ユキちゃんが言う条件を叶えなくてはならない
それとな、桜沢」
マルがゆっくりとした動作で煙草に火をつける。深く吸い込み煙を吐き出すと、桜沢の手の甲をポンポンと叩いた。
「この吉川の悪行を私に教えてくれたのは『jenet』」
桜沢がガバっと顔を上げる。
「なんで沢木が……俺に言えばいいものを」
「お前に直接言ったら、不始末のわびで腹でも切りそうだから、そうならないよう始末してくれと頼まれた。碧仁はかわいいから、私だって無下にはできない。麗しき友情ってやつに、今回は絆されてやる……が、今回だけだぞ」
「……わかった」
「芳樹には私が話すし、吉川はわたしが引き受ける、いいな」
「……まかせる」
「お前の沙汰は芳樹からあるだろう。
人を信じるのは悪いことではないが、自分の勘は信じたほうがいい。
吉川はひっかかるところがあったはずだ。それと同じことを芳樹にもいいたいがな。アレの無能っぷりは私と血がつながっている事を時たま信じたくなくなる」
プールにジュネ……何を指し示しているのか俺にはまったくわからない。
バーテンダー改め「マル」が「組長の息子」になった。どうやらこの男は只者ではないようだし、吉川を引き受けるというなら俺の要求どおり関わりは今後ないと思っていいだろう。
行き当たりばったりの作戦はそれなりに成果を得たということだ。
写真をまたまとめてポケットにおさめた。俺一人蚊帳の外なので、静かに隣の寝室に向かう。
ベッドの枕の下にそれはあった。取り出すと、それはあの日俺が貸した本で、もう戻ってこないと思っていたものだ。これをずっと持っていたのか。
緊張の糸がプツンと切れ、その小さなボロボロになった本を胸に抱くと涙がこぼれる。
ベッドの脇にうずくまって泣く俺の肩が叩かれた。
「何をしているのですか?」
「シュンにこれだけは持って帰ってくれって……頼まれていて」
「なんですか、そのボロイ本は」
「俺が高校生の時、転校する少し前に貸した……本」
腕を引き上げられるまま、ゆっくり立ち上がる。
「おかしな人ですね、さっきまであんなふてぶてしかったのに、こんな本でボロボロ泣いて、子供みたいです」
「嬉し泣きだよ、たまには誰かにこんな泣かされ方してみろよ、あんたも」
背中をどんと押されリビングに押し出された。
「一言余計です。それより、あなた普通のサラリーマンのままでいいのですか?」
「たいていの男は普通のサラリーマンだ」
「……私のところに来ませんか?」
「酒はつくるより飲む方が好きだし興味がない」
「頭悪いですね、私のところといったら組織に決まっています。何の為にあんな話を素人さんの前で披露したと?」
ぽかんと口があいた。どうやらヤクザにスカウトされたらしい。
「権田組に行くわけないだろ!それにあんたは怖い人みたいだし」
「権田と一緒にしないでください。私の所はもっとスタイリッシュですよ……フフフ。
それにアンタって言われるのは心外です。気に入らない」
「名前知らないし。マル?苗字なのか?なんか変、イテっ!」
「人の名前を変だというから、お仕置きです。マルというのも適当に付けた名前で正直後悔してますし……そうですね「サイ」と呼んでいただければ結構ですよ」
「サイさんね。マルと大差ない気がするけど」
「本当に一言余計です。今日のところは引き下がりますが、何かの機会にお会いするかもしれませんね。その歳でここまで腹が据わっているとなると、私にとっては逸材ですから」
「一切関わりたくないと言ったはずだ」
「あれは吉川の話でしょう?私は波多家さんにもユキちゃんにも迷惑かけていませんからね」
ヤツはしれっと言いやがった。
5分とはいかなかったが、五体満足で先生の家に向うことができた。
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