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第1話
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つまり、これしか選択肢がなかったのだ。
確固たる目標もなく情熱もなく、かと言って他に進みたい学部もなかったのでそのまま…という、典型的な潰しのきかない音大卒の松波享(まつなみ とおる)に与えられる就職のチャンスは少なかった。
明らかに企業の即戦力から程遠い学部出身で弱々しそうな見た目も災いしたのか、散々苦労した挙句にどうにか採用された会社で働いてみたが、いわゆるブラック企業という所だった。二年足らずで会社をやめて暫くは心身共に疲労がひどく仕事に就けなかったが、半年ほど経ってから、アルバイトで大手の音楽教室のピアノ講師になることができた。収入は少ないがこの仕事なら継続できそうだと思っていたところ、今度は教室の統廃合とやらに遭い、勤務していた教室が閉鎖になったと同時に解雇された。つくづく運のないことである。
しかし担当していた生徒のうち数人が、統合先の教室には遠くて通えなくなるので直接教えてもらえないかと申し出てきた。内気な享は自身がピアノの奏者として生きる勇気は持ち合わせていなかったが、始終穏やかに根気よく子供と向き合う才能には長けていたので、生徒とその親からは支持されていたのである。
彼は仕事で外国にいる親名義の家に一人で住んでおり、当然家にはピアノもあるので、自宅で教室を始めることにした。口コミで徐々に生徒も増えて十数人となり、現在はギリギリで生活できるまでになっている。
それでも、不安は山積みだった。
「それで…今は週に何人くらい教えているの?」
「十五名ほど…」
この日は日曜日、レッスンは入れていないので、享は五月初旬の新緑を楽しむために散歩に出ようとしていたところへ、母方の叔母の訪問で全て台無しにされてしまった。仕方なくダイニングルームに通して、テーブルを挟み向かい合って話をしている。
「あら、随分人数が増えたじゃないの。良かったじゃない。これで一安心ね」
享の近況を聞いて、飾り縁の眼鏡の奥で叔母は少しふっくらした顔に笑みを浮かべた。
「そんなわけないよ。僕ごときがそんな高いレッスン料は取れないし。生活していくのが精一杯で家賃を払わなくて済むからどうにかやってるけど…貯金も全然出来てないです」
能天気な叔母の言葉に苛立ちながらも、享は努めて平静を保っていた。
「そんな若いときから貯金の話?愛由美ちゃんはオーストラリア人と結婚しちゃって日本に戻って暮らすことはないって言ってるんだし。てことはこの家はあなたのものになるんだからそんなに心配しなくたって」
「自分のものになるかわかんないから心配なんじゃないですかっ」
祖父母の代からのこの家は、古いが瀟洒な数寄屋造りの平屋建てで、趣がある一軒家だったが、問題は建物でなくその立地だ。東京二十三区内の閑静な住宅街にあり、最寄の鉄道駅からも近く、申し分のない環境ゆえに地価が高い。先日両親が帰国した時に説得して査定させたが、予想を遥かに上回る査定額に目の前が真っ暗になった。
もし親に何かあった時の相続税は言うまでもなく、その後の固定資産税もどう捻出すればいいのか。ひとまず借金をして税金を払ってから売却…でも上手くいかなかったら?それに家だってもう古くてあちこちにガタがきている。いっそ姉が相続したいと言うならばして欲しいくらいだが、彼女にはきっぱり『長男のあんたが継いで!』と言い切られている。
建て直すなんてもっての他だし、修理だって…考えただけでもぞっとする。
そんな話を叔母に愚痴っても、母が考えてくれているだろう、とあくまで楽観視だ。考えてるわけないだろう。あんたの姉だぞ?…と喉まで出かかったのを享はこらえた。実際、両親は何も考えてないと思う。叔母と同じく能天気なのだ。だから息子が将来性の乏しい音大生になっても一向に気にしなかったのだろう。
話がわかる気さくな両親である半面、子供の将来まで根回しする気もなさそうだ。親に反対されて音楽の道には進まず、就職に有利な進路を選んだ友人たちは当時こそそんな享の両親を羨んだが、今となっては彼らの親にこそ本物の愛情があったのだと、逆にこちらが恨み節である。
「じゃあ、享ちゃんはもっと収入が欲しいって言うのね」
出されたお茶を一口啜って、叔母はふう、と息をついた。
「そりゃ、生徒をもっと増やすしかないでしょ」
「でも、時間割の関係で、これ以上は引き受けられないし」
「別に小中学生ばっかり教えなくたっていいのよ。朝のうちなら主婦やリタイアした中高年で、ピアノを弾いてみたいって人に来てもらえばいいし、夜は仕事帰りの社会人でそんな人もいるんじゃないの?」
叔母のこの提案には享もなるほどと思った。ずっと子供を教えることばかり考えていたが、大人も生徒にできれば一日をもっと有効に使える。
「仕事帰りの独身女性なんかが来てくれて出会いがあるかもしれないじゃない。高給取りのキャリアウーマンほど、習い事にも熱心なのよ。無駄にモチベーションが高いから」
享は何となく叔母の言葉に刺を感じたが、キャリアウーマンに何か恨みでもあるのだろうか?
因みに、母の実の姉で五十代半ばの叔母はこんな呑気な性格だが、有名私立高校で英語の教師をしている。
「享ちゃんは色が白くて細っこいから頼りなさそうに見えるけど、一応美男だもの。きっと稼ぎのいい年上に好かれるわよ。…家事と育児を押し付けられるかもしれないけど」
どさくさに紛れて随分な言われようだが、叔母の言う通りの展開になれば、ずっと頭を悩ませてきた税金問題が解決するかもしれない。この際年上でも家事でも育児でも何でもござれだ。しかも、友人たちが会費を払って婚活パーティに行くのに対し、自分は収入が少なく参加もできないのだからレッスン料を貰って出会いがあるならお得な話だ。
正直なところ、生活がギリギリで恋愛や結婚どころではない心境だが、それも相手次第で意識が変わるはずと期待したい。
享は午前中と夜間のレッスン希望者を募集してみることにした。と言っても何の宣伝手段もなかったので取り敢えずフェイスブックに生徒募集の書き込みをしただけだが。しかし書き込みを見た生徒の母親たちが徐々に反応し始めた。主に五、六十代の近隣の知り合いに声をかけてくれたり、自分も習いたいという申し出もあったりするうちに数人の生徒が集まった。それだけでもかなり助かったのだが、肝心の社会人向き夜間レッスンの方はさっぱりである。やはり思ったほど簡単にことは運ばないのか。諦めかけたものの将来のことを考えるとこのまま引き下がっている場合ではない。
他にも何かいい方法はないか考えたが、せいぜい生徒募集のプレートを家の外に取り付ける程度のことしか思いつかず、それでもやらないよりはマシだと考えてインターネットでプレートを注文して取り付けた。プレートにはレッスンの受付時間として九時から十二時、十五時から十八時、十九時から二十一時と記載されていた。
このプレートが引き金になったのかどうかは実際のところよくわからない。かけた後も暫くは全く反応がなかったのだ。
しかし亨の元には、全く想定外の人物が現れることとなる。
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