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第6話
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翌日は月曜で優留のレッスンの日だった。梅雨も終わりに近づいていて、やや強い雨が夜になっても降り続いていた。それでも前日仕事が入ったにも関わらず、優留は時間通りに、特に疲れた様子もなく亨の家にやってきた。明後日に赴任先へ戻る亨の両親は友人夫妻と夕食に出かけていたので、レッスンの合間に例の…週末に飲みに行く話をするのも気が楽だった。彼らがいたら襖の陰で人の話に耳を欹てかねない。
「じゃあ、土曜日も一日仕事なんですか…その後でって、疲れちゃうでしょう」
「日曜日は定休だから全然平気。ただ、どうかなって考えてる店が俺のマンションの近くなんで…電車で最寄り駅まで来てもらえます?」
「僕は…昼からは暇なので大丈夫です」
そう答えながら、亨は立ち上がってレッスン室のエアコンのスイッチを入れた。室温はそれほどでもないが湿気が高い。ピアノは湿気に弱い楽器なのでこの時期は特に気を使う必要があった。少し寒いかもしれないけど…と一言詫びて、亨は再びピアノに向かう優留の右側に座った。
「えーと…この曲もまとまってきたから…そろそろ次の曲に行きます?」
「ですね」
「もう一度バッハの二声にしますか?それとも違う曲にしてみますか?かなり上達が早くていらっしゃるので、変えてもいいかも」
「うーん…どうしようかな」
練習を始めてからはおのずとピアノ曲に興味を覚えるようになって、名曲集なるものをダウンロードして聴いたりもした。だが曲と題名が殆ど一致していない。咄嗟に思い浮かんだ題名を口にした。
「…月光?」
「……ベートーヴェンの?」
「…て、どんな曲でしたっけ」
返答に困った亨は優留を見つめたまま目を瞬かせた。
「…弾いてみましょうか」
優留と入れ替わってピアノの前に座ると、亨はすぐにピアノを弾き始めた。ああ、この曲だったのか、と優留は聴いてすぐに思い出した。
亨はほぼミスもなく月光ソナタの一楽章を暗譜で弾き終えると、『聞き覚えがありますか?』と尋ねてきた。
「聴いた覚えがあります。始めはひょっとしたらいけるかも、と思ったんだけど…途中から『あ、全然ムリ』って」
「テンポが速いところになっちゃうとね」
苦笑いする優留に、亨も笑顔で返した。
「そうか、ベートーヴェンの曲だったのか…」
「お好きですか」
「いや、よくわかんないんですけど…さっきの曲、音の響きがいいなって」
重厚で落ち着いているが、短調でも不思議と暗さがない。とても心地よい、と優留は感じた。
「だったら、今の神崎さんでも何とか演奏できるベートーヴェンがありますけど」
「ホントっすか」
「エリーゼのために」
曲名を口にした亨は、今度は優留が目を丸くしているのを見て思わず苦笑いした。
「知ってます。流石にそれは知ってますけど…」
「子供も大人も、男子はみんなその反応。題名がチャラいって感じるみたいですけど全然違うんです。こんなに短くて難しくもなくて、しかもすごくベートーヴェンらしい。貴重な曲なんですけどねえ」
喋りながら亨がまた演奏してみせる。目を閉じていても弾けるとでも言いたげにさらっと終わらせて「どうです?」と聞いてくる。
「確かに…そうかもしれないです…」
「でも、違う曲がいいですよね。だったら、今は初めてピアノを習う人のために簡略な編曲をした楽譜がありますから、月光ソナタの簡略版を探してきましょうか。あるかどうかわからないけど」
だが優留は瞬時にそれは違う、と思った。素直に口にする。
「俺は…先生が今弾いてくれたのが好きなんで…簡略化したのはあまり興味ないかも」
「もう、神崎さんは相変わらず難しいなあ」
亨は呆れて吹き出した。
「ですよね…すみません」
「でもねえ…一曲弾いてみておわかりになったと思いますけど、耳で聴くと易しく思えても実際に弾いてみたら案外難しくなかったです?」
「う…確かに…」
亨の言うとおり、彼が弾いて見せた印象と楽譜を見た限りではそれほど難しく思えなかったので正直ナメていたが、いざ練習してみると僅か二ページの曲を一通り覚えるまでの道のりは散々なものだった。音を外したり抜けたり、指がもつれてめちゃくちゃになったり。
「例えばこの曲…さっきの月光と同じベートーヴェンのソナタで『悲愴』って呼ばれてるものの二楽章なんですけど…」
いつになく饒舌になっている亨は指もよく動く。また楽譜も見ないで弾き始めた曲に、しかし優留はその深く陰影のある音色に心を吸い寄せられた。途中で曲調が変わる部分もあるが、ゆったりと流れる河のように静寂で、聴くほどに心穏やかになれる気がする。
「すごくいい曲ですね」
演奏が終わると思わず優留は溜息を漏らした。
「僕も大好きな曲です。単純なメロディですがそれだけにすんなり入ってきてくれるっていうか。だけど楽譜はっていうと…」
亨は立ち上がって、カバーのかかったグランドピアノの上に積まれた楽譜の中から一冊を引っ張り出して譜面台の上に置いた。
「悲愴の二楽章はと…これか」
「えっ、こんなに…?」
譜面台の上で開かれたページを覗き込んだ優留は、そのスコアの複雑さに驚いた。
あのシンプルな響きを生み出すためにこれだけの音が存在していたとは思いも寄らなかった。しかも亨がすぐ側で演奏してくれるのを見ていたにも関わらず、である。
「単純な旋律を最大に響かせるためにこれだけの音をかぶせてるんです。だから立体的な響きが生まれて、このきれいな旋律がぐっと押し上げられてくる」
「そっか、すごく考え抜かれて書かれてるんだ」
音の響きが殊の他印象深く聞こえる理由に優留は納得した。
「でも聴く側には、それこそ神崎さんの反応みたいに…その複雑さを気づかせないようにしてる。これみよがしじゃないんですよね」
「つまりこの曲の本当の姿は、作曲した本人と演奏する人にしかわからないってこと?」
「あれ、神崎さん、いいこと言いますね」
いつもの調子でおっとり笑う亨を見つめながら、優留の心音が高まった。やわらかな、綺麗な笑顔に…どくん、という振動が突然喉まで込み上げてきて、この不可解な現象をどう収めるべきか優留は困惑した。
そして…
今後のレッスンは、またバッハの二声の中から別の曲を選んで練習することに決めた。
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