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第7話
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土曜日は、夕方六時半にM駅の改札を出たところで。
最後に週末の待ち合わせ日時を確認して優留は亨の家を後にした。
雨はレッスンに来た時に比べるとやや小降りになっていたが、バッグを脇に抱えて歩かないと雨傘をさしていても濡れてしまう状態だった。
雨の中を駅に向かって歩きながら、しかし優留はどこか上の空だった。そのせいでうっかり水溜りを踏んで片方の靴に雨水が跳ねてかかってしまった。立ち止まり、苛立たしげに溜息をついて足元を見つめながら優留はふと喉の渇きを覚えた。空気は最悪に湿気ているのに喉だけはカラカラだ。
思わず独り言が盛れた。
「コーヒー飲みてー…でもあそこはもう閉まってるよな」
いつものKOZAWAは既に閉店時間を迎えているはずだ。仕方なく駅までまっすぐ戻り、最寄りのコンビニに入ってアイスコーヒーを買った。
そしてそのまま、コンビニの軒先でストローを刺したプラスチックのカップから冷たいコーヒーを一気に吸い上げる。
この冷たさは心地よかった。だが味は…
「可もなく、不可もない…ま、こんなもんか」
カップを右手に、バッグと傘を左手にして、優留は暫くコンビニの軒下で夜の闇に落ちる雨の気配を眺めていた。
あの時は何故…
優留は雨音を聞きながら先ほどまでのことを思い返した。
ピアノの前に座って、自分を見上げて微笑んだ亨を見ていたら妙にドキドキして…
あれは、全く無意識にしたことだった。片方の手で彼の頬に、そしてもう片方で彼の華奢な顎を掴んで引き寄せた。自分の顔の、本当に間近まで。
一体どうするつもりだったんだ?…亨が驚いて目を見開いているのに気づいて、頭のなかで必死に理由を探したけれど…
あ……すみません。埃かと思ったけど、髪でしたね。
とか言って白々しく指で彼の髪をはらう振りをしたけれど…
ンなわけないだろ!
彼に言われるまでもなく、自分に突っ込みを入れてしまった。もちろん声には出さないが。でも本当にそうするしかなかった…
カップに刺したストローがゴロゴロと音を立てた。コーヒーを飲み干してしまったようだ。優留は氷だけになったカップを特に意味もなくガシャガシャ振りながら、そのままゴミ箱に捨てようか迷ったが、再びコンビニの店内に入ると、入り口左横の破棄専用シンクにカップの氷を捨てた。空になったカップとストローをシンクに備え付けられたゴミ箱に捨てて、優留は店を出ると傘はささずに駅の改札へ向かって走っていった。
彼はどうして…
亨はネルの専用布でピアノの鍵盤や譜面台やら、人の手が触れやすい場所の汚れを落としていた。レッスン終了後の彼の日課である。
ピアノを拭いた布を畳んで譜面台の横に置くと、亨は息をついた。
あの時、ピアノの前から見上げたら優留が吸い込まれそうなほど真剣な眼差しで自分を見つめていて、それで何故か心臓がどくんと鳴った。彼に聞こえてしまったんじゃないかと恥ずかしくなるくらい。どうしていいかわからなかったから笑ってその場をやり過ごそうとしたら、いきなり彼の両手が伸びてきて…
顎とか頬を掴まれて引き寄せられた。彼の顔が驚くほど近くにあって、何をするつもりなのか尋ねようとしても全く声が出なかった。
例えば、ドラマや映画。こういう場面が出てきたとしたら、普通この先の展開としてやってくるのは?
…ンなわけないだろ!
亨はピアノの前で一人、真っ赤になって大きくかぶりを振った。
優留が、このまま自分にキスするんじゃないかと、一瞬そう思ってしまったのだ。あるわけがない。彼の言った通り、自分の顔に何か付いていると見間違えただけだ。
百歩譲って女の子だったらそんな勘違いもあっていい。でも自分は…女顔だと言われるけれど男なんだし。
そして一番不可解なのは、そんな自分を馬鹿だと笑い飛ばせないことだ。
考えてみればみるほど自分の中がざわざわして、いてもたってもいられなくなる。どうしてこんなに収まらないのだろう。
確かに優留は同い年と思えないほど大人びていて、男の自分が見ても溜息が出るほど格好いいし仕事もできるようだし、レッスンの間に交わす僅かな会話も…それも殆どピアノに関する話題だけなのにとても楽しい。だけど…それで説明のつくことじゃない。何だっていうんだ。
こういう時にはコーヒーでも淹れるに限る。気分転換だ。
…と思い立った亨はレッスン室の引き戸を開けて狭い廊下に出た。
玄関から繋がる廊下の奥に、こちらも狭いが台所とダイニングがある。台所のガスコンロで湯を沸かす間、流し台の上で大きめのマグカップに
彼にとって最大の贅沢である駅前のカフェで買ったコーヒーを、フィルタをセットしたプラスチックのドリップにスプーン大盛り一杯だけ入れた。と、そこへ彼の両親が外食から帰ってきて、台所を覗きに来た母がコーヒーの香りに気づいた。
「ただいま亨。あらいい匂い。コーヒー淹れるんなら私達のもお願いね。レストランで飲み損ねちゃったのよ。向こうの時間の都合で…」
「…はいはい」
今までの妙な気分の高揚が母親のやかましさで一気にぶち壊されたことに、安堵すべきか落胆すべきか…今度は深く大きく、亨は溜息をついた。
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