アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第19話
-
優留が話すことを、亨は黙って聞いていた。
どうやら、彼の家族は何か問題を抱えているようだ。そしてそのことが優留の精神状態にも影響を及ぼしているらしいとも理解できた。
彼の言う通り、だからと言って優留があの日、亨にしたことを許せる訳もない。すっかり彼を信用していたのにひどい裏切りだった。心も身体もズタズタにされた気がした。
だけど。亨を侵すほどに優留自身もズタズタになっていたのだ。
きっと自分を責めながら…
そんな顔をして、亨を見つめていた。
親のせいだ、親に似ているからと彼は言うけれど、本当は…誰のせいにすることもなく、全て自分一人で抱え込んで、苦しんでいるんじゃないだろうか?
「神崎さんのおっしゃることは、わかりました」
彼の家族のことは…亨の口からはそれ以上聞くのは憚られた。
「聞いてくれて、ありがとうございました。嫌なことを思い出させたと思います。あの日のことも今日のことも、本当に…」
申し訳ありませんでした。
優留は床に手をついて、深々と頭を下げた。
これ以上の言い訳は無用だ。自分が早くここから去ることが最善だろう。優留はそう考えて立ち上がろうとしたが、自分のビジネスバッグが傍にない。少し焦って見回すと、一、二歩分向こうの床の上に横倒しになっている。篠山を押さえ込もうとして咄嗟に放り出してそのままになっていたのだ。バッグの持ち手に触ろうとして、今度は手のひらが汗でびっしょりになっていることに気がついた。バッグの中からハンカチ代わりに使っているタオルを出して拭こうとするが、慌てている上に未だに緊張のあまり手が震えていて、ジッパーを開けたまま勢いよくバッグを倒してしまった。
「ご、ごめ…」
いつも一切そつのなかった優留が、別人のようにあたふたしながらパソコンのインナーケースだの手帳だの、バッグの中身が飛び出して床に散らばったものを急いで戻そうとするのを唖然として見ていた亨は、彼のバッグの中にあるものを見つけた。
「神崎さんそれ…楽譜?」
「あ…」
見つかってしまった…とでも言うように呆然と自分を見つめる優留に、亨は緊張が解けて笑ってしまいそうになるのを堪えた。
「何の曲なの?見せてくれませんか」
優留は恥ずかしそうに目元を少し赤く染めながら、黙ってバッグから楽譜を取り出した。
「ベートーヴェン……もしかして、悲愴の二楽章、弾いてるの」
亨は楽譜をぺらぺらとめくって見ていた。
「…全然、弾けるようにならないけど…中古の楽譜をたまたま見つけたらどうしてもやってみたくなって」
「…そう…」
「じゃ、失礼します」
亨が返してきた楽譜を受け取り、バッグに荷物を収めた優留はようやく立ち上がって、もう一度亨に会釈をした。
「…で、どうするの」
「…え」
「一ヶ月近く無断で休まれちゃって、この時間、どうすればいいか困っちゃってたんだけど。今日だって楽譜持ってくるなら言ってくれないと」
「ご、ごめん!ちゃんと連絡して…」
普通は、やめるならやめると挨拶するのが礼儀だ。あんなことがあったとはいえ何も言わずに勝手にやめたのは失礼だった、と優留は後悔した。
「それで、来週からは、ちゃんとレッスンに来る?」
「あ…え…?」
想像もしていなかった質問だった。もう来ないで欲しいと言われるとばかり思っていたから。だが…
「…はい」
「じゃあ、来週からは悲愴の二楽章でレッスンしますから、できるところまで聞かせてください。あと、月謝も必ず持ってきて」
淡々と、当然のことのように優留に指示をすると、亨は最後に少しだけ表情を和らげた。
「それでは、また」
「はい…よろしくお願い…します」
完全に亨につられて、返事をした優留だった。
駅までのいつもの道を、優留は歩いていた。夜とは言え、おそらく気温は二十五度を超えているだろう暑さの中、ネクタイをきっちり締めたまま、額に汗も滲んでいるが全くお構いなしだった。
ちゃんと地面に足を付けて歩いているのかどうか、よくわからない。やたらふわふわする。
駅前のコンビニの前に出てくると、以前一度そうしたように、店内へ入ってアイスコーヒーを買った。ストローで冷たいコーヒーを一口吸い上げると、優留はやっとネクタイを緩めることを思い出した。
「なんか暑くてぼんやりすると思った…」
ぶつぶつ独り言を言いながら、外したネクタイをバッグの中に押し込んで一息つく。そしてもう一口コーヒーを飲むと、少し頭がすっきりした。
その途端に、口元が緩む。
また、ここに来てもいいんだ。
心がひどく浮き立っている。
こんな気分になったのはいつ以来だろう?就活で内定を貰って、やっと一人で自由に生きていけると思った時?いや、それ以上?
また、レッスンに来られる。
亨に会える。
どうして彼が、あんなことを言ったのかはわからない。
レッスン時間に穴を開けるのが勿体ないから、というだけかもしれない。
だけど、それでもいい。
毎週ただ、ピアノを教えてもらうだけの間柄でもいい。
二度と会えなくなるよりは、ずっといい。
優留は右の脇にバッグを抱えて、手にコーヒーのカップを持ちながら、左手で目頭を押さえた。
顔はにやけたまま治まらないのに、目には涙が滲んでしまう。
優留が帰った後、亨は自分の部屋に戻って扇風機の前に座り込み、顔や髪に風が当たるのに任せていた。彼の部屋は両側を廊下に挟まれていて、片方は玄関と台所を繋ぐ廊下に、もう片方は庭に続く縁側に面している。
扇風機のモーター音にかき消されながらも、縁側の網戸から微かに虫の声が聞こえるのを、風に当たりながら亨は耳を澄ませて聞いていた。
話を聞いて、優留が言いたいことはわかった。だから彼にもそう答えた。だがその時点では、自分が納得したわけではなかった。
恐らく納得できる時は来ないだろうし、二度とこの男に会うべきじゃない。そう決めかけていた。いや、決めなければならない、自分のためにもこの男とのことは忘れた方がいいのだと、自分に言い聞かせていた。
だけど優留のバッグの中に楽譜を見つけてしまった。いつだったか自分が弾いてみせたベートーヴェンの悲愴ソナタの二楽章のことを、彼がずっと心に留めてくれていたのだと知ってしまった。
その瞬間…頭の中で何かが粉々に砕けた。
それは眩いばかりの光を放って、自分の視界を明るく照らすような…とても鮮やかな感覚だった。
『来週からまた、レッスンに来るのか?』
そうしたら、まるで当たり前のように口に出せた。
彼のことを、とことんまで憎む必要はない。彼も自分のしたことを十分に悔やんでいるようだから。
いや…そうじゃない。本当は憎みたくなかった。
憎まずにすむ理由を、本当はずっと探し続けていた。
優留が恥ずかしそうに差し出した楽譜を手にした時に、やっとその理由が見つかったのだ。
納得できるか…なんてどうでもよかった。
彼とどう関わっていくのか、正直なところ自分だってどうしたらいいのかわからないけれど…
彼がピアノを習いに来て、自分が教える。
元通りの関係に戻ればいいのだ。
そうしたら、彼とまた会える。
二度と会えなくなるより、ずっといい。
亨はあの盆休みの晩、父と花火をした時の会話を思い出した。亡くなった同僚の記憶、そして父は何故か優留のことも気にかけていた。
もしかして、父は優留にかつての同僚と同じ気配を感じたのか。
だとしたら、自分は…父と同じ後悔をしたくはない。
亨は扇風機の前で膝を抱えて座り、背を丸め顔を膝に乗せて目を閉じた。
今夜は色々あったから少し疲れた、と思う。
扇風機の音と虫の声を聞きながら…亨の心は不思議なほど安らかだった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
19 / 45