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第23話
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気がつくと十月も終わろうとしていた。優留のプレゼンの当日まで、あと二週間余りである。今まではせいぜい所属店舗の現状報告程度の役目しか受けたことがなかったが、今回は国内全体の販売実績や今後の戦略の方向性など、全て把握して資料を作らねばならなかった。情報の取集範囲も比べものにならないほど広く、毎週の本部会議で進捗を報告するも散々に
こき下ろされた。今回のプレゼンは日本法人の営業部門を代表して行うのだから全く勝手が違ったのだ。
これほど自分は出来が悪い人間だったのかと始めは愕然としたが、ここで挫折するのだけは御免だと、優留は歯を食いしばって外回りの合間に何度も資料を作り直していた。そして、自宅でもパソコンで作業していたためピアノの練習に割く時間が減っていた。
会議は月曜にあるので、今日もダメ出しを食らってまた修正かと憂鬱になっている上に、レッスン日も重なっている。遂に先週は全くピアノに向かわず終わってしまったので、いつも通り亨の自宅へ来たものの、この状態でレッスンを受けるのは亨に申し訳なく、気が重かった。
優留が一通り弾き終わると、案の定亨が何か言いたげに見つめてくるので、罰の悪さに優留は無言で俯いた。
「…もしかして最近、仕事忙しかったりする?」
「実は…再来週の金曜日に重要なプレゼンをすることになってて…」
言い訳はしたくないが、事実だから仕方がない。
「やっぱり…最近いつもくたびれたような顔して来てたから」
納得して頷く亨に優留はごめん、と謝った。
「バレてた?もう、何度資料を直しても会議でボコられまくり」
ピアノに凭れて優留が珍しく愚痴をこぼすのを聞いていた亨は、驚いて目を丸くした。
「神崎さんが?信じられない。厳しいね…じゃあ、プレゼンが終わるまでレッスンは休みにする?」
「そうだなあ…毎週これじゃ聞いて貰うのも申し訳ないか。会議はあと一、二回だから、じゃあそれまで休ませてもらいます」
「了解。ていうか、来週の月曜は僕もテンパってるからレッスンの振り替えしようと思ってたんだよね。もともと」
今度は亨が深い溜息をついたので、優留が理由を尋ねると、亨は暫く戸惑ったように口をつぐんでいたが、右手を伸ばしてピアノの上に置いてあった封筒を手に取った。
「そういえばこれ…チケット届いたから渡さないと。卒業生の演奏会の」
「あー、そうだった。あとで代金払います。で、当日はどうすれば?」
持ち帰るのを忘れないよう、とりあえずズボンのポケットに封筒ごとチケットを入れた。はみ出しているが後からバッグに入れればいい。
「それが…僕も会場へは行くんだけど、一緒に待ち合わせて行けなくなった。ごめんなさい」
受け取った封筒の中身を確認しながら、優留はその理由を尋ねたが、また亨は黙り込んでしまった。少し間を置いたのち、やっと亨がぼそぼそと話し始めた。
「元々出演する予定だったピアノ科の同級生が、体調不良で出られなくなって……代わりに僕が出ることになっちゃった」
「え!マジで?」
予想外の話に優留は思わず声を上げたが、対照的に亨は俯いて小さくなっていた。
「やった〜。滅茶苦茶楽しみになってきた。舞台の上で演奏してるとこ、見てみたいと思ってたし」
「でも…駄目だと思う」
亨の声は、今にも消え入りそうだった。
「へ?」
「今まで一度も弾けたためしがない。だから、そんな風に言われたら困る」
優留は亨の言っている意味がわからず、目を瞬かせた。
「弾けたためし…って、いつも弾いてるじゃない。俺の目の前で」
「それとこれとは、全然違うし」
「そうかなあ」
返す返すも疑問なのだが、この話になるといつも素直な亨がとことん頑なになる。
優留も初めは彼の消極的な性格のせいかと思ったが、やはり変だ。自分みたいに趣味で少しやっている程度ならともかく、音大を卒業した上、人に教えている立場なのに。
「でも、子供の頃に発表会とか出ただろ?それも全然?」
「…その頃は…」
「弾けてたんだろ。じゃあ何で今は駄目なんだよ」
「…大学一年の時に……」
やっと亨が話したその理由とは…。
それは学生ばかり集めたコンサートに出演した時のことだった。もともとあがり症だった亨は、コンサートで演奏する曲の練習を始めた時から気が重くてたまらなかった。本番が近付くにつれてますますひどくなり、ついに当日極度のストレスのためか、舞台袖で自分の出番を待つ時になって腹痛を起こした。順番を変えて欲しいと申し出ることも出来ず、全くの上の空でステージに出てピアノの前に座ったものの、演奏できる状態でないのは明らかだった。引っ込みがつかず演奏を始めたが…
「演奏をやめて、舞台袖へ走って逃げるしかなかった。客席の人も何が起こったのか気づいたらみんな笑い出して」
その状況を想像すると優留でさえ笑いが込み上げてきそうだったが、亨の心境を思えば勿論そんなことは出来ない。語尾が震えなくなるまで一呼吸待った。
「確かに…そんなことがあると…思い出すと怖くなっちゃいそうだな」
「……あれ以来、ステージに立っただけで頭が真っ白になって、何をしたらいいのか忘れちゃったりして、全く演奏できなくなった。結局大学を卒業するまで一度も演奏会では弾けなくて、試験だけでどうにか通してもらって…」
どこかおかしいのではないか、と両親も心配するので医者に診てもらったが、特に問題は見つからなかった。だから尚更解決できないままでいる。
「でも、その時からかなり年月も経ってるし、案外平気になってんじゃないの?」
「なってないよ」
「じゃあ最近、ステージに立ってみたことあるのか?」
「それはないけど」
「だったらやってみなきゃわかんないだろ」
優留は少しずつ苛立ってきていた。何でこんなに後ろ向きなんだろう。
「嫌だ。これ以上恥をかきたくない。今からもう気分が重いし…やっぱり自分はどこかおかしいんだ。それこそパニック障害みたいな」
「パニック障害って…」
優留の声色が突然変わったことに気付いた亨は思わず身を縮めた。その声が明らかに怒りを含んでいたからだ。
「そんなぬるい話と一緒にするな。ていうか何なんだ。結局、恥かきたくなくてゴネてるだけだろ」
「神崎さんみたいに何でもできる人にわかるもんか。何をやってもイケてない人間のことなんて…」
珍しく亨も顔を真っ赤にして言い返してきた。
「ふざけんな。俺だって散々恥もかいてきたし、何度やっても上手くいかないことだってあるんだよ。けど必死で乗り越えてきた。それに…俺だって…」
憤る優留の語尾が震えていた。彼はそれ以上何も言わず、ピアノの譜面台から楽譜を取り上げてやや乱暴に自分のバッグに入れた。
「帰ります」
一応、一言だけ残して優留は出て行こうとしたが、レッスン室の入口で立ち止まった。
「演奏会のこと…俺のお客さんの先生から話が来たんじゃないの」
「……そう」
「きっと、俺と同じことを思ってるだろうな」
亨が何も答えられずにいる間に、優留は出て行った。
亨はその後、花瓶を置くために玄関先にある、イタリア製の小さなテーブルの上に、千円札が三枚置いてあるのを見つけた。
優留が演奏会のチケット代を置いていったのだった。
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