アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第29話
-
一ヶ月以上かけて優留が入念に準備してきた日本国内の販売戦略の報告は、日本法人の本社ビルの中にある会議室で行われた。欧州本部から幹部が三名、日本法人の幹部も全員が出席し、今まで経験したことのない重厚な空気の中で三十分に及ぶプレゼンを優留は流暢な英語でこなしていった。質疑応答も全て英語で行われたが難なく受け答えができた。結果、多少の指摘はあったものの、彼の報告は概ね高評価を受けて終わった。休憩時間に入り、会議室の外に出た途端に頭が真っ白になった優留は、同じフロアにある休憩室のベンチに凭れて目を閉じたまま、動けなくなっていた。
「おい。死んでるのか」
散々怒られたあの戦略室長の声が頭の上から飛んできたので、優留はびくりと体を跳ねさせた。
「あ…す、すみませんっ」
慌てて立ち上がって謝る優留の様子を見ながら、しかし室長は楽しそうに笑い声をあげた。
「はは、かまわんさ。どいつも毎年本番が終わった後はそうなる。ご苦労さん。今年は建設的なツッコミはあったが問題なく済んでよかったよ。しかし君…あの英語はいつ勉強した?」
「通信教育がほとんどです。なので発音はあの通り棒読みで…」
「まあ、ネイティブ並みとは言い難いが頑張っているとは思う。販売店にいるとさほど必要性も感じないし、相当の意欲がないと勉強できないからな」
「ありがとうございます」
「と、いうわけで…せっかく身につけた英語をあと少し活用してもらおうか。休憩しがてら先方と今夜の予定を話し合ったが、君ともう少し話をしてみたいそうだ。そこで夕食に同席してもらうことにした」
「えええ〜」
「そんな嫌そうな顔するな。これも経験なんだから。じゃあ、頼むぞ。後から連絡するからとりあえず店舗に戻っていてくれ」
思わず悲鳴を上げてしまった優留に苦笑いしながら、室長はまた会議室へ戻っていった。
「ウソだろ…マジ死ぬ」
やっと解放されたと思ったのに…これを絶好のチャンスと喜ぶ気力も残っておらず、優留は再びベンチに腰掛けて深い溜息をついた。
矢代は金曜の午後八時に、待ち合わせの場所は渋谷駅の近くにあるホテルのロビーを指定してきた。確か翌日のコンサートがあるホールと、このホテルは同系列のはずなので、彼はここに宿泊しているのだろう。矢代は現在ドイツを拠点に活動しているが、もともとの出身地は兵庫県だった。
高層階のバーに席を予約しておく、と言われたので、余りヨレヨレの服装では…と思い、白のTシャツの上に先日叔母と演奏会用のスーツを買いに行ったついでにいつもの量販店で買った茄子紺のカーディガンを羽織った。叔母が絶対この色だというので選んだが、いつものデニムと合わせても少しよそ行きらしく見えて確かに悪くない。スニーカーも履きつぶして穴が開いたので買い換えたところだった。ほとんど悩むことなく着替えを済ませて亨は出かけた。昼間は天気がよく、澄み切った空気は日が暮れると冷たくなる。この時間からの外出にはニットのカーディガンは必須だ。
渋谷駅を出てから道に迷いかけて思いの外時間を取られたがホテルのロビーには約束の五分前に到着できた。すぐに矢代もやってきたので、二人は連れ立ってエレベーターホールに向かった。矢代が席を予約したバーは四十階にある。
彼らがエレベーターに乗って間もなく、やや急いだ様子でビジネスマンらしき一団が同じ場所に歩いてきた。
「予約の時間にすっかり遅れてしまいましたね。大丈夫でしょうか」
優留が隣にいた室長に耳打ちしたが、いつものことだから心配するなと返された。販売店視察などもあるのでスケジュール通りには進まないらしい。じきにエレベーターが降りてきたので、一行は中へ乗り込み、優留が端に立って室長の指示で四十階のボタンを押した。この階にあるフランス料理のレストランに個室を予約してあるとのことだ。本社ビルのある場所からは少し離れたこのホテルの店を選んだ理由は、欧州の幹部に急遽セッティングを頼まれたため、近くのめぼしい店の予約が取れなかったからだという。欧米人には日本人のように職場の人間同士がつるんで食事に行くような文化はない。いつもならスケジュール終了後はホテルへ送るまでに留まるのだが、こんな要望が出るのは珍しいそうだ。昼間に室長が言っていたように優留の英語に不安がないので、日本の販売員から直接話を聞く機会を得られると思ったからかもしれない。店舗の立地によっては外国人の顧客が多く、もっと語学が堪能な社員もいるはずだが、それだけでは彼らの興味の対象にはならないのだろう。
だから目当ては君なんだぞ、と言われて流石の優留もプレッシャーを感じていたが、彼らからしてみれば末端も末端の社員なのだから多少バカなことを言っても気にするまい、と開き直って、優留は個室のテーブルの末席についた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
30 / 45