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第34話
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報告会が終わって、優留にも平穏が戻った。今まで通りの販売業務に邁進する日々。表向きは何の変化もない。
しかし優留はあの晩以来、自分がこれからもずっと…今のままでいいのか悩むようになった。会社による例の進学支援制度についても本部へ問い合わせて調べてみたが、国内のみに限られていた。現地法人の業務内容には不要と考えられているのか、海外は制度の適用範囲外だった。更に勉強をするならば、海外のしかるべき実績を持つ大学などへ行かなければ価値がない、と考える優留には当然不満に思う内容だ。
考え抜いた挙句、優留は会社をやめて留学しようと決めた。勉強を始めながら、来年の3月までは今の職場で働いて少しでも資金を稼ぎ、それから9月の編入を目指して受験勉強に専念する。顧客の引き継ぎもあるから正月明けには辞表を出さねばならないだろう。
優留の勤務する会社は自動車製造業を中心とする世界有数のグローバル企業の傘下にある。この巨大企業の中核にいる人物と話をする機会を得たことは少なからず優留に衝撃をもたらした。彼らが見ている世界と自分が見ている世界は、全く別のものか?とさえ思った。
このままでいたら自分には何の生きる意味も得られない。自分から亨との繋がりを断ってしまった挙句、彼は今では他の男のものだ。
亨を失ったこの日常から抜け出して、あの別世界へ行く。行かなくては。
「あ、しまった。長居しすぎたな…」
スマホで留学に関する情報を検索していたら、あっという間に昼の休憩時間が過ぎてしまった。スマホを背広のポケットにしまいこんで立ち上がった優留の目の前に金や赤のメタリックな玉やリボンで装飾された大きなクリスマスツリーがあった。店に入ってきた時には全く視界に入っていなかったが…そういえばもう十一月も終わりの週だ。今年もそんな季節になったのか。
D駅から歩いて数分のカフェで、次の客先へ行くまでの時間を過ごしていた。店は新しく明るい雰囲気だが、インテリアやパンケーキ中心のメニューがなど、女性向きの傾向が強く優留の趣味にはいささか合わなかった。だが行き場がないので仕方なく利用しているのだった。もともとD駅といえば…気に入ってよく通ったKOZAWAがあるが、もうずっと行っていない。亨のことを思い出してしまうので足が遠のいてしまうのだ。
あの店のカウンター席で始めて亨を見かけた。彼の美しさに釘付けになって、店に貼ってあったピアノ教室のチラシを見て家の前まで行ったほどだ。今から思えば完全な一目惚れだった。
白い壁にボルドーがかった赤の木枠の外観を持つ、およそ彼に似つかわしくない愛らしい店の扉を開けて、優留は溜息混じりに外へ出た。紅葉も終わり、街路樹や家々の庭から見える木々も、殆ど裸になった枝を晩秋の冷たい風に揺らしているだけだった。
五月半ばのことだったと記憶している。まだ半年しか経っていないのに、随分昔のことのように優留は思った。そしてここから歩けばいくらもかからず、亨の家にたどり着くはずなのに…この世の果てのように遠い場所に思えるのだ。
客の家へ向かって歩いている途中、背広に水滴が落ちたのを感じた。
時雨か。優留が空を見上げると、暗い灰色の雨雲が大きな生き物のようにうごめき進んでいくのが見えた。その隙間から日の光が刹那に溢れて街の景色の所々を照らす。だがそれは一瞬で隠れてしまうのだった。もう、すっかり冬の空だ。バッグの中から黒の折りたたみ傘を出して開き、雨をしのいだ。歩く道筋で時折飲食店の前を通ると、どこもクリスマスの装飾を始めているのが見える。
一年のうちで一番忌まわしい季節が来る。優留は傘の下でひっそりと苦笑した。子供の頃には一切いい思い出はない。社会人になってからはパーティで談笑したり、付き合っていた女性とお仕着せのクリスマスイベントに臨んだこともあるが…却って虚しく感じてしまった。そして一時の喧騒が過ぎれば、華やかなイルミネーションの間を一人歩いて、一人で暮らす部屋へ戻るだけなのだから。
今更クリスマスに望むものなど、何もない。
だが、もしも…生まれて一度もクリスマスに幸福を感じたことがない自分へ、何か埋め合わせにくれるというのなら、彼が欲しい。
松波亨をくれるというのなら…
うちにも、飾った方がいいのかな。
土曜日の昼一番に鷲見の家へレッスンに来た亨は、レッスン室兼リビングルームの一角に、飾りかけのクリスマスツリーが置かれているのを見て思った。子供が何人も来るというのに、全く飾っていないのではサービスが足らなすぎるか。しかし流石に鷲見の家のツリーは立派だ。本物の大きなモミの木の下に、美しく絵付けされたオーナメントが入った箱が置いてある。二十年近く前に妻がドイツで買ったものだと鷲見が話してくれたが、木製の人形や家、薄いガラスでできた玉には細かなエナメル彩色の絵が描かれてあり、少し古びているが高価なものだと一目でわかる。
「御免なさいね。散らかしてて、邪魔しちゃってるかしら」
鷲見の妻がリビングの入り口から顔だけ出して詫びるので、亨は笑って首を横に振った。
「いいえ、全く。飾り付けが完成するのが楽しみです」
布製のくたびれたトートバッグから楽譜を出してピアノの譜面台へ広げていると、鷲見が一枚の紙を持ってきて亨に渡した。
「あの、先生…これは…」
「君の年齢でもまだ申し込みが可能なコンクールの一覧表。米印がついてるのは、来年がギリギリセーフってやつだ」
「海外…ばっかりですか」
「君の年齢や持ち味を考えると…国内じゃちょっとな」
レッスンを引き受けてくれたまでは良かったが、毎回…といってもまだ二度目だが、懇々と留学やコンクールへの出場を勧められており、藪蛇感が半端ない状況である。そこまでは考えてなかったのに…亨は心の中で大きく溜息をついていた。こうなったら何でもいいから一度だけ出て、散々な結果で終わって諦めてもらうしかないのか。と言っても海外に出向いてコンクールに出場するだけでも相当にお金がかかる。ようやく貯めた微々たる貯金など焼け石に水のごとく消えてしまう。このレッスンの費用を払うだけでもかなりの出費なのに、これ以上は無理だ。
今の自分の収入も少なく、父の定年も近づいているため経済的に難しいときっぱり鷲見に伝えると、さすがの彼も黙り込んでしまったが、
「卒業した直後なら推薦でスカラシップを取得するのももっと容易だったろうが…これだけブランクが開くと難しい。だけど、考えてみるよ」
まずはしっかり勉強しておいてくれ、と言われて亨も頷いた。
一時間のレッスンを受けた後、鷲見に礼を言って帰ろうとする亨に、鷲見の妻が『よかったらお家のどこかに飾って』と陶器でできたサンタクロースのオーナメントをくれた。
ピアノを弾くことは好きだ。どれだけ練習しても苦痛と思わない。学生時代より今の方がその気持ちが強い。あの頃は結局、考えが甘かったのだ。せっかく親が音大へやってくれたのに、つまらないことで卑屈になって…もっと学べたはずなのに自分でその機会を逃してしまった。
自宅へ向かう途中の駅で降りて、駅前のテナントビルの雑貨店で小さなクリスマスツリーを買った亨は、それと鷲見の妻に貰ったオーナメントを自宅のグランドピアノの上に飾った。それらを眺めて、今まで典型的な非リア充の自分には関係ないと思っていたクリスマスというものが若干近くなった気がした。
自分ばかりが求めようとするから寂しくなるのだ。生徒のためにツリーを飾って、キャンディの一つでも手渡してやればいい。自分が欲しいものは一つしかなくて、それは絶対手に入らないとわかっているから。彼は…優留は、クリスマスの晩…都心の華やかなイルミネーションの中を、きっと自分ではない誰かと寄り添って歩くのだろう。
涙が溢れそうになったのを手で拭って、亨はピアノの前に座った。実は昨日、アルバイトの依頼が入ったのだ。銀座の有名な宝飾店がクリスマスの販促イベントとして自社ビルのサロンで顧客限定のミニコンサートを開くので、出てくれと言われたのだ。当日までもう一週間ないので練習をしておかねばならなかった。
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