アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第37話
-
介護つきマンションの見学に行くから付き合ってくれと叔母から連絡があったのは、一月の半ばに入ってからだった。しかも受験シーズンで仕事が忙しく時間が取れないので、二つの施設を一日で回るという。
「だったらヒマになってから見に行ったらいいじゃない。まだ先のことなのに何でそんなに急ぐの」
「私だってあと二年で定年よ。いざ退職してどうするのってことになりたくないの」
どうやら条件のいい物件に空きが出ていると業者に急かされているらしい。実際に見て気に入ったら押さえておきたいと考えているようだ。そんな訳で、その週の土曜日は朝から駅の改札で待ち合わせる羽目になった。亨もその受験シーズンの影響で土曜日のレッスンはキャンセルになっていて、断る理由もなかったのだ。
とにかく一年で最も寒い時期と言っていい。天気は良かったが、その分朝晩の冷え込みも大きいため、亨はお馴染みの量販店で買ったカーキ色のダウンジャケットにグレーのコーデュロイのパンツ、駅前のどこかでセール品で出ていたこげ茶のフェイクムートンのブーツ等で完全武装してきた。何年か前に叔母がプレゼントしてくれた紺のカシミヤのマフラーで首と顔回りもしっかり包んでいる。しかし手袋だけ持ってくるのを忘れた。これが案外ダメージが大きく、素手で歩くと冷たくて耐えられない。恰好悪いと叔母に怒られながらダウンのポケットに手を突っ込むしかなかった。
「全力で寒がりアピール中ねえ」
「叔母さんこそ、どうせそのウールのコートの下に僕と同じダウン着てるんでしょ」
「オバサンはいいの。何でもありだもの。にしてもいいお天気じゃない」
最寄駅を降りてから坂道を歩いて施設へ向かう。静かな住宅街から少し離れた高台にそれらしき建物が見え始めた、聞くと今日下見する二件とも立地条件は似ているらしい。
「日が射してても空気が冷たくて全然あったかくないよ」
「情けないこと言って。でもお正月が開けると、何となく日の光の色が違ってくるのよ。春に向かってふわっと明るくなるの。私は好きよ。まだまだ寒いけど」
施設ではスタッフの説明を受けながら、空き部屋と居住エリア全体の見学、更に介護サービスの様子なども見た。どうやらここでは、自立して生活できるうちはマンションで、介護が必要になったら系列の介護施設へ優先的に移れるしくみのようだ。
マンションの入居者はその分を入居費に含めて支払っているので、移転時に待たされることはまずないとの返答だった。叔母の話では、立地のわりに入居費が比較的安いので目が留まった物件らしいが、全体的に殺風景だと不満を漏らした。「スタッフも感じは悪くないし、費用を思えば仕方ないかしらね」と一定の理解は見せていたが。
次の施設へ移動する間に、叔母が何故今から施設入居を考えているのか、亨にその理由を話した。叔母はずっと勤務している学校の教員住宅に住んでいるが、定年を迎えると出て行かねばならないので、何度も引っ越すより初めから終の棲家を決めるつもりらしい。定年後も暫くは非常勤で働くつもりらしく、立地に拘るのは通勤のためだった。それで坂道はあるがそれほど急でもない、駅に近い二件が候補になったのだ。
気に入った施設が見つかれば今から住んでも構わない、という叔母の言葉に、しかし亨は内心では危機感を覚えていた。自分が海外へ出た場合に自宅の管理を叔母に頼もうと思いついたのだが、それは現在叔母の住む教員住宅が比較的近くにあるからだ。
「さっきの施設だと、うちからはかなり遠くなるね」
「そうねえ。加代子や亨ちゃんとも今までみたいに会えなくなるかも。そこは考えちゃうわね」
二つ目の施設は比較的亨の自宅に近い場所にあった。叔母曰く「但し入居費は相当に高い」だけあって、建物の外観から高級ホテルのようだった。ロビーに入ると三十代くらいの女性スタッフが出迎え、まず簡単に説明を、と併設のラウンジに案内された。入居者もその家族が来た時にも利用ができ、飲み物や軽食が注文できる、と早速説明が入った。
施設の内容や今日の見学ルート等、一通り聞いてから実際に見学をして回った。個室も高級マンションのショールームを見るような洗練されたインテリアで、敷地内の庭は整備が行き届き、ちょっとした散策が出来る道も作られていた。自立した生活が出来なくなれば個室を出ることを余儀なくされるのは同じだが、介助があればそのまま生活できる入居者のためのケアは、先に見た施設より融通がきくようだ。こちらの方断然条件はいい、と叔母は漏らしたが…
「でも入居費は…」
「そこなのよ。私だと年金の支給額も含めて…本当にギリギリねえ。何かあったら一貫の終わりって感じ」
案内するスタッフの後ろでひそひそ話していると、後ろで誰かが叔母の名字を呼んだ。叔母が振り返ると六十代半ばと思われる女性がいて、どうやら叔母の元同僚のようらしい。夫婦で昨年ここへ来たと話している。彼らはスタッフの案内が終わってからロビーのラウンジで会おうと約束していた。
「実際入居してどうなのか聞いてみるわ。悪いんだけど少し待っててくれる?」
「その辺歩いて待っとくからごゆっくり。運動不足だし」
叔母には話が済んだら携帯へ連絡するように頼むと亨はもう一度庭に出た。三十分程度と言ってはいたものの、恐らくそれでは終わらないだろう。待てるだけ待って余りに遅くなるようなら先に帰らせて貰おうと思っていた。
施設の庭は、寒い季節だけあって殆ど人は歩いていない。一人か二人、杖をついた入居者にスタッフが付き添って散歩させているところをすれ違っただけだ。高台を切り開いて建設されているので階段道もあり雑木林のような常緑樹の茂みを残してあるところもある。年寄りが安全にプライベートな散歩ができる環境があるのはいいことだ、と思ったりしながらぶらぶら歩いていると、茂みの向こうから人の話し声が聞こえてきた。その話ぶりは穏やかとは言えず、何か言い争いをしているように感じた。ここにいては盗み聞きしてしまうようだと気が引けて、もと来た道を引き返そうとした亨だが、聞き覚えのある声が混じっていることに気づいて足が止まった。振り返った亨と、茂みの向こう側の小道から飛び出してきた人物の目が合った。
「…か」
驚いた亨は名前を呼ぼうとしたが、咄嗟に口に出なかった。
「…どうして、ここに?」
「お、叔母の見学に付き合って…あの」
「…」
ネイビーのピーコートを着こんだ優留の表情はひどく青ざめていた。そして、神崎さんは…、と亨が声をかけるのを待たずに彼は走り去った。
優留を追おうと茂みの向こう側に走り出てみたものの間に合わずその場に立ち尽くしていた亨は、彼が誰かと言い争っていたらしいことを思い出した。横に視線を移すと、初老と思しき夫婦らしい男女がいた。男性の方はがっちりした体格で上質そうなレザーのコートを着ているなど身なりがよく裕福そうに見えた。女性の方はスウェットの上下に丈の長いダウンの上着を羽織っていて痩せ型で小綺麗な顔立ちだが、亨はその女性に少し違和感を覚えた。
「あなたは、優留の知り合いか?」
太く、少し威圧感のある声だった。男性に尋ねられて、そうです、と亨は答えるしかなかった。
「…神崎優留さんの、ご両親ですか?」
「……血縁上は」
奇妙な答えだった。男は、妻と思しき女性を近くのベンチへ連れて行って座らせた。女性の方は一切口を開かず、視線も定まらない様子で亨に目も向けなかった。
「失礼、家内はアルツハイマー症でね」
違和感を感じたのはそのせいか。…息子の知り合いには余り見られたくない光景だろう、と思った亨は邪魔をしたことを詫びて二人の前から立ち去ろうとした。
「少し…待ってくれませんか」
優留の父親は、しかし踵を返そうとした亨を引き止めた。
「あなた、我々のことを…息子からお聞き及びですか」
家族とうまくいっていないことは漠然と聞いていたが、口にしていいものか亨は迷った。
「…余りご家族でお顔を合わせることはないと、伺ったことはあります」
優留の父親はじっと亨を見つめている。自分のことを探られているように思えて、亨は少し苛立ちを覚えた。
「あの、僕に何か…?」
「我々は確かに、血縁同士です。だがあれは…あれの兄もそうだと思うが、私と家内をもはや親だとは思っていません。だが、それは全て私が原因なのです」
あなたは信頼できる人のように思う。
私の話すことを聞いて貰えないか。
太い声が少し嗄れた。その声に、亨は向き合っている初老の男が何らかの苦悩を抱えているのを感じ取った。だが、自分が聞いたところで…
自分ではその話を受け止められそうにない。断ろうとした亨は、しかし優留の父の言葉に思わず口をつぐんだ。
情けない話だが、私では無理なのだ。
どうか、私たちに代わって息子を救って欲しい。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
38 / 45