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第38話
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よりによって、あの場所で亨に出くわすとは。
施設から駅までの坂道を、優留は走って下りた。一刻も早くあの場所から逃げ出したかったからだ。目の前に駅が見えてくると急ぎ足が徐々にゆっくりになり、優留は乱れた呼吸を整えようと大きく息を吸い込んだ。しかし氷のように冷たい空気に鼻まで突かれて、顔をしかめてしまった。
自分から縁は切った。金輪際関わらないと思っていながら、心のどこかで引っかかっていて…兄が教えてくれたこの施設へ来た。期待などしていない。あの二人と顔を合わせればいつも、自分は傷つくばかりだった。
自分の体裁ばかりが大事で家族を顧みない父と、愛のない結婚生活で極端に心を病んだ母は、父親似の兄を徹底してネグレクトする一方で、弟…つまり自分には異常な執着を示した。子供の頃から交友関係に干渉されてそのたびに友人を失い、大学生になって家を出ると下宿先に押しかけてきて、追い返そうとすると大声で叫んで荒れ狂ったようにアパートのドアを叩いたりした。そのために何度引っ越さねばならなかっただろう。
二人の息子にもまともに接することができなかった、どうしようもない両親だ。いっそダメ押しでもう一度痛い目を見たら、今度こそ綺麗さっぱり忘れられるだろう。両親と完全に決別するつもりで仕事を休んでここへ来た。
だが、優留が施設で出会った二人の姿は、彼の記憶の中にある両親の姿とは余りにもかけ離れていた。
父と母が言い争いをする以外、まともな会話をするのを見たことがなかった。だが施設で会った父は常に徘徊する母に付き添って、母がうわ言のように呟くことに根気よく相槌を打っていた。母は若年認知症を発症していたが、父にも家政婦にも気づかれないまま数年が経過していたという。元から精神状態が不安定だったため、見分けがつかなかったのだ。更にここ数ヶ月で症状が悪化して、もはや誰が誰なのか、認識することもできなくなっていた。
あれほど執拗に彼を追い続けてきた母親が虚ろな目をして『あなたは、どなた?』と優留に尋ねたとき、優留の中で怒りとも他のものともつかない感情が爆発した。
忘れたっていうのか?
これほど俺を苦しめておいて自分だけさっさと忘れるのか?
思わず叫んでいた。だが、怒りに任せて母に食ってかかろうとする優留の前に父親が立ちふさがった。
『路代を責めないでやってくれ。元はといえば私のせいだ。路代はこうでもならなきゃ救われなかったんだ。そして私が誰だかわからなくなったとき…初めて穏やかになったんだよ…私たちは他人のように会話をすることで、やっと一緒に暮らせるようになった。こんな皮肉があるか?』
だけど、何で今更。優留は混乱してしまった。
今になってこの二人は、父の言葉とは裏腹に…まるで夫婦みたいに寄り添って生きている。兄や自分がそれを求めていた頃には一切見せてくれなかったことを、どうして…。優留はこの二人に一体、どんな感情をぶつけたらいいのかわからなくなってしまった。
やっぱり、行かなければ良かったのだ。
駅のホームへ上がると、電車はちょうど発車したところだったので、僅かに設けられたベンチの空席に座って、優留は天を仰いだ。そうすれば虚しさが少しでも紛れるかと思ったが無駄だった。ふっ、と自嘲を交えて息をついたと同時に、スマートフォンのメールの着信音が鳴った。面倒に思いながら、渋々コートのポケットからスマホを取り出して送信元を確かめた優留は、慌ててベンチの背もたれから身を起こした。あの戦略室長からだった。
『先日来日した欧州の幹部の一人に、君に留学の意思があると伝えたら興味を示した。留学先を欧州の大学にするなら本社に転籍させて就学支援の対象者にしてもいいと言っている。詳細は月曜の朝一番しか説明する時間がないので、八時半にウェブ会議システムに入って欲しい』
『承知しました。必ず』優留はすぐに返信した。
すると今度は顧客から電話が入り、車の調子が悪いので対応して貰えないかと電話口で懇願された。優留はすぐエンジニアを手配して一緒に訪問する、と約束して段取りを始めた。
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