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十三日の金曜日
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「十七日の金曜日、って知ってるか?」
男は使用人に、そう問うた。
森の外れにある古い洋館に住むこの男は、まだ風呂の時間には早いというのにお気に入りのバスローブを身に纏って優雅にワイングラスを回している。
スワリングは一度で良いと使用人にくどくど言われても決して辞めようとしないご主人に、使用人は半ば呆れ顔で重たく口を開いた。
「十三日、ではなく?」
「お前のところでは十三日だったのか?オレは十七日と聞いているが」
相変わらずグラスを回す手は止めないで、しかし驚いたような表情を浮かべて男は使用人を見やった。
十三日の金曜日、というのはフランスやドイツなどの国々で迷信により不吉な日とされている日のことである。
しかしこれには諸説あり、ある地域では十七日と言ったりもするようだ。さらに、そう言われる所以はいまだ明らかとはされていない。
「……どっちにしてもただの迷信。んなの信じてんの?」
「信じているというわけではないが、何となくそわそわしないか?こう、────館の中が暗いと」
そっと窓の外に目をやる。まだ夕方だというのに外はすっかり日が落ち、薄暗い闇色が森に続いていた。心なしか風も出てきて、古い窓がカタカタと小さく鳴る。
……たしかに、雰囲気はばっちりだ。外は闇、風が吹き窓を鳴らし、館の中は照明がなく小さな蝋燭があちらこちら。
いかにも「出てきてください」といった風情だった。
しかし使用人は大して気にも留めていないふうに、淡々とした口調で続けた。
「……外が暗いのは太陽が雲に隠れているせい。これから夕立になるってだけ。理由がわかったらすっきりしますか?」
極めて丁寧な言葉で、しかし面倒臭さとうざさを全面に押し出した高圧的な態度で使用人は男を見下ろした。
というか、これではまるで「見下した」の方がしっくりくるような気もする。
男は「そういうわけではないんだ」と小さく手を振るとようやくグラスを止め、机の上に置いた。
「……雰囲気が素敵じゃないか?って話だ」
「は、アンタこーゆーの好きなの?」
奇しくも今日は十三日の金曜日。外では天気が荒れ中は以前薄暗いままだ。
男はわくわくした表情を浮かべた。
もちろんだ!と言いたげにぶんぶん首を縦に振る男の手元をふとみて、使用人はふっと息を漏らした。
小さく小刻みに、震えている。
やっぱり怖いんじゃあないか。同情したような軽蔑したような何とも言えない顔でため息を吐いた。
「……見栄っ張り」
「な、嘘ではないぞ!興奮で手が震えてるだけだ!」
「はいはい、強がんなくて良いから」
むう、と子供みたいに唇を尖らせる。もういい年した大人のはずであるが、童顔のせいか精神年齢が圧倒的に低いせいか、その顔がとても似合って見えた。
────バスローブとワイングラスに関しては、ちっとも似合っていなかったが。
窓の外では、いよいよ本格的に雨が降りだした。風の吹きさらす音に合わせて、雨もまた窓を叩いた。音はより一層強くなり、館中の窓という窓が一斉に音を上げちょっとしたオーケストラ状態だった。
時間も頃合いということで夕飯にしようと、ダイニングに向かう。さすがにここは照明を点けないわけにはいかなかった。
というのも、単に館が暗いのは男が風情があるからと館の全照明を落として蝋燭を使いたがる、というだけだった。
(んなこと、知るか!)
胸の中で悪態をつきながらダイニングの明かりを点ける。
────カタン。
小さく物音が聞こえた気がした。怪訝な表情であたりをぐるっと見回してみるが、誰かがいるような気配はない。
大方、ネズミか何かだろうと、あまり気にはしていなかったのだが。
「……あれ?」
ステンレスの調理台の下の収納から道具を取り出そうとしたとき、ふとあることに気がついた。
やがてそれは、彼への大きな不安要素となっていった。
(包丁が一本、なくなっている……)
一方男は、もう一度バスタイムを堪能しようとバスルームに向かっていた。
だだっ広い館にしては少し狭めの、ごく普通のユニットバス。彼はこれが一等お気に入りだった。
コックを捻ると心地よい温度のお湯が飛沫をあげる。彼は熱いのも冷たいのも苦手だ。だからいつも適温のお湯が出せるように、設定してある。
シャワーに打たれながら鼻歌なんて歌っていると、外の嵐もあまり気にならなくて、男はいつのまにかすっかり安心しきっていた。
本当は怖かったのだ。使用人もそうだが、この男もまた、怖いものが苦手なのである。
バスタイムを堪能したらまたお気に入りのバスローブに着替え、もう一度ワインを楽しもうと使用人のいるダイニングへと向かうことにした。
ダイニングに向かうには、一度玄関の前を横切る必要がある。古く重い扉を開くと、正面にはなんだかそれっぽい、T字型の大きな階段があった。
ちょっと夢見勝ちなところがあった男はただこの場所が気に入ったという、それだけの理由でここの購入を決めたという。
その階段をすっと見上げた。
蝋燭の明かりの届かない薄暗い隅の方に、何かが潜んでいそうな不穏な空気が見えたような気がした。
慌てて目を逸らし、早くこの場を抜けようと足を踏み出した、そのときだった。
「…………?」
低く鈍い唸り声が聞こえたような気がする。使用人はダイニングの扉をじっと見つめた。
音は確かに、扉の向こうから聞こえた。それも、ここからさほど遠くない場所からだ────。
不吉な予感がする。恐る恐るその場を飛び出すと、玄関の方へ駆け出した。
使用人も、怖いものは苦手だ。足が震えてうまく走れない。それでも今いちばん怖かったのは外の雨でも薄暗い廊下でもなかった。
(無事でいて、何事もないで……!)
そう、胸の中で強く願いながら男のもとへ訪れた。
────しかし、願いは届かなかった。
薄暗がりに浮かぶ、男の姿。あれだけ美しくて好きだと言っていた階段の前で、だらしなく横たわる。そして背中に見える、キラリと光る金属の刃……。
(どうして、なくなった包丁がカラ松の背中に……)
さっきよりも覚束ない足取りで男に歩み寄る。もう彼には、走れるほどの力は残っていなかった。これ以上無理に足を動かすと転んで立ち上がれなくなりそうだった。
目は開かれたまま、真っ白なバスローブは血で赤く染まっている。まだ新しいのかほとんど乾いておらずきれいな赤色をしていた。
呼吸は止まっている。きっと刺さったところが悪くて即死だったのだろう。
今にも動き出しそうな温かみに触れながら、使用人は涙をこぼした。
彼にとって、男は人生のすべてだった。大人達に見捨てられ、社会からも見放された彼を救ったのは他でもないこの男だ。住む家と仕事を与え、今日この日までいつも一緒に暮らしていたのだ。
どきどきうんざりすることもあった。人の言うことは聞かないし、すぐ自分の世界に酔うし、見栄っ張りで押しに弱い。行商人にろくてもない壺を掴まされ痛手を負ったこともある。
それでも、助けてもらった恩は忘れることができなかった。それだけ、使用人にとっての男は大きな存在だったのだ。
(もう一度名前を呼ばれたい。あのあったかい手で撫でられたい。でも、もうカラ松はいないんだ……)
自然と涙がこぼれた。一度溢れた涙は次から次へこぼれてきて、止まらない。声にならない嗚咽をあげながら使用人は泣き続けた。
外の雨は以前強いまま。彼の泣きじゃくる声は外を打ち付ける雨の音にかき消されていく。
ひとしきり泣いて落ち着くと、使用人は腕で涙をぬぐって立ち上がった。まだ震えている足を踏み鳴らし、力を込めて立ち上がる。ひとつの決意を胸に秘めていた。
玄関の横脇に掛けられた仮面を手に取った。
(再びこれに手を掛ける日がくるなんてな……)
心の中で呟きながら、それを被った。薄汚れた白。ところどころに散った乾いた古い血の跡。そして、“よく手に馴染んだ”懐かしい武器を手に取って館に内側から鍵をかけた。
彼の持っている鍵は特別なもので、一度かけてしまうと外からではないと開けられなくなってしまう仕組みだ。
つまりは、まだ館の中にいるであろう犯人を決して逃がさないための手段だった。
(カラ松の仇は、おれが取る……)
決意を固めて、苦手だったはずの闇の中に姿を消した。
十三日の金曜日はまだ明けない。
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