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I will stay with you.〈下〉
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神には、"睡眠"という概念も存在しない。
だから、アオイが眠っている間はいつも、家の本棚に無数に散りばめられた、本を読んで過ごしていた。
「………………」
ぱらり、ぱらり。
断続的にページをめくりながら、感慨を抱かずにはいられない。
ある事柄に対する、個人の見解。
ある事象に対する、研究、分析。
個人の感情を前面に押し出した、物語たち。
どれをとっても、それは人間の思考と感情の結晶で。
こんなにも自分が自分であることにしがみつくのは、人間だけなのではないだろうか。
多くの動物は、種のために生き、全体の中での己の役割を全うして、そうして終わりに身を浸していく。
ーーーーやっぱり、あらゆるあり方において、人間は実に特有で、理解しがたい生き物だ。
そう結論付けて本を閉じることができる度に、俺はほっと息を吐いた。
その結論が出せる限り、俺は神である、そのはずだ。
けれどそこで沸き起こったのは、無視できない違和感。
…………自分の認識が揺らいでいないことに安心している今の状況は、己が忌避する人間のそれと、どうちがうのだろう。
そう考えて、その思考にクラリと眩暈がした。
こんなこと、今まで考えたことがなかったのに。
「………………ぅ、」
小さな呻き声にそちらを見遣れば、僅かに眉を顰めて眠るアオイがいる。
起きているときはいつだって穏やかに、綺麗に笑っているのに、眠っているときのアオイはなんだか別人みたいだ。
引き寄せられるようにその頬に触れて、そっとなぞれば。
「………………て、…………ら」
起きたわけでもないのに、その口は俺の名前を紡ぐ。
殆どアイラからしか呼ばれたことのなかった名前は、一体何度この口に呼ばれたことだろう。
柔らかくなったその表情。
この手のひらに、ゆるやかに伝わるその温もり。
それを保持するアオイは、俺が嫌いなニンゲンで。
………………終わりを行使する対象でしかないのだという事実。
どれも最初から変わらなくて、最初から分かりきっていたことだ。
つまり、変わったのは、ほかでもない俺。
立てた膝の間に、ぽすりと頭を乗せ、夜が明けるのを待つ。
今目を閉じたら、アオイと同じ夢を見られるだろうかなんて考えてしまった俺は、もう手遅れなのだろうか。
そうしてしばらくして。
5日目の朝が来たことを察して顔を上げれば、アオイはまだ眠っていた。
起こさないようにその場を離れようとすれば、聞こえたのは不規則な呼吸。
「……ひゅ、……か、は…………」
聞いたことがない苦しそうな声に思わず駆け寄れば、アオイは薄っすらと目を開いていた。
「あ、は…………だいじ、ょ、ぶだから………………」
そんなかお、しないで。
そんな風に言って、俺に手を伸ばしてくるアオイは、正真正銘のバカだと思った。
その手をそっと握って、アオイが落ち着くのを待つ。
それはそんなに長い間の出来事でもなくて、ほんの少したてば、あっさりいつも通りのアオイに戻る。
「いや〜〜ごめん、びっくりさせたね」
そう朗らかに笑う表情は、いつもと少しも変わらなくて。
なんでだと、そう問い詰めたくなる。
「なんで笑ってるんだ」
出た声は、いつもより心なしか低い気がした。
苦しかったのはアオイなのに、その影響を受けているのが俺だなんて、ひどく不合理だ。
「…………?」
それでも、心底不思議そうにしているアオイのことは、理解できなかった。
「こわくないのか」
何人だって、見てきた。
何度だって、聞いてきた。
苦しむ顔、苦しむ声。
嘆く顔、嘆く声。
なのにどうしていつもこいつは凪いでいるんだ。
「ふふ、ぼくに、興味を持ってくれたのかな、嬉しいね」
あまつさえ、こんな残酷な質問をなげかける死神に笑ってみせるなんて。
やっぱりアオイは、俺が知っているニンゲンとは、全く違う生き物だ。
アオイはふいに窓の外に広がる青空を見つめた。
「……こわくはね、ないよ。
…………だって僕、死ぬのは明後日なんでしょう?じゃあ、さっきのはただのいつもの発作じゃない?」
そう告げる口元には、相変わらずの微笑み。
それが本音なのか、強がりなのか、情けないことに俺には推し量ることができなかった。
それは、アオイが他のニンゲンより、ずっと透明だったというのもあるだろうけれど。
俺がもう、アオイを他のニンゲンと同じように見ることができないから、というのが、恐らくは大半を占めていた。
そのあとアオイが何を喋ったのかは、あまり覚えていなかった。
ただただ、アオイの瞳にうつる空が、実物の何倍も美しく見えたことだけが、鮮明に脳裏に焼き付いていた。
6日目。
やはり体調が悪かったのか、一日中寝たままで過ごした昨日を終えて。
「………………」
今日アオイは、一心不乱になにかを描いていた。
「……アオイ」
試しに呼びかけて見ても、反応はない。
それは、朝から始まって、夜まで続いた。
ご飯も食べず、休憩もせず、胸の内を吐き出すように、鮮やかな色をキャンパスにぶつけ続けるアオイ。
その姿は、どうしようもなく綺麗で。
キャンパスに散りばめた色を反射して輝く瞳も、どこまでも美しい。
この美しい生き物が、明日になれば消えて無くなってしまうのかと思うと、ぎゅうと胸部の奥が、締め付けられるように疼く。
…………神は、あるかないか、それだけ。
けれど、生き物には始まりがあって、終わりがある。
魂は輪廻転生するなんて話もあるらしいが、俺の管轄ではないからわからない。
ただ、ひとつだけわかるのは。
この肉体と、この記憶と、この感性と、この魂。
全てが揃って構成される"アオイ"は、ここにしかいないという事。
魂だけが同じで、それだけで、次の容れ物は"アオイ"になり得るのだろうか。
もっと勉強しておけばよかった、なんて。
夜も過ぎて、夜中を超えて、次の朝が来て。
最後の朝にようやく、アオイは手を止めた。
「………………できた」
俺に背を向けて立っているキャンパスになにが描かれているのかはわからなかったけれど、アオイが満足そうだから、それでいいと思った。
貴重な1日を使ってでも、他のなにを犠牲にしてでも、描きたい何かだったのだろう。
「…………気は済んだか」
そう声をかければ、1日ぶりに、その済んだ瞳が俺を捉えた。
「うん、満足だよ、なにも思い残すことはない。最高さ」
そういうと、おもむろにキャンパスを俺に見せつけた。
「…………?!」
「ーーーどうだい?綺麗でしょう?」
思わず、息を詰めた。
だって、そこに居たのは。
「白黒なんかじゃ、君の綺麗さは伝えられないからね。どうかな?これでも人間の中では、絵が上手い方だといわれているんだけど…………って、テラ?!」
なんで、このニンゲンは。
「あああ、ごめん。気に入らなかったかな?勝手なことしてごめんね、でも…………」
貴重な時間を、無駄なことをまくしたてることに費やす馬鹿に歩み寄る。
その足元に膝をつき、ぽすりと肩に頭を乗せれば、逡巡したような気配の後、慰めるように頭を撫でられる。
「ごめんね、泣かないで、テラ」
その言葉ではじめて、この熱い液体が、俗に言う涙なのだと理解した。
「なんでお前、ばかじゃねぇの。なんで最後の貴重な時間で、俺を描くんだよ、自分のために使えよ、ばか」
本当にバカだ。
願いを2つも無駄にして、一週間だって、結局俺と過ごしただけじゃないか。
「………僕は、自分のために時間をつかったさ。過ごしたい人と過ごして、描きたいものを描いて、見たいものだけをみて、過ごした。
……こんなに贅沢なことはないと思うよ」
するとそこで、急に浮遊感。そして。
ふに。
柔らかく触れた唇は、啄ばむように俺のそれに触れて、甘やかな刺激を残して、離れていく。
「………………」
ただ呆然とする俺を捉えた瞳は、最初とかわらず、愛おしいものを見るように俺を眺めていた。
ーーーーーー
嫌いだった。
自分が、人間が、世界が。
世界が好きで、描き始めたはずだった。
人間が好きで、触れ合いたかったはずだった。
けれど、現実は、夢見がちな子供が思っているほど綺麗でも、甘くもなくて。
「どうせお前の名前じゃ、誰も見やしねぇんだ。俺はお前の腕を借りて、お前は俺の名前を借りる。
ウィンウィンだろ?」
悪魔のささやきに、抗うこともできない。
そうして浪費した時間は、やりがいを見つけることもできないまま、幕を閉じた。
希望を、動機を失えば、腕なんてあっさり止まるものだ。
描き続けるのはあんなにも大変だったのに、一度止まって仕舞えばそれはぬるま湯のように心地が良くて。
…………もういいんじゃないか、ってそう思った。
誰かを幸せにしたくて、始めたこと。
誰かの笑顔をつくりたくて、描き始めたもの。
けれど、幸せにしたい人も、笑顔を見たい人もいなくなって仕舞えば、もうどうだってよかった。
汚い計算も打算もない、綺麗な世界に身を浸していたくて。
都心に構えた自宅を売り払って、人里離れた辺境に身を置いた。
動物と、植物しかいないような。
そうすれば、段々自分を取り戻せる気がした。
実際、なにも考えなくて良くて、なににも脅かされない生活は、ただただ幸福だった。
綺麗なものしかみなければ、綺麗なことしか考えずに済む。
「…………っく、…………ヒュ、」
先が長くないことはわかっていた。
幼い頃からそう言われ続けていたし、それ自体はもう受け入れていた。
僕にとってこわいのは、死ぬことじゃない。
死ぬときに、汚い自分で痛くなかった。
だから、どうか、神さま。
「命を終える時が来たら、どうか1番綺麗な人の隣で、その時を迎えさせてほしい」
唐突な言葉に目を見開けば、優しい瞳のまま、アオイは告げる。
「これがね、僕の本当の願い。ずっとずっと前から、これさえ叶うなら、いつ死んだっていいって思ってたんだ」
「っ…………」
どうして、そんな目で俺を見るんだ。
俺は、ニンゲンじゃない。
だから、アオイの尺度からすれば、綺麗の定義にあてはまるのかもしれないけれど。でも。
「俺が、綺麗なんじゃない。
…………俺を写す、お前の瞳が綺麗なんだ」
俺はもう、この感情の名前を知っていた。
無数にある、この家の本が教えてくれたその名前は、俺には縁がないと思っていたのに。
「ふふ、ありがとう。君にそんなこと言ってもらえるなんて、本当に、ぼくは幸せ者だね」
ーーーーこれは、愛だ。
「これで、心置きなく終われるよ」
そう告げる瞳は、やっぱり真っ直ぐで。
その表情は、どこまでも清々しいものだったから。
……それはきっと本音なのだろう。
「ーーーえっ?」
その愛おしい顔を引っ張って、今度は俺から口付けた。
一度じゃ足りなくて、何度も、何度も。
最初は動揺していたアオイも、応えるように俺に口付けて。
幸せという言葉の意味を、今、始めて経験したけれど。
それでもわかる、俺はきっと今、世界で一番幸せであるに違いなかった。
「愛してるよ、アオイ」
その言葉に、信じられないと言いたげに見開かれた瞳をじっくり見たいのに、視界が滲んでどうしようもない。
俺の凝り固まった偏見を覆した、綺麗なニンゲンは、そっと俺の涙に手を伸ばす。
「…………僕もだよ、最期にテラといられるなんて、僕は本当に幸せだ。
…………ねぇ、最後のお願い、いい?」
「………………なんだよ」
「笑って。
僕はね、ずっと君の笑った顔が見たかったんだ」
ひどいことを言う奴だと思った。
とても、笑える気分なんかじゃないのに。
俺は今まで、終わりをきっと、理解しきっていなかった。
終わりが、こんなにも辛いものなのだと、知らなかった。
かつて俺が終わらせて来た幾多の命は、みんな、こんな引き裂かれそうな痛みを味わっていたのだろう。
そんなのまさしく、悪魔じゃないか。
けれど。
「ねぇ、笑って。世界で一番綺麗な神様」
やっぱりお前は、そんな俺でも神様って言うんだな。
精一杯口角を釣り上げた、形だけの不恰好な笑顔。
それでもアオイは満足そうに笑ってみせた。
そこで、2人の腕輪が震えて、俺の腕輪は鎌に変換される。
終わりのときがきた、合図だった。
それを察したように、そっと目を閉じるアオイの肩に、手を乗せる。
「さようなら。最期の最期に、たくさんのものをくれて、ありがとう、テラ」
そうして俺は、大きく鎌を振りかぶった。
ーーーーーーー
「でも不思議なことってあるものねぇ、あんなに不治の病だって言われていた持病がなおるなんて」
「ええ、正直自分でも信じられません」
「きっと、こんなにいい子を殺してしまうのは忍びないって、神様もそう思ったんでしょうね」
きっと、冗談交じりに呟いたであろうその台詞は、ちくりと僅かに僕の心を刺激する。
「…………?」
その度に、記憶を掘り返してみようとするのだけれど、特に何も思い出すことはできなくて。
『俺こそありがとう、アオイ』
ある日、ふと唇になにか柔らかい感触と。
そんな声が聞こえた気がして。
ふと目を開ければ、けれど部屋には誰もいない。
そして、目の前にあったのは。
「……………………きれい」
見たこともない、美しい人が、たくさんの生き物に囲まれて、穏やかな表情を浮かべている絵で。
散らばる絵の具や筆、絵画のタッチ。
どれを取っても、僕がこの絵を描いたことを示しているけれど、全く覚えはない。
こんな絵を描いたら、覚えているはずだと思うのに、靄がかかったようになにも思い出せなかった。
そして、その日から全てが変わった。
その絵は、有名なコンテストの最優秀賞を受賞して。
無名で、ゴーストライターとしてしか活動できなかった僕は、たちまち脚光を浴びた。
それと連動するように、生まれてから付き合い続けてきた持病までなくなって。
嬉しいことしかないはずなのに、何かが引っかかる。
「………………なんでだろうね、」
答えなんて帰ってこないと分かりながら庭の花に問いかけた。
ーーーー一面に咲き誇るのは、葵の花。
あの日、かすかに耳に届いた気がした、"アオイ"と言う声が忘れられなくて。
「先生!!時間が迫ってます!!!はやく!!」
「あぁ、悪いね。今いくよ!」
声の方に一歩踏み出せば、突如回復した心臓が、僕を応援するように、一度強く脈打った気がした。
ーーーーーー
「あーあ、お前までそうなっちまったか」
ふて腐れたような、寂しそうな声に目を開ければ、直ぐそばにあるのは、見慣れたアイラの顔だ。
「…………まぁな」
気になって自分の腕を見てみれば、見事に透けている。
けれど、それでも俺は"存在"していた。
「……"できなかった"ら、その瞬間"無"に帰るんじゃねぇのかよ」
「普通はな。でも、お前はよく働いてくれたからな、テラ。特別報酬だ。選ばせてやるよ」
そう告げるアイラの表情は、いつもとなんら変わりなくて、本当はなにもなかったんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
「ーーーー二択だ。
今度こそあいつを終わらせて、死神にもどるか。
ーーーーー好きなものに、生まれ変わるか」
「…………!?」
「好きなものに生まれ変われば、その次の命の保証はねぇ。
死神を選べば、恒久の命が保証される。
…………さぁ、どうする?」
「……俺は」
「一度きりのチャンスだ、慎重にいけよ」
忠告するように、アイラがそういったけれど、俺の答えは初めからひとつだった。
「俺は、アイツの、心臓になりたい」
「は…………?」
「あいつの、健康な心臓になって、あいつと生きて、あいつと終わりたい」
その答えに呆然とするアイラに、心の中で謝罪する。
アイラが俺のことを信用してくれていることも、俺を可愛がってくれていたことも、わかっていた。
それでも答えは1つだ。
決まった答えに、世界の秩序が動きだすのを感じた。
透けていた体はより透明になって、体の組成が組み変わっていくのがわかる。
「…………はぁ、ほんっとどうしようもねぇな、お前も。
…………精々幸せになれよ、テラ」
アイラは、寂しそうな目をしながらも、いつも通り、皮肉な笑みを浮かべて、そういった。
「……ごめんな」
「……それが悪いと思ってるやつの面かよ」
「ふっ、たしかに」
あの時は不器用にしか浮かべられなかった笑みが、今は自然と浮かんでいるのがわかる。
「じゃあな、今までありがとな、テラ」
こちらこそ。
その言葉は、果たしてアイラに伝わっただろうか。
ーーーーなぁ、アオイ。
これから、ずっとずっと、見守っているから。
最後までずっと、愛してるよ。
ーーーーーーー
I will stay with you.
君が終わる時は、俺が終わる時。
俺が終わる時は、君が終わる時。
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