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I'm home
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自分よりも少しだけ歳上の女性は、同じ会社の受付で働く人だった。
特別な関係があるわけではないのだが、出社する度に何度も顔は合わせていたし、何よりうちの会社の受付は相当な美人でなければ務まらないとも言われているため有名なのだ。要は、能力だけでなく顔も良くなければ採用されないとの噂で、現にここの受付はみな綺麗で歩く姿勢すら美しく、動作一つひとつが洗練されたものだった。だから自然と社内でも噂されることは多いし、社外でも知っている人は知っている。
そのくらいの関係性で、自分からすれば噂の中の人物、人の話の中の登場人物である。
そんな女性が可愛らしい花束を手に、申し訳なさそうにしながらも決して恥じることなく、自分の行動に自信を持った顔で声をかけてきた。
一言二言だけ言葉を交わして、それを受け取る。
重さなんてそんなにないはずなのに、真っ赤な花や桃色の花で彩られた想いの塊に、ずっしりとした重さを感じた。
I'm home ⑴
別に決まっているわけではないのだが、呼び出される日は決まって土曜日の夜だった。
それも不定期。
恋仲になってからもう十年近くになるというのに、会えるのは月に数回だけで、短い言葉を交わして後はベッドの中なのがいつもの流れである。それに満足はしていないものの別に不満はない。
互いに二十代半ばになり、多くの仕事を任されるようになってきたのだから、これまで以上にプライベートが潰されてしまうのは、まあ致し方ないことなのである。
加えて恋人はなにかと優秀で、順調に昇進の階段を昇っていっている。それは恋人として喜ばしいことであり、決して邪魔をすることはできない。
働き始めた頃は、上層部の一部が腐敗していることを嘆いていたし、それを変えるためにもどんどん上を目指そうとする彼を心から応援していたのだって自分だ。
会える時間が少ないことを許さないなんて思うほど子どもでもないし、自分勝手にもなれない。何せ自分も仕事を蔑ろにはできないからだ。
そんなこんなで月に一、二回会えればまあ良い方かと自分に言い聞かせることにもだいぶ慣れてきてしまっていた。
知人に言えば感覚が麻痺しているだの何だのと言われるものの、特には気にしない。自分たちはそれで何年も関係を続けてきた。
元より、想いを告げて交際を申し込んできたのはあちらからだったとはいえ、だからといってあちらの方が想いが強いとは限らない。恐らくは、愛情の比率で考えるのなら自分の方が上回っているのだろうと思う。
だから、どんなに忙しく仕事で遅くまで残って体力も気力も削られた夜であっても、月に一、二回ある土曜日の夜の呼び出しには必ず応じてきた。それで体を重ね日曜の朝がやって来る頃には隣に恋人の姿がなくても、まあいいかと思えるほどには、恋人の全てを許せるほどに好いているのだ。
許そうと思えばなんでも許せるのである。自分にとって一番大切で愛情を抱いている人間であれば。
許せないことなんて、本当はそんなにないのだと。何故なら自分にとってはその人が一番だからだ。
───許したくなくても、許さざるを得ないことなら、一つあるが。
しかし、そのおかげもあり、これまで十年もの長い間ずっと関係が続いてきたのも事実なので、今更何も口出しはしない。学生の頃の有り余った時間と自由は、大人になるにつれてなくなっていくものだ。それをいちいち嘆いていては今を生きるのが大変になってしまうだろう。
恋人が住むのは都心の高級賃貸マンションだった。
と言っても、仕事人間のあの人自身が帰るのだって週に一度くらいであり、生活の場というよりはたまに利用できるひとりになれる場所程度の認識なのだろう。あとは、まあ、手っ取り早く欲を発散させるのに丁度いい部屋、か。勿体ないとは前から言っているのだが、変えるつもりがないのか、それとも他へと移り住む暇すらないのかずっと変わらない。
今日はいつもとは違って、仕事が終わってすぐ恋人のもとへと向かうのではなく、地元の駅近くで時間を潰していた。
そのおかげで、既に日付をまたぐ直前にまで時計の針は進んでいた。電車を降りて、夜が更けこんでも行き交う人の数が多い駅のホームを歩いて行く。
四月末になったとはいえ、気温の温度差が激しい日々が続いており、未だ夜空の下を歩くにはコートは欠かせなかった。特にここ最近は厳しい寒さが続いており、今夜もそれは変わらない。コートの袖から覗く手は、春だというのにすっかり冷え切っていた。
自分たちの出会いは、別に大したものではなかった。
クラスが同じで、普通に過ごしていたら普通に意気投合して互いに良いなと思える人だったのである。
意気投合といっても、割と思考は真逆だったりすることもある。それでも合うと思ったのだから、目には見えない何かがぴったりと合ったのだろう。
運命的な出会いでも、ドラマチックな出来事が起こったりしたわけでもない。
穏やかに、美しい湖面を眺めながら小舟に乗って漂うような、何の変哲もない平穏な恋愛だった。同性が相手だったことが、まあ少しは変わったことではあったのかもしれないが、特別気にするものでもなかった。周囲の人間も、付き合いの長い友人らはちらほらと自分たちの関係を知っている人はいるし、別に知っていても知っていなくてもどちらでも良いかというスタンスである。
学生時代は、とにかくあの人が目立つ人間であったため、一緒にいることの多かった自分まで自然と他人の目に晒されることにもなり、自分たちの関係性に勘付いた人は勘付いただろう。
大学時代は互いに目指すものも違っていたため少し離れた所に互いのキャンパスがあった。
一緒に暮らすこともできたし、自分としては同棲したかったと言えばしたかったのだが、あの人はあまり自分のテリトリーを他人に踏み入れられることは好まないと知っていたため言い出さなかった。
少しだけ人とは違う人、なのである。愛想の良い一匹オオカミなのだ。
ひとりの時間がなくなってしまうとあの人は恐らくだめだ。それを証明するかのように、大学時代、一度も一緒に暮らそうといった類の言葉が出てくることはなかった。
そういう人なのだということも理解したうえで付き合い始めたため、その時も、まあいいかで時間は過ぎていった。
鬱蒼とした気分を抱えたまま慣れた道を歩いて目的地を目指していたせいか、やけに今日は早く辿り着いてしまった気がした。
嫌でも気分が沈むのは左手に持った花束のせいだ。
良い花屋で良いものを選んで貰ったのだろう…そんな花を乱雑に扱うわけにもいかず、結局自分の荷物よりも丁重に扱っていた。可愛らしく天を向く花が自分の気持ちとは正反対で更に複雑な気分になる。
花に罪はない。
元来、物も動植物も乱暴に扱える性格ではないため、まるで自分が愛おしい恋人のために選んだプレゼントのように大切に手に持っていた。
夜が更けこんだ後も、程よく目を疲れさせない照明が照らすエントランスを通り抜ける。
華美過ぎず、それでいて見る者の目を楽しませる装飾をぼんやりと視界の中に収めながらエレベーターに乗り込んだ。
夜遅い時間だからこそ動作音が微かに響くものの、揺れることのない乗り心地の良さと綺麗に清掃が行き届いた狭い箱の中は、住民の格式の高さを感じさせる。
恋人が住むのはそういう場所だった。
最初はここに足を運ぶのすら引け目を感じていたが、今では特段気にすることもなくなった。
コートのポケットに入れていた質素なカードを取り出し、勝手知った様子で扉の施錠を解除する。
小さな電子音が聞こえドアノブに手をかければ、大した力を要することなく部屋の扉が開かれ、室内の淡い光が通路に漏れ出てきた。
「お邪魔します」
何年も通い続ける部屋であっても、どうしたことか「ただいま」という言葉を口にすることは今でもできない。それは、一緒に暮らしていないからか、顔を合わせることすら少ないからか、……それとも。
「ああ、やっと来たか」
随分と久し振りのように感じる声が耳を掠めてすぐに、コートを脱ぐ暇もなく抱きしめられる。変わることのない、洗練された男の香りに包まれて安堵を感じる自分を自覚した。
余程大きな音でないと部屋の中に外の音が聞こえるはずがないため、エントランスでカードキーを通した際にカメラにでも映ったのだろう。
「寒かっただろう。週明けから雪が降るみたいだ」
「会社に泊まろうかな。電車止まったら嫌だし」
「その方が賢明だろうな」
季節外れの雪に振り回されるのは決まって大人なのである。
口振りからも、仕事に打ち込む普段の姿勢を見ていても、この人も恐らく来週はずっと会社に閉じこもるつもりなのだろうと思った。
「ほら、おいで」
優しい声で言いながら肩を抱き、促してくる。
いつからか、最初の行き先は寝室になっていた。
ずっと前までは、リビングで恋人らしく甘い時間を過ごしていたはずなのだが。二人で特別ではない話をしたり、テレビを観たり、借りて来た映画を観たり、料理を作ったり、何をするでもなく抱きしめ合っていたり。
自分は、そうした特に意味を持たないような時間を一緒に過ごすのが好きだった。別にセックスをするのが嫌いなわけではなく……むしろ好きなのだが、二人だけで穏やかな時を共にすることがなくなった今を、少しだけ…本音を言えば心底、悲しく思った。
とりとめのない時間がなくなっていったのは、時間が限られているせいだけではないのだろう。
「体、冷えたから……。一回温まりたい」
肩を抱く手に自らの指先を添えて、その冷たさを伝える。時期外れの寒波だのとニュースで騒がれていたというのに、手袋は置いて来てしまったため、剥き出しの肌が酷く冷えて痛かった。
密着していた体をほんの少し離して、寝室に行くのを拒んでみせる。今日は、本当に、乗り気じゃないのだ。
「んっ、ん、……」
何を言うこともなく奪われるように唇を合わせられ、考えるよりも先に自分の口から甘い声があがった。
冷えた自分の唇がどんどん溶けていってしまうかのように、恋人の唇は熱くてしっとりとしていた。
「ふ…っ、ん、ぁ、」
それ以上の侵入は許すまいと、頑なに閉じていた唇を舌で舐められ唾液で濡らされていく感覚に、ふるりと肌が震えた。
「……温まるだろう」
「そ、…のじゃ、なくて」
「違うなら、何がお望みだ」
顎を掴まれて、身長差を埋めるように指先で持ち上げられる。
角度がぴったりと合わさって、自然な形で寄り添うように唇と唇が重なる。もう何度も繰り返されてきた口付け。あまりにもすんなりと合わさる唇が気持ち良かった。
「ふ、……っん」
さっさと開けろと言わんばかりに、唇を舌で舐められて上唇と下唇の境界がなぞられていく。
肌をぞくぞくと走っていく、甘い痺れを伴った感覚に自然と唇から力が抜けていってしまう。
頑なに閉じていた蕾が、男に施される口付けでいとも簡単に綻んでいった。
「んっ、ンく…っ、ふ、んぁ…」
あっという間に口内に侵入を果たした舌で歯列を舐められ、粘膜を嬲られる。
舌同士が触れ合った瞬間に、蕩けていく感覚に襲われて全身が熱を持っていくのを感じた。とろとろとした情欲の火が、じりじりと追い詰めていくかのように下腹に灯されていく。
「ん、んん…ッ、ぁ、は…んっ」
唾液を奪われ、飲まされ、舌の裏側を舐められて、つい自分の手が縋り付こうとしたところで、ようやく熱に浮かされていた意識が引き戻される。
また流されるところだった。
視界の端に入ってきたそれに、自分がなすべきことを思い出す。今日ばかりは熱に任せて溺れるわけにはいかないのだ。
「……これ」
男の胸に手をついてほんの少し力を入れ、身体を引き離す。左手に持っていたままだったものをその胸に押し当てる。
「何だ、それは」
「プレゼント」
案の定、怪訝そうな目で自らの胸に押し付けられた花束を見る。聞きたいのは、本当ならこちらだというのに。
ここにやって来るまではあんなにも大切に、慎重に持っていたはずなのに、今この一瞬で花は歪な形になってしまっていた。
「俺が大して花が好きじゃないことは知っていたと思うんだが」
そんなことは知っている。誰よりも。
恋人に花束なんて渡すはずがない、何せいつか枯れゆくものをこの男は好まない。何より自分の手で何かを育てるのは全く気が進まない人間なのだ。───ひとつを除いて。
だから自分は花なんて贈ったことなどないし、物よりも時間を大切にする人であることを理解している。
そもそも、自分が贈る物であれば、こんなつっけんどんに渡したりしないし、気分だってもっと高揚している。
「僕じゃなくて。──会社の受付の、人から。渡して欲しいって」
「頼まれたのか」
花の中に埋もれていた真っ白なメッセージカードを手に取り、一瞥してから再びその中へと埋める。本当に中身を確かめたのかと言いたくなるほど一瞬だった。
少しだけ頬を赤く染め、照れるように目元を緩めながらも、綺麗な笑顔で声をかけてきたあの女性が脳裏に思い浮かぶ。
恋人の美しい指先をぼんやりと眺めながらも、花束を渡された際に言われた言葉を思い出して口を開く。
「また機会があったら是非、だって」
胸の内が淀む。
仕事帰りに、受付嬢のひとりから預かっただけだ。そうして伝言を頼まれた。
彼女には何も罪はない。
自分が彼女をよく知らなかったように、人の話の中で出てくる綺麗な受付の人、という印象しかなかっただけなのと同じように、彼女もまた、知り合った素敵な男性の話の中に偶然出て来た同じ会社の人、という印象を自分に抱いていただけなのである。
だからこそ何の罪悪感もなく、引け目もなく、知り合いって聞いたから…いつでも良いから渡してほしいと、気軽に頼んできたのだ。
何が嫌で、わざわざ恋人の浮気相手のひとりの、まさに浮気そのものをほのめかす伝言を自分が伝えなければならないのか。
重苦しい何かを無理矢理に飲み込まされたかのように、胸の内が窮屈になっていく。喉元までせり上がってくる圧迫感に、つい自分の胸元を片手で握りしめた。
とりあえずは、頼まれたからには受け取ってもらわなければならない。強引に押し付ければ、気乗りしない顔で恋人はそれを受け取った。
「…今日、終電で帰るから」
終電が出るまであと三十分。
言外に今日はいつものようにしないと言うように、あらかじめ言葉にしておく。
キスに流されそうになったが、今日は熱を交わそうとは思えなかった。だからこそ、いつもなら仕事が終わってすぐ向かうところを、適当に時間を潰しながら夜遅くにここまでやって来たのだ。
そう。いつもなら月に数回だけ会える恋人のもとに、高ぶる気持ちに胸をいっぱいにさせながら足取り軽く向かうものだ。
こんなにも煮え切らない何かを抱え込まされたのは、自分以外の人の肩を、親しげに抱く彼の姿を初めて見た時以来なような気がする。
「ただ顔を見ただけで帰すと思っているのか」
腕を掴まれて、離れた僅かな距離を埋めるように引き寄せられる。思い通りにいかない恋人である自分に、苛立っているのが分かる。
「嫌だよ。…明日だって、朝早いのに」
寝室に向かおうとするのに逆らうように、足に力を入れ、掴まれた腕を振り払おうと身動いだ。
「そんなのは俺だって同じだ」
「僕はここから遠いんだけど」
「始発で帰れ。それが嫌なら車で送って行ってやる」
仕事で忙しいというのに、そんな余計なことをさせられるはずがない。
自分がそう思うことを知っていて、あえて車で送るなどと言ってきたのか判断がつかないところが性質が悪い。
言うことを聞かない自分に苛立ちを隠すこともないまま、掴んだ腕を強く引っ張り無理矢理に歩くよう強制される。
「今日は、嫌って言って…っ」
「今日を逃せばまたいつになるか分からないのに?」
そんなことは十分過ぎるほど理解している。だからと言って、さすがに、堂々と浮気をしていることをほのめかされたまま抱かれるなんて気分が良くない。
しかも、そのことに関して一切言い訳もしなければ謝罪もしない。
悪いことをしているという気持ちがないのだ、恐らくは。この人にとっては、ありふれた日常の中の一つであり、何らおかしいことではない。しかし、そう思わせる原因が自分にもあることを理解しているから責める気にはなれない。
ぼとり、と見た目以上に重い音を響かせながら花束が床に落とされた。
「手のかかるものは嫌いなんだ」
花のことを示しているのだろうが、体を重ねることを拒んでいる今この状況と一致しすぎているせいか、自分のことを言っているような気がして押し黙る。
「………」
特別意識することなくそれが落ちる様を見ていたはずなのだが、どうしてか胸が痛んだ。
あんなにも可憐に咲いていた花が、今では無残に数枚花びらを散らしながらくしゃりと形を歪めて床に落ちてしまっている。
あの人は、何も悪いことなんてしていないのに。
「終電で帰るなんて、それならお前は何をしに来たんだ」
寝室に連れ込まれて早々に、責めるように尋ねられる。
「あれを届けに来たんだけど」
「大して俺が喜びもしない物を届けに来たのか」
「頼まれたんだし、仕方ないでしょ。それに、枯れたら勿体ない」
どことなく機嫌が悪く、まるでこっちが悪いことをしたかのように厳しい表情で責め立ててくる。
その態度に、ほんの少しだけ不快感を感じた。
どうして自分が責められなければいけないのか分からない。
頼まれたのだから、仕方ないだろう。あの女性は何も悪くなどないのだから、断る理由なんて一つもなかった。
「お前は……、……」
性急に、上着を脱がされながら押さえつけられるようにベッドの上に押し倒される。
見慣れた天井と、自分を見下ろす恋人の顔。
自分の身体の上に乗り上げ、肩を掴んでくる恋人は…焦燥感に駆られているようだった。
そうした変化が、感情の起伏が、手に取るように分かるほどにはずっと一緒にいたし心を通わせてきていた。
「俺に受け取る義務はないな」
「……義務はなくても、理由はある」
言い返すと、途端に眉根を寄せて苦虫を噛み潰したような表情になる。
何か痛みに耐えるように表情を歪ませる恋人に、思わず手を伸ばしどうしたのだと問いそうになった。
反射的に手を伸ばしたのは、それほど自分にとってはこの男が大切なのだと証明しているようである。
「───もう、黙れ」
伸ばした手が取られる。そのまま顔を寄せて唇を重ね合わせてくる。
それ以上、あの花束と女についてお前の口から何か言葉が出てくることは許さないと言っているようだった。
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