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七海はしばらく黙ったまま俺を抱きしめていたが、やがてそっと身体を離した。
ぐしぐしと自分で目を拭ってから、俺の顔を両手で包み込む。
「…みーちゃんが死んじゃうかと思いました」
「大袈裟だ。こんな受験シーズン真っ只中でまだ死ねるか」
七海の目は赤くなっていて、クスリと表情が緩んでしまう。
俺のために泣いてくれたのか。
そんなに心配してくれたのか。
「みーちゃんが重い病気だったら俺もうどうしようって…教師じゃなくて医者になろうってところまでいきました」
「冷静になれ。お前が医者になるまでにどれほど掛かる」
「…冷静になんかなれませんよ」
そう言って七海はずるりと気が抜けたようにベッドの上に脱力した。
だがその手は俺の身体をしっかりと掴んだままだ。
ずっと張り詰めたまま心配していて、俺を見てようやく気が抜けたという感じだった。
赤くなっている目元にそっと手を伸ばす。
七海がいつもしてくれるように、人差し指で優しくくすぐる。
「一週間もすればよくなる。だから早くいつもみたいな笑顔を見せてくれ」
「…今は全然笑えません」
しっかりと俺を掴んだまま、七海はぐったりとそう呟いた。
病人の俺より元気のない姿に、思わずクスクスと笑ってしまう。
こんなに全力で心配されるなんて、なんてくすぐったいんだ。
七海は笑っている俺の様子を見て取ると、ひょいと顔を持ち上げる。
やはりまだ心配そうな顔つきのまま、じっと見上げられた。
「俺に出来ることありますか?みーちゃんが心配しないように勉強はちゃんとやります」
「何も気にするな。お前がしっかり勉強してくれているのが俺は一番安心する」
「それは分かってます。でも何か食べたいものとかもないですか?頑張って作ってきます」
「それだけはやめてくれ」
コイツの料理は壊滅的だ。
一体どんな物を作ってこられるか分からない。
だが七海は俺に何かしたいらしい。
特にないと言っているが、難しい顔付きのまま悩んでいる。
じっとしていられないんだろう。
余計なことを考えすぎて勉強に支障をきたすのは避けたいし、それならばいっそ何かお願いするか。
「…ああ、なら悪いが俺の私物を取りに行ってくれないか?」
「えっ?」
「お前なら俺の家に入れるだろう」
「行きます行きますっ」
あっという間にパアッと顔色が明るくなる。
垂れ下がっていた尻尾が大きく振られるような錯覚に、また笑顔が溢れてしまう。
面会時間も迫っているし、後日暇な時でいいからと付け足して必要なものを紙に書き記す。
七海にリストと一緒に鍵を手渡してやると、大事なおつかいを頼まれたとでも言うように真面目な顔で頷いていた。
ちょうど面会時間終了を告げる放送が響いたため、そろそろ帰れと促す。
七海はまだ俺の側にいたいようだったが、少しして立ち上がった。
だが動かない。
やはりまだいつものような笑顔は見せてくれず、じっと俺の顔を覗き込んでいる。
「七海。もう大丈夫だから…」
「…はい。行きますね。明日必要なものを持ってきます」
そう言って名残惜しげに俺の手を取る。
そのまま優しく指先に口付けられて、ドクリと心臓が大きく跳ねた。
柔らかい唇の感触に、指先から痺れるような甘い疼きが上がっていく。
「みーちゃん、俺はもしかしたら――」
不意に七海が何か言いかける。
が、その言葉を最後まで聞くことは出来なかった。
自分でなにか気付いたように口を閉ざしてから、そっと俺の手を離す。
「…いえ、また明日。ちゃんと勉強はするんで、絶対に絶対に心配しないでくださいね」
本当に絶対ですよ、と何度も繰り返されて、また笑ってしまう。
そこまで言うのなら心配はしないでおこう。
こんな時なのに七海の気遣いが堪らなく嬉しかった。
「それで紺野先生ね、聞いて下さいよ。校長ってばゴルフスコアを誤魔化したりして、絶対俺の方が勝ってたと思うんですけどね――」
なぜここにいる。
りんごの皮をくるくると剥きながら、教頭が俺に世間話をしてくる。
一夜明けて面会開始時間と共に入り込んできた教頭が、真っ昼間からどうでもいい長話を俺にしてくる。
早く学校に帰れ。
「そんなことより救急車を呼んだとのことで、学校側に大変な迷惑を掛けてしまいました」
「え?ああ、お気になさらず。生徒にも急患が誰とは言っていないし裏口からでしたので、皆分からなかったと思います。紺野先生を運んだ生徒だけは知ってしまいましたが、言わないようキツく注意しておきましたので」
「…お気遣い感謝します」
七海がべらべら喋るような奴でないことは分かっている。
この時期に教師が倒れたとなると生徒も教えを請うのに不安だろう。
一先ずあまり大事になっていないのなら良かった。
「それにしても胃潰瘍ですか。私も昔は色々と苦労しましたので、お気持ち分かりますよ。私の若い頃は先輩教師につらく当たられましてね…まあ紺野先生のように美人な方だったんですが、最初は嫌だったんですがそのうち癖になると言うか…あ、その話は置いといてですね――」
「…はぁ」
教頭の話を聞き流しながら、窓の外に視線を向ける。
揺れるカーテンの先、スッキリとした秋晴れが広がっていた。
いつの間にか夏が終わり、秋が来て、そろそろ寒くなろうとしている。
目を閉じればまだ4月に初めて七海と出会った時のことを思い出せるというのに、あっという間に季節は過ぎていく。
ずっと数学一辺倒だった俺の人生に突然アイツが現れて、半ば巻き込まれるように見事に気持ちを変えられてしまった。
今まで生きてきた中で間違いなく激動の一年で、俺の人生を大きく変えるターニングポイントとなった。
「…ですが寂しいですねえ」
教頭の言葉が静かに病室に響く。
「今年度であなたともお別れになってしまうと思うと――」
はらりと落ちていく銀杏の葉が、少し開いた窓からふわりと舞い込んだ。
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