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騒つく心
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あんなに暑かった夏もすっかり過ぎ去り、朝晩の冷え込みが厳しく感じられるようになった頃、黒谷は温かみを求めて半覚醒のままベッドのシーツを手探りした。
「ちっ、」
いつものように舌打ちする。やはり腕の中に閉じ込めていたはずの枕はすでになく、スマホを見れば時刻は午前七時を過ぎている。昼夜逆転から脱却し規則正しい生活リズムに戻したため、目覚ましに頼らずともこの時間帯に自然と目が覚めるようになり、質の良い睡眠のおかげか頑固なクマも目の下から消え失せた。
寝癖でボサボサになった伸びた癖のある髪をかき、のっそりと起き上がる。スウェット姿であくびを噛み殺しながらキッチンを目指す。この時間帯はそこにいるはずだ。案の定、近付くといい匂いが漂ってきた。意識的に足音を殺して進む。料理中なのを確認し、無防備な背後へ立つとその肩へ顎を乗せた。しっくりとはまり、居心地がいい。
「おはようございます。」
お見通しだったのか、驚きもせずに挨拶する横顔。
「おう、おはよ。」
心なしか眼鏡越しの視線が冷たい。この後、男の手が腰を抱き寄せるように前へ回ってくるのもわかっていたのか、パシリっと払われた。
「なんだよ、機嫌悪いな。」
「別に。先生、火傷しますよ。」
気付けば熱されたフライパンがコンロから離れ、パチパチと音を立てている熱々のウインナーを載せて、オムレツが置かれた二枚の皿の上へと移動する。
「もうすぐ出来るので、顔でも洗って来てください。」
挨拶がわりに頬へキスするつもりでいたが、白田はサラダを盛り付けるために顔を逸らした。昨日までは、海外暮らしの長かった黒谷に合わせて甘んじて受けていたはずの事だったが、今日は気分ではないらしい。そもそも、黒谷自身も日本の習慣に合わせて普段は封印している事で、家族か恋人でなければやらない。不機嫌の理由が気にはなったが、そこまで深くは考えずその場を離れた。
「はあ、」
バスルームへ消える後ろ姿を追うように、白田の口からため息が漏れる。昨日会った、水上の言葉が頭をよぎった。
「あ。」
「やあ。久し振りだね。」
土曜日の午後、食料の買い出し後に立ち寄った本屋で、まさかの出会いだった。にっこりとそつなく笑みを浮かべた私服姿の水上が、白田の手にしている本を見て意外そうな顔をした。
「それ、クロタニノアの新刊だね。その作家好きなの?」
「はい。」
小説の表紙に目を落として複雑な気分で頷く。確かに好きだが、今はただのファンではない。助手であり恋人であり、純粋に好きで読んでいた頃とは勝手が違う。
「俺も持ってるよ、その本。というか全作品。」
本人からの貰い物だけど、とは心の内で付け足す。水上が、他人へ黒谷の自慢話をしたことは一度もない。それは本人が望まないからだ。
「そうなんですね。僕も持ってます。」
黒谷からの贈り物なのかなと、白田はいまだに身バレしていないことにほっとしながら表情に出ないように気をつけた。別にわざわざ購入せずとも、クロタニノアの本は無造作に本棚へ置かれているし、新刊も発売前には届けられていて既読済みだ。きっと望めばサインだって貰えるが、自分の分は自身で購入したかった。
「もう読みましたか?」
「まあね。この作品、今までとはちょっと違うよね。男性同士の恋愛についてとか、本当に書くとは思ってなかったなあ。あ、ごめん。内容言わない方がいいよね。」
「あ、いいえ。そういう話だっていうことは知ってます。他にどう思いましたか?」
「うーん、なんか柔らかい感じっていうか、クロタニノアっぽくないというか。」
「そう、ですか、」
やはりか、と気持ちが騒つく。担当の編集者も、以前似たようなことを言っていた。その時は好意的な話し振りではあったが、賛否両論ありそうで、吉と出るか凶と出るか不安で仕方ない。
「なんか心境の変化があったのか。私生活で、そういうパートナーが出来てたりしてね。」
冗談ぽく言い、水上が笑う。水上としては自分の体験談などが作品へリアリティを与え、黒谷へ貢献出来たのではないかと踏んでいる。自宅でこの本を受け取った時も、同性に対し性的な欲求のない黒谷からは何も感じなかった。変化というなら、助手への評価が上がっているのを感じたくらいだ。
「あ、もう行かないと。」
「話し込んでしまってすみません。」
「じゃあね。またラーメンでも食べに行こう。今度は俺が奢るよ。」
右手を軽く振って去って行く。雑誌を手にしている左の薬指からは指輪が外されていたが、白田はそこへ注意を払っていなかった。もやもやと心配事が広がるのを止めるのに精一杯だった。
「ああ、どうしよう。」
不安が小さなつぶやきになる。本を持つ手が震えた。
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