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──なにをしていたんだったか。
真っ白な頭で歪む周囲を見た。帰り道、猛暑、買い物袋、蝉、公園、ハンバーグ、河川敷、車、赤色、悲鳴、おばさん。何かが抜けていて、そういえばと叫んでいた母が思い浮かぶ。
途端、不安が膨れ上がって爆発し、涙腺が崩壊した。切羽詰まって母を叫び、おばさんを押して駆け出す。後方で呼び止める声が聞こえても、足は止まるどころか加速して縺れる。あの下にいるのが母ではない確証を得たくて、とにかく必死だった。
転んでは起き上がりあともう少し、というところで車の手前を囲うおじさんの一人に制止された。邪魔だ、離して、どいて、と両腕を掴まれながら暴れる。
母のはずがない、ただ確認したいだけなのだ。だというのに、自分よりも背の高いおじさんは頑なとして聞き入れてくれなかった。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。人だかりは増え、あちこちから上がる悲鳴が絶えない。夕焼け色に染まる烏がこちらを静観していて、熱を孕んだ風が鉄臭い匂いを運ぶ。車体の下敷きになった腕の一部が、陽を反射して鈍く光った。
力強く掴むおじさんの片手に思い切り噛みつき、唸り声とともに離された。緩んだもう片方の手を振り切って、自由になった体で転がり走る。
見間違いだと、そんなはずないと、焦燥感を無理矢理に飲み込む。大人達を掻い潜り、滑り込んで白すぎる腕を掴み上げる。滴り落ちる赤い血には目もくれず、なおも鈍い輝きを放つブレスレットに食いついた。
お菓子のおまけについてきた、安っぽいブレスレットだ。
見覚えならあった。むしろ、あって当たり前である。それは確かに、自分が母へあげたブレスレットだった。
心臓が止まった気がした。急激に血の気が引いて、尋常じゃない冷や汗が噴き出る。空気を吸い込むが上手くいかず、喉が渇いたように張り付いた。息の漏れる口をただ開閉し、次第に呼吸が荒くなる。視界の端が徐々に明滅しては黒く塗りつぶされていき、無常にも動くことのない腕がふらふらとたゆたう。遠くへ行ったり近くへ来たり、いくつもの腕が薄れては消えて、現れて、瞳に映し出された。
「お、おか────おかあ、さん。おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん! いやだ……おかあさん、かえろ、もうかえろうよ! ここにいるのはいやだ、おかあさん!」
感覚のない両手で母のものであろう腕を懸命に引っ張り、苦しくて痛いだろう場所から連れ出そうともがく。体全体を使い忙しなく動くたび、足元では耳障りな水音が大きくなる。自身へとはねた血は外気に触れていたのにまだ温かく、母の体温を彷彿させて思考の混迷を極めた。
母の腕を引いていたはずの手は、いつの間にか伸びてきた大人の手により押さえられた。瞬時に引き離されると思い至り、激しく手を払いのける。横に立つ男を力の限り蹴り上げ、母の腕にしがみついた。そうして背の高い男を睨みむことで、精一杯の反抗をする。
正常な判断ができなかった。起こした行動が正常か異常かなんて、考える余地さえなかった。ただ、とにかく母から離れてはいけないと、強迫観念のようなものに突き動かされていた。剥き出しになった本能とも言えた。
現実は残酷だ。今この時は、特に際立つ言葉だった。在るものすべてを、無情にも躊躇いなく突き付けてくる。
どうしようもなく、逃げたくなった。
相反する感情を持ちながら、母の腕に縋り続けた。けれども最後は数人がかりで離されて、誰かの胸に顔を埋められる。身動きが取れないほど強く抱き締められ、耳元で「大丈夫、大丈夫」と延々に宥められた。何が大丈夫なのかと反抗心を燃やすのに、その意に反して体から力が抜けていく。
世界が閉じて、再び光を映した時にはすべてが終わっていた。
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