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束の間の平穏
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◇
「本日のご来店、まことにありがとうございました。またお越しくださいませ」
蛍の光が物悲しく流れる店内で、従業員一同が声を揃える。最後の客を見送って、慧は束の間、肩の力を抜いた。長い責め苦のような営業スマイルもここで一区切りだ。
「オンオフの切り替え早すぎだろお前。スッと笑顔消すなって。怖ぇんだよ」
苦笑交じりに背中を叩かれ、ムッと原田を睨み返す。
「なんだよ、機嫌悪ぃな。また大翔と喧嘩でもしたのか?」
「……違います」
それは本当に見当外れだ。というか、こちらの機嫌が悪い時になにかと大翔の名前を出してくるなと言いたい。
「んじゃアレか? 今日は大翔がいなかったから不機嫌なのか?」
なおも絡んでくる馬鹿熊を無視し、乱れた売り場の陳列を直していく。
ここ最近、客たちが商品を乱雑に扱うケースが増えていた。一度手に取った商品を別の棚に戻したり、落とした商品を拾わず去ったり。そのせいで販売できなくなった商品は店の負担として処理される。
「あーあ……ったくひでぇな」
床に落ちていた雑誌を拾い上げ、原田が嘆く。多くの客に立ち読みされたのだろうそれは無惨にも折れ曲がり、裏表紙は半分ほどしかない。
「やはり、立ち読みは全面禁止にするべきですね」
「うーん……ま、雑誌類はそうするべきかもな。けどよ、全部の商品にそんなことしてたらこっちの身がもたねぇだろ」
「確かに」
原田の苦言に同意し、溜め息を洩らす。
一日何千という書物が届く中で、一つ一つビニール梱包するか紐で綴じるかなどやっていられるはずもない。
特にひどいのは三階の端にある児童書コーナーだ。幼児が遊べるよう、毛足の長いオレンジ色の絨毯とクッションタイプのソファが設えてあるのだが、音の出る絵本や知恵遊びのオモチャなど、元の場所に戻されたためしがない。最悪、見本品ではない売り物が開梱されていることもあった。
親のしつけが行き届いていないと憤る気持ちはあれど、まさかこちらが不躾に叱りつけることなどできるはずもない。あくまで客は客、どんな厄介な相手であろうとこちらの方が立場が弱いのは事実だ。
フロア全体の陳列を直し、売り場の照明を半分ほど消灯する。腕時計を確かめれば午後十一時少し前。あと十分足らずで業務後のミーティングが始まるといった時刻だ。
「こっちの照明も落とすぞ」
「ええ、どうぞ。私はエスカレーターを止めてきます」
誰も使っていないエスカレーターの電源を、三階から順に落としていく。完全に停止したのを見届け、従業員用エレベーターで二階の事務所へと向かった。
「あ、志槻先輩。お疲れ様です」
「お疲れ様です。本日のクレーム対処、完璧でしたね」
入り口に一番近いデスクから伊藤が声を掛けてくる。彼はバイトだが、終業時刻までいる従業員は例外なくミーティングに出席するのが義務だ。
「ありがとうございます。本当に心臓が止まるかと思いましたよ」
気の弱い彼らしく、困った顔で笑いながら頷く。常連の厄介な老人にレジ先で絡まれたことを思い出したのか、ほんの僅かに顔色が悪くなった。
「お釣りが合わないとか、カバーの掛け方が違うとか、いつもいつも難癖つけられちゃって」
「あまり気にしなくても大丈夫ですよ。あの方は誰であっても一言なにかを仰りたいだけですから」
フォローを入れると、伊藤は「ですよね」としんみり頷いた。
「お疲れ。皆揃ってるか?」
事務所の扉が開くなり、きびきびと快活な動きでヒールの踵を鳴らしながら、店長の朝島(あさしま)美千佳(みちか)が入ってくる。長身痩躯の身体にジャストフィットした黒のスーツがよぎり、事務所内の空気が一気に引き締まった。
「ん? まだ何人か足りないな。レジ閉めの安見と、清掃中の望月と……ヒグマか」
最後の一人だけを吐き捨てるように言い、腕に抱えていたミーティングファイルをデスクに放り出す。
「ああ志槻、一昨日頼んだ件どうなった?」
「先方に連絡を入れましたところ、サイン会の開催に当たっていくつかの要望を受けました」
「結構。じゃ、後で報告よろしく」
「かしこまりました」
丁重に腰を折り、自分のデスクにつく。ささくれ立った内心は決して顔の出さないよう、細心の注意を払った。
「遅くなりましたー」
「失礼します。お疲れ様です」
遅れていた安見と望月も顔を出し、残るは原田一人のみとなる。
「これで揃ったか。それじゃ、さっさと終わらせよう」
だがもとより朝島は原田を待つ気はないらしく、くわえた煙草に火をつけながら手元のファイルをめくった。
今年三十二になるという朝島店長は、とにかく気性が荒いことで有名だ。何事も完全無欠にこなすべきというのが彼女の信条で、他人のミスは徹底的に叱る。バイトだろうが若年だろうが年上だろうが、部下に対して手加減することはまずなかった。
入って数時間足らずの新人にきつい叱責、というか思う存分の罵詈雑言をぶつけ、心を挫くこと数百人。伝説の鬼上司は密かに〝氷のマドンナ〟と恐れられ、畏敬のまなざしを悠然と受け流す女王陛下となった。
その半面、できる部下には優しいかというと、そんなことは断じてない。むしろ仕事ができる人間にほどより厳しく、一貫した冷酷さをもって接してくるのが常である。
だが、それが彼女なりの信頼の示し方だと理解していれば、嫌悪の対象になることはない。
「まず安見。本日の売り上げ報告」
「はい。本日の売り上げは百八十二万円。先週の金曜日と比べて四・三パーセント減です」
「四・三パーセントか……」
朝島は細かい数字をファイルに書き止めながら小さく舌打ちした。負けず嫌いの彼女は、例え小さな数字であっても目減りすることを厭う。
「具体的にはなにが減った?」
「ええと、減っているのは主に雑誌の売り上げと絵本などの子供向け商品です。どちらもざっと読むだけで済ませられる商品なので、あえて購入しようというお客様が減っているのではないでしょうか」
「ん。推察ご苦労。それに関しては後で議論する。次、在庫管理――はいないのか」
使えない奴だと、この場にいない原田に舌打ちし、朝島は次の議題へと移った。
クレーム報告、本部から通達があった年末向けの防犯対策事項、新商品・目玉商品の確認――。議論は刻々と移り変わり、息をつく間もない。
「お疲れー……ってなんだよおい。俺抜きで始めてんのか」
殺伐とした空気を打ち破って登場した原田に皆が顔を向け、ほっと肩の力を抜いた。唯一顔を上げなかったのは朝島だけだ。
「誰が貴様を呼んだ?」
「呼ばれてないけど来てやったんだろ」
朝島の暴言をさらりとかわし、原田が事務所に入ってくる。
「ま、とりあえず在庫の報告すっか。またちょっと足りなかったぞ。特にマンガがひでぇ。完全にパクられてるな」
「なにが、いつから、どのくらい、どうして足りないのか、解答欄を全て埋めて出直せ」
「はいはいはい。仰せのままに」
矢継ぎ早なダメ出しにも屈せず、原田は手近なパイプ椅子を引き寄せて鷹揚に腰を落ち着けた。この図太さを見るたび、なるほど血縁なだけあって大翔に似ているなと思うものだ。
暖簾に腕押し、ぬかに釘といったやり取りに青筋を浮かべ、朝倉はわざとらしく咳払いをする。血まで鋭い氷でできていそうな彼女でも、原田の豪放磊落さを前にしては歯がたたないらしかった。
「では最後に、一昨日のミーティングで軽く触れたサイン会の件だ。志槻、」
「はい」
慧は立ち上がり、スーツの胸ポケットから小型の手帳を取り出す。
この件に関しては人並み以上に気合を入れて臨みたかった。自分にとってはこれ以上なく楽しみなイベントなのだ。
ただ、それを誰にも悟られるわけにいないというのが、ここ最近の苛立ちに直結している。
「前々回のミーティングでも報告がありしたように、近々、当店で作家さんのサイン会が催されます。先方の希望としては来月半ばごろ、曜日は週末が望ましいとのことです」
簡潔に要点を述べつつ、朝島の真後ろにあるホワイトボードに書き込んでいく。
「よりにもよって週末を希望すんのかよ。この店がどんだけ忙しいか分かってねぇんじゃねぇのか?」
渋面を浮かべる原田の言葉は確かに一理ある。だが。
「先方としても、より多くのファンにお越しただきたいのでしょう。サイン会を催されるのは今回が初めてのことですから」
「まぁ気持ちは分かるけどよ。つってもその作家、名前なんつったっけ」
「鬼塚久先生です」
ごく自然に敬称をつけてしまった。そう、あの鬼塚久先生が来るのだ。
自らをゲイと告発しながらも、経歴や年齢はなに一つ明かしていない。自らの性癖を逆手にとって、よりリアルで精巧な同性愛者たちの恋愛模様を描く先鋭の作家だ。
彼の作風は他のどの小説とも違う。斬新でありながらも繊細な文体の中に緻密な複線を張り巡らせ、息をつく間もない圧倒的な世界観を構築している。
かねてより多大な尊敬を持って密かに応援していた作家のサイン会が、よもや自分の勤務地で行われるなんてなんたる僥倖だろうか。
「そうそう、鬼塚だ。その作家ってよ、ほとんど無名なんだろ? わざわざ週末の忙しい時間に開催したって、どのくらいのファンが来るのかって話じゃねぇか」
原田の言い草に、ほんの少しばかり気分が悪くなった。
確かに彼の作品を知る者は少ない。あれは言うなれば、同性愛者たちがその物語に救いを見出すための小説だ。つまりよほどの物好きか、あるいは自分と同じくゲイである男性にしか受けない。
当然、今この事務所内にいる十二人の従業員たちの中で彼の作品を読了したのは自分だけだし、彼の名前を知っていたのも自分だけだった。
「確かに鬼塚先生は作家歴も浅いですし、特殊な作家さんですからファンも限定されるでしょう。ですが少なくとも、当店で発売された彼の作品は全て完売しています」
「つっても、新刊ごとにたった五冊だろ」
にべもない指摘に眉が引きつる。反論することはできなかった。しかもそのうちの一冊は自分が購入しているのだ。彼の作品を手に取っているのは実質たった四者ということになる。
「まあ、開催日時においては先方と折り合いをつけます。週末といっても日曜の夜八時以降などであれば比較的に空いている時間ですから」
とりあえずの妥協案を提示すると、原田もそれ以上の不平は口にしなかった。目配せで頷く朝島に目礼し、次の項目に移る。
「先方からの要望はもう二点。一つは、サイン会の開催に当たり、鬼塚先生本人と来客したファンの皆様との間に目隠しとなるような仕切りを設けて欲しいというものです」
「おいちょっと待てって」
またも横槍を入れてきたのは原田だ。呆れたように半笑いを浮かべ、頭の後ろで腕を組んで椅子の背にもたれる。
「目隠しって……なんだよそれ。わざわざサイン会を開くってのに、ファンと顔も合わせねぇってのか?」
「そういう希望です」
「馬鹿馬鹿しい」
原田は端的に吐き捨て、鼻先で笑った。
「んな下らねぇサイン会があってたまっかよ。ファンだってそんなよぉ、作家本人に会えもしねぇイベントに好き好んで参加するわけねぇだろ」
それならサイン本を売り出すだけで充分だと言う原田の言葉には一理ある。だが、事情が事情だ。
鬼塚久は自らが同性愛者であることを公表しているが、その素性は完璧に伏せられている。プライバシーに関わることだから無理もないだろう。当然、ネットで彼の名前を検索しても写真一つ出てこない。
今回のサイン会においても、彼は徹底した秘匿主義を貫く心積もりらしかった。
一ファンとしては少しばかり残念だが、そう悪いことばかりでもない。これを聞けば、原田の不満も多少は目減りするはずだ。
「それで、もう一つの要望ってなんなんですか?」
絶妙なタイミングで安見が問い掛けてくる。手帳に目を落としながら口を開いた。
「今回のサイン会で、最新の書下ろし小説を先行販売して欲しいとのことです。これは当店にとって、決してマイナスの申し出ではありません」
断言すると、消極的だった従業員たちの空気が引き締まる。原田も椅子から背中を離し、真面目な顔でこちらを見た。
「先行販売ってことはあれか? その本欲しさに他所から客が集まってくる可能性を見込んでんのか」
「ええ、恐らくは。しかもその書き下ろし小説は前回作の続編ですから、売り上げの期待値は高いでしょう」
今まで読んだ鬼塚久の作品中、最も自分の好みだった『新宿二丁目の夜明け』の続編だ。知らず口調に熱がこもる。
「他店に比べて二週間も早く続編を手に入れられるとなれば、前作のファンは遠方からでも必ず集まってくると思います。当然、続編の販売はサイン会中の限定販売で、催し後は一般販売開始まで売り場に出すことはできませんが、その分ファンにとってはこのサイン会での入手が千載一遇のチャンスとなるわけです」
熱っぽく理論立てていく自分に唖然とした視線が集中する。
「このサイン会の開催は当店の売り上げ向上に一役買ってくれるでしょうし、先方との関係が良好に行けば、今後も当店でのサイン会を前向きに検討してくださるかもしれません。色々と風変わりなサイン会になるでしょうが、それも話題性という点で見ればマイナスにはならない――」
「志槻、落ち着け」
朝島の冷涼な一声が聞こえ、ハッと我に返った。気づけばいつの間にか、呆気に取られたような視線が方々から向けられている。
咳払い一つで誤魔化しきるには少々熱くなりすぎたが、努めて平静を取り繕う。
鬼塚久のファンであることを悟られるのは、自らの性癖を暴露するのと同義だ。こればかりはどうあっても隠し通さなければならない。
「とにかく、このサイン会の申し出は当店にとって利益をもたらすものです。なるべく先方の都合を織り込み、誠心誠意対応するのが望ましいかと」
納得している顔と、未だ呆気にとられたままの顔が半々。
「まあ、開催は既に決定している。後は日時の決定と微細な調整を順次行っていく。なにか質問は」
朝島の問い掛けに挙手する者はいなかった。
「では、このサイン会の責任者は志槻とするが、異論のある者は?」
これにも、誰一人挙手をしない。当然自分も異論はなかった。むしろ感謝したくらいだ。
いくら秘匿主義を貫く鬼塚先生と言えど、サイン会の責任者にまで顔を伏せるとは思えない。上手くすれば面会の上、握手もサインもねだり放題だろう。
かの作家に一目会えるなら、責務が倍増することなどまったく問題ではない。
「異論はないようだな。では、これで解散とする。本日もご苦労だった」
朝島の一言で皆が立ち上がる。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ。志槻、鍵閉めは任せた」
「はい。お疲れ様でした」
他の従業員に続いて朝島も事務所を出て行き、残ったのは慧と原田だけだ。
「なんだよお前、いつになく熱くなってたじゃねぇか」
「別にそんなことはありません」
揶揄するような視線に鼻を鳴らす。まったくもってらしくもない失態だった。
「電気消しますよ、早く出てください」
「へーへー。ったく、せっかちな野郎だな。一服くらいさせろってんだ」
「外でどうぞ」
「このクソ寒ぃ時期に外でなんか吸ってられっかよ」
不平不満を垂れ流す原田を事務所から追い出し、電気を消して施錠する。
誰もいない店内はひっそりと静まり返っていた。稼動していないエスカレーターを徒歩で下りながら、無意識に携帯を確かめた。
着信もメールもない。
「なんだ? 彼女からの連絡待ちか?」
「違います」
ニヤニヤと締りのない顔を向けてくる原田をかわし、密かに溜め息をついた。
「そういや最近、お前らなんかあったのか?」
入り口の自動ドアの電源を落とし施錠をしたところで原田が問い掛けてきた。要領を得ない質問に眉をひそめ、振り返る。
「なんの話ですか?」
「とぼけんなって。お前と大翔だよ。最近ずいぶん仲良いじゃねぇか」
出し抜けな言葉にふと息を詰めた。
原田が自分たちの関係を知っているはずがない。職場では極力普段どおりに接してくるよう、大翔にはきつく言い含めてあるし、自分もそう徹底している。
だから誰も、まさか自分たちが〝恋人〟などという頭の痛くなるような関係になったなんて気づくはずがない。
「別にそこまで仲良くしているつもりはありませんけど」
無表情を繕って交差点を渡る。駅に向かうはずの原田がしつこくついてきた。この鬱陶しさはなんなのだろう。病気か?
「んなこと言ってよ、お前だって大翔といるときは結構楽しそうじゃねぇか」
否定はできず、反論を飲み込んでぐっと押し黙った。
確かに大翔といるのは楽しい――と、ずいぶん前からそう感じていた。特に意味のある会話をしなくても、ただ傍にいるだけでなんとなく心が安らぐのだ。その理由もちゃんと分かっている。
大翔が自分の性癖を知っているからだ。繕うことなく、隠し立てするものもない。芸能人ならどのタイプの男が好きなのかとか、行きつけのバー『リアン』の話だとか、朱ママが飛ばす下らないジョークだとか、ただの友人には決して話せないようなことを、大翔相手には全て話せてしまう。
ただ身体を重ねるだけが目的の男とでは、こんな安穏とした時間は一秒たりとも過ごせない。
「……まあ、気が合うのは確かですね」
「おいおいマジかよ。お前がんなこと言うの始めて聞いたぞ」
しぶしぶ認めてやったというのに、原田は大げさに仰け反って目を剝く。
「そうかぁ……お前にもやっと俺以外のダチができたってわけかぁ……いって!」
感慨深そうに微笑む不気味な熊を蹴り飛ばす。なんて無礼な奴だ。
「私とあなたがいつ、友達になんてなったんですか」
「出会ったときからだろ?」
「ウザイ」
さすがこの叔父にして大翔ありだ。鬱陶しさで言えばむしろ原田の方が上かもしれない。
豪快な笑い声につられて微笑んだとき、不意に携帯が振動する。画面を確かめ、ふっと口元を綻ばせた。大翔からだ。
「じゃあな志槻。彼女と喧嘩すんなよ」
だから彼女ではないというのに。原田は無骨な体躯に似合わぬ気障な笑顔を浮かべて去って行く。思いきり溜め息をつき、通話ボタンを押した。
『……慧さん、今どこ?』
聞き慣れた声が耳朶を打ち、ふと肩の力が抜ける。最近気づいたことだが、大翔の声はやけに耳心地いいのだ。
「これから家に帰るところです」
『そっか……今日も仕事だったんだ』
だが今日に限って、大翔の声にはどこか覇気がなかった。モデルの仕事で疲れているのかもしれない。
『オレもさ、ちょうど仕事に一区切りついたっていうか……とにかく終わったからさ、今からどっか飲みに行かない?』
「今からですか? もうすぐ終電もなくなりますけど……」
腕時計を確かめれば、既に十二時近くだ。
『うん、でも……慧さんに会いたい』
小さな呟きが聞こえた。じんわりと温かな感情が広がり、俄かに動揺する。
自分に〝会いたい〟なんて言い出す大翔もおかしいが、そんな他愛ない一言で喜んでいる自分はもっとおかしい。
自らの感情を気のせいだと切り捨て、浮かれる心を叱りつけた。大翔相手に気を許しすぎるのは危険だと分かっている。
いずれは必ず他人同士に戻る関係だ。どれほど居心地がいい相手だろうと、気が合おうと、別れは必ず訪れる。
その時になって後悔しないためにも、肝に銘じておかなければ。
『あ、でも慧さんが疲れてるなら、無理にじゃなくてもいいけど』
慌てたように言い繕い、ふと大翔が押し黙る。電話越しにこちらの顔色を窺っているような気配を感じ、思わず笑ってしまった。
「別に構いませんよ」
思えばここ二週間ほど、仕事先以外ではまったく会っていなかったのだ。大翔は大翔でモデル業に忙しいらしく、こうしてたまに電話で話すことくらいしかしていない。
久しぶりに二人きりでどこかに飲み行くのは悪い提案ではないだろう。
『ほんと? じゃあ池袋駅で待ち合わせにしよ』
「分かりました」
『うん、じゃあ後でね』
携帯をしまい、来た道を引き返す。電話口で聞いた大翔の声が始終弱々しかったことを怪訝に思いながら、池袋駅に向かった。
「あ、慧さん。こっち」
駅前のロータリーからいきなり声を掛けられ、目を見張る。
一瞬、誰かと思った。
「早かったね」
朗らかな笑みを浮かべて近寄ってくる大翔は、見違えるほど洒脱ないでたちをしていた。赤と黒を基調としたアーガイルチェックのテーパードパンツはすらりとした脚の長さをことさら強調し、ファーのついた真っ白なロングコートと見事な調和を果たしている。
緩やかに波打つ茶髪と左耳のピアスは見慣れたものだが、一見別人のような大翔にしばし言葉を失った。
さすがモデルだ。自分に似合うファッションを熟知しているのだろう。他人を〝魅せる〟ためのコーディネートには一部の隙もない。
初めて、本気ですごいと思った。温かな印象をもたらす白のコートと、温和ながらも情熱的な性格を表わすような赤の組み合わせは、大翔という男の人格そのものを体現している。
こんな完璧な容姿をした男がいるなんて。
「どうしたの? オレ、なんか変?」
薄く色のついた伊達眼鏡の奥から穏やかな視線を向けられ、我に返った。
「い、いえ……。よく似合ってますよ」
無意識に見惚れていたことを悟られまいと視線を逸らしながら、小さくそう告げた。大翔はくすぐったそうに笑って歩き出す。
てっきり近場で飲むつもりなのかと思っていたが、大翔は駅の中へと向かっていた。
「どこに行くんですか?」
「んっとね、こないだ聞いた『リアン』って店に行ってみたいんだ。慧さんの行きつけなんでしょ?」
「え」
予想外の申し出にまじまじ大翔を見つめた。
「でも、あの店は……」
新宿二丁目の、いわゆるゲイバーなのだが。ストレートの大翔がまさかそんな店に行きたがるとは思わなかった。
渋る自分の手を取って、大翔は躊躇いもなく新宿線に乗り込む。道中、やけに口数が少ないことが気になった。伊達眼鏡をコートにしまい込み、疲れたような横顔を見せる大翔をそっと気にしながら、久しぶりに新宿二丁目へと足を踏み入れる。
「あ、ここって……」
いつぞやタチの悪い男に引っかかったあの一件を思い出し、微かに頬が引きつった。思えば大翔はここから自分とあの男が出てくる場面を盗み見ていたのではなかったか。
そしてこっそり後をつけ、自分の窮地を救ったわけだ。その件については感謝しているが、あまり思い出して欲しくはない。
「さっさと入りますよ」
「うん、寒いもんね」
ほわりと白い息を吐き出し、大翔が頷く。扉を押し開け、懐かしいような匂いにほっと息をついた。
「いらっしゃーい。ってまたあんたはもー」
聞き慣れた低い声に迎え入れられ、慧は思わず苦笑した。十二月も終盤のこの時期に、朱ママはいつもどおり肌寒そうなノースリーブドレスを身に纏っている。
「お久しぶりです、朱さん」
「お久しぶりじゃないわよまったく。あんたはいっつも、忘れかけた頃にならないと会いに来てくれなんだから。いい加減、アタシも他の男に鞍替えしようと思ってたとこよ?」
ぷりぷり怒りながらも手早くカウンターの席を片付け、ふと手を止めた。再びぎょっとしたようにこちら見る。
「え、ちょっと慧ちゃん、その坊や誰よっ?」
今さら、やっと大翔の存在に気づいたらしい。詰め寄らんばかりの勢いで目を見開いた朱ママに大翔が朗らかな笑みを浮かべる。
「初めましてー。オレは慧さんの」
「友人です」
余計な自己紹介をしようと前に進み出た大翔を遮り、端的に紹介する。
口が裂けても〝恋人〟だなんて小っ恥ずかしい肩書きを名乗らないで欲しかった。
今まで誰一人として特定の相手を作らず、さんざん男を漁ってきたのだ。来る者は厳選し去る者は決して追わない主義を一貫してきた自分にそんな相手ができたと知られたら、どれだけ驚かれ、からかわれるか分かったものではない。
「秋村大翔です。慧さんとは職場が一緒で」
暗黙の牽制を悟ったのか大翔は軽く頷き、話を合わせてくれた。
いつになく丁寧な口調を耳にして驚いているのは自分だけだ。
「あらまぁ。こんな可愛い友達がいたならなんでもっと早く教えてくれなかったのよ」
非難するような目で睨んでくる店主に苦笑を返し、カウンター席に座る。
物珍しそうに店内を見回しながら、大翔も自分の隣に腰を下ろした。
「こういうとこ、なんか新鮮」
「普段あまり飲まないんですか?」
「うん、まあね。でも今日は飲みたい気分」
コートを折りたたんで膝の上に置いた大翔は、小さく微笑んでカルーアミルクを注文する。
「まっ、可愛いセレクトだとこと。慧ちゃんはいつもの?」
「ええ、お願いします」
一つ頷くと、朱ママが去って行く。
「ほんと、馴染みなんだね」
カウンターに頬杖をついた大翔が面白そうな目でこちらの顔を覗き込んできた。どことなく疲れた様子で溜め息をつき、大翔はぼんやりと店内を見回す。
当然だが、この店にいるのは自分と同じ性癖を持つ男ばかりだ。先ほどから露骨な視線をいくつも感じる。自分に誘いかける目と、大翔に誘いかける目。どちらかと言うと後者の方が不快度は高い。
相手の性癖がストレートだとも見抜けない輩が、こんな場所に来るなと怒鳴りつけたくなった。無論、そんな大人気ない行動には出られないので、せめてもの牽制として一人ひとり、冷笑を返すに留める。
慌てたように視線を逸らしていく有象無象たちに満足し、密かにほくそ笑んだ頃、朱ママがグラスをカウンターに置いた。
「おつまみはサービスだからね。仲良くやんなさい」
こなれたウインクに礼を述べ、ゆっくりと琥珀色の液体を口に含む。慧が好きなテネシーは独特の深みと香ばしさがあり、舌触りもまろやかだ。カッと喉が熱くなり、急速に身体が火照っていく感覚も嫌いではない。
「慧さん、お酒飲むとき無駄に色っぽいよね」
「無駄とはなんですか」
甘いようなため息をつく大翔にムッとし、つまみに手を伸ばす。ナッツとチーズの盛り合わせは初めて見る。
多種類のナッツを前に、どれを食べようか迷っていると、大翔が横からサッと手を伸ばしてきた。
「ん、これ美味しい」
硬そうな音を立てながらナッツを頬張り、酒が入っているにも関わらずまるでジュースのようにグラスを空けていく。
「あまり急いで飲むと回りますよ」
「いい。酔いたいから」
大翔はこちらの忠告も聞かず二杯目を注文し、自棄気味にグラスを煽った。
酔いたいと言った割りに、飲めば飲むほど大翔の顔から血の気が引いていく。つられて硬くなっていく表情に眉をひそめた。
なにか、あったのだろうか。そう言えば今日、一度も大翔らしい笑顔を見ていない。
笑っていてもどこか弱々しく、普段の快活さがまるでないのだ。
「もう一杯ちょーだい。あ、慧さんのと同じやつ」
大翔が四杯目にテネシーを頼もうとした時、ようやくなにかがおかしいと気づいて止めに入った。
「もうそれくらいにしておきなさい。だいぶ飲んだでしょう」
「え、でもまだ全然酔ってないよ?」
確かに言葉尻はしっかりしている。目が据わっているというようなこともない。けれど。
どう見たって今の大翔は尋常ではなかった。顔色は悪いし、既にほとんど無表情だ。
「もう今日はここまでにしましょう」
見たこともないほど暗い顔に内心動揺しながら、大翔の腕を引いて立ち上がらせる。
「えー。もう一杯だけ。テネシーって美味しい?」
「美味しいですが、また今度にしてください。いつでも来れるんですから」
駄々をこねる大翔を引きずるようにして出口へと向かった。
「あら、もう帰っちゃうの? つれないわねぇ」
「すみません。また近々来ますから」
「そう言っていっつも忘れるまで来ないじゃないの」
残念そうな朱ママに苦笑し、店を出る。
今はとにかく、早く大翔を休ませたかった。本当は自分よりもずっと疲れているように見えるのだ。
元気がない大翔なんて、大翔じゃない。
今こうして手を繋いでいても、大翔はなにも言わないのだ。なにがあったか知らないが、放っておいてはマズイことくらい分かる。
どうして、そんな暗い顔をしているのか。なにがあったのか。それは自分のせいなのか。そんな問い掛けることすら躊躇われるほど、大翔は気落ちして見えた。
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