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無言の車内。静かな家。
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殴り打つ雨に辟易しながらアクセルを踏み、横目で助手席を盗み見た。青年は一言も口を利かず、その横顔に底知れない疲労を滲ませながら窓ガラスに頭を預けてぐったりしている。
「なあお前、」
問いたいことは山ほどあった。名前は? どこから来た? なにがあった? どうして。
死のうと思った?
氾濫する問いを無理矢理飲み下し、別のことを訊ねる。
「靴、どうしたんだ?」
至極どうでもいいような質問に、青年が緩く視線を落とし、自らの足元を見る。泥に汚れた素足は、一体どれだけの距離を移動したのか、所々擦り切れ、痛々しく血が滲んでいた。
青年が着ている衣服も妙だ。寝巻きのようにゆったりした水色の上下。胸元は伸びきって裾もたるんでいる。
(まるで入院着だな)
病床で身につけるような無機質な衣服に眉をひそめてみても、青年は無反応だ。
会話を諦め、運転に集中した。自宅へと続く上り坂に差し掛かったところでアクセルを強く踏み込む。
親が遺した唯一の遺産である一軒家は、密集した住宅地を避け、閑静どころか閑寂な空き地にポツリと一つだけ佇んでいる。家の周りの荒野は全て所有地なので、適当に車を停め、心ここにあらずといった様子の青年を引きずり降ろして家に入った。
「足、そのままでいいから上がれ」
玄関先で躊躇う素振りを見せた青年に告げ、下駄箱に鍵束を放り出す。シンと静まり返ったこの家の中に実はもう一人、しかも子供がいるなんて誰も気づかないだろう。
「とりあえずシャワーでも浴びて来い。そのままじゃ風邪引くぞ」
廊下に上がったはいいが、一向に動こうとしない青年の腕を引っ掴んで浴室へと引きずった。少し力を込めれば折れてしまいそうなほどの細さにゾッとしながら、強引に背中を押して風呂場に閉じ込める。
「着替え、適当に用意してやっから。上がったら声掛けろよ」
そう言い残し、二階へと上がった。一番奥の部屋に向かい、溜め息をつく。物音一つしないが、中には間違いなく真志がいるはずだ。
「おい、起きてっか? 弁当買って来たから食っとけよ」
乱暴にノックして声を掛けても、返答はない。
(ったく、どいつもこいつも人を無視しやがって)
内心毒づきながら一階へ下りた。寝室として使っている部屋のクローゼットから適当な衣服を引っ張り出し、ついでに未開封の下着も用意して浴室へ舞い戻った。
脱衣所を覗くと、青年の姿はない。すりガラスの向こうから微かな水音が聞こえた。どうやらちゃんと身体を温める気になったらしい。
脱ぎ捨てられた衣服を洗濯機に放り込み、代わりの服を置く。
どうして自分が、名前もしらない青年のためにこんなことをしているのか、我ながら正気の沙汰とは思えなかった。
自らの行動に首を捻りながらリビングに踏み入ると、ただでさえ滅入っていた気分がさらに陰鬱なものになる。
そこら中に乱雑したゴミや新聞の山。洗濯物も使ったままカビの生えた食器も見なかったことにして、ソファにどかっと腰を下ろした。
点きの悪いライターに舌打ちしながら、さして面白くもないテレビに目を向ける。
コメンテーターの乾いた作り笑いが無性に神経を逆なでし、五分も見ずにテレビを消した。途端、息の詰まるような静寂が襲い掛かってくる。
徹底的に一人だった。この家には今、自分のほかに二人も人間がいるはずなのに、誰もいないんじゃないかと思うほどの孤独感を覚え、知らず脱力した。
ずっと長いこと、一人で生きてきた。誰かの存在を必要としたことなど一度もない。
だが、誰かに必要とはされていたのだ。少なくとも、彼女には自分が必要だった。それなのに、なにもしてやらなかった。〝してやれなかった〟のではなく、〝してやらなかった〟のだ。しようと思えばいくらでも手助けはできたはずなのに。
その結果、彼女は死んだ。たった一人の息子を残して。
(俺はあいつを見殺しにしたんだ)
その咎を一生背負ってでも、生きなければならない。それは真志のためであって、自分のためでもある。
ソファの背に深くもたれて目を閉じていたら、いつの間にかうとうとしてしまったらしい。ハッと目を覚ましたときには既に室内は真っ暗で、慌てて立ち上がる。
浴室を覗くと、未だ微かな水音が続いていた。あれから一時間も経っていないだろうが、それにしても長すぎだ。
「おい、大丈夫か?」
ガラス戸をノックしてみるが、応えはなかった。不穏な気配を感じ取り、一気に血の気が引く。
「開けるぞ……?」
怖々声を掛け、そっと扉を押し開いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、息を呑むほど痩せた背中だった。青年は頭からシャワーを浴び、青白い背中を丸めながらしきりに身体を震わせている。
「お前なにやって、って、おいっ! これ水じゃねぇかっ」
血色の悪い身体にそっと触れかけ、振り注ぐシャワーの温度に悲鳴を上げた。ほとんど真水といっていい温度だ。
こんなものをずっと浴びていたのか。
「馬鹿じゃねぇのかお前っ。使い方分かんねぇなら訊けよ!」
急いで湯温に切り替え、色の抜けた身体に掛けてやる。
生気のない横顔を晒す青年をどやしつけながら立ち上がらせ、バスタオルで身体を包(くる)みこんだ。同じ男同士だから、目を背けるなんて無粋なことはまずしない。
「ほら、着替え。俺のが着れねぇってことはねぇだろ」
これだけ痩せていれば、むしろ大きすぎるくらいだろう。棒切れのように細い手足に顔をしかめつつ、下着から順に手渡してやる。
くっきりと肋骨が浮き出たような脇腹を目にし、自然と眉根が寄った。一体、どこでどんな生活をしていたらここまで痩せこけるのだろうか。
一通り着衣を済ませたことを確かめた後、頭からバスタオルを被せ、色素の薄い癖毛を強引に拭った。あいにく、ドライヤーなどという気の利いた電化製品は持ち合わせていないのだ。
「後は自分でやれ」
ある程度乾かしたところで軽く頭を小突き、青年がのろのろと髪を拭い出したのを見届けてから背を向けた。
「なんか飲むか? つっても大したもんねぇけどな」
浴室から数歩出たところで振り返り、目を見張る。これまでずっとぼうっとしていた青年が、今ははっきりと自分を見ていた。
「ど、どうした」
初めてまともに視線がぶつかったが、それに驚く暇はなかった。
「どうして……?」
薄く開いた唇から蚊の鳴くような声が聞こえて息を飲む。
青年は瞬きもせず、じっと自分を見つめていた。その瞳から、とめどなく涙が溢れ出していた。
「おい……?」
思わず、というか、ほとんど条件反射だったのかもしれない。気づけば無意識に腕を伸ばし、頬を濡らすその涙を手のひらで拭っていた。
「っ……」
青年は小さく喉を引きつらせ、そっと目を閉じる。長い睫が透き通るような白皙にくっきりとした影を落とし、ひどく脆いガラス細工のような危うさをまざまざと浮かび上がらせた。
儚く脆弱なその姿に、わけもなく焦燥が募る。本能が狂ったように警告していた。
〝守らなければならない〟と。
発作的に細い腰を引き寄せて腕の中に抱きこんだ。青年はまったく抵抗しない。
「どうした。どっか痛ぇのか?」
頭ひとつ分は小さなその身体を緩く抱き締めて問うと、青年は微かに首を振った。
やっと、こちらの声に反応したのだ。
だがそのことに安堵する間もなく、青年の身体から力が抜けていく。
「っ、おい!」
足元から崩れ落ちた青年をかろうじて抱きとめ、肩を揺さぶった。完全に気を失っているらしく、薄い目蓋はピクリとも動かない。
動揺しつつも痩せた身体を抱え上げ、一番手近な寝室のドアを蹴り開けてベッドへと横たえた。
ぐったりと気の抜けた横顔はどこかあどけなく見えるが、眉間の辺りにきついしわがよっていてひどく苦しげだ。
タオルケットを肩まで引き上げてやり、足音を殺して寝室を出る。浴室へ戻り、先ほど洗濯機に突っ込んだ彼の衣服を取り出して広げてみた。やっぱり、どこからどう見ても入院着だ。
上着の内側、背中の部分に『八代(やしろ)クリニック』と頑丈そうな刺繍が施してあった。
「八代クリニック、か……」
それだけではなんの病院なのか分からないような気がしたが、おおよその察しはつく。
あの青年の気鬱さと行動を見れば、なにがしかの精神疾患があるのは明白だ。
だが一つ、疑問がある。
(どうして逃げてきたんだ?)
靴も履かず、入院着のままとなれば、まず退院が認められたと言うこともないだろう。逃げ出してきたのだと考えるのが一番自然だ。それが自分の意思なのか、他人の命令だったのかは分からないが。
よほど、のっぴきならない事情があったのだろうか。
さらに上着を余念なく調べてみたが、他に青年の素性の手がかりになりそうなものは一つもなかった。名前もなければ、私物一つない。財布や携帯すらないのだから、これはもう完全にお手上げだ。
彼が目を覚ましたら、どうするべきだろう。この病院に連絡を取って、引き取りに来てもらうべきか。
逡巡しながら寝室に戻った。
ベッドの端に腰掛け、鬱然とした寝顔をしばし見下ろす。こうしてみると、かなり整った顔立ちをしていた。すっきりとした鼻梁は高すぎず、肌もきめ細かい。ひげなんてまるで生えなそうな滑らかな顎先を指で辿り、目元を覆い隠す前髪をそっと掻き上げた。
「どうして、命を粗末にしようと思った?」
掠れた声で小さく問い掛ける。その理由が知りたかった。
生きたくても生きられなかった命があるのに、どうして自ら命を捨てようと思えたのか。
応えのない問いに溜め息をつき、静かにベッドを下りる。
「オレは……生きてちゃ、いけないから……」
囁くような声に、ドアノブへと伸ばしかけていた手が止まった。半身で振り返る。
「起きたのか?」
そっと近寄ると、青年は未だベッドの上に横たわったまま、呆然と自分の手のひらを見つめている。微かに震える指先を何度も握り込み、強張った動きでまた開く。
ベッドの端に再度腰掛け、気遣いながらその指先を握ってみた。青年は一瞬、驚いたように肩を跳ねさせたが、こちらがゆっくりと一本ずつ指先を絡めて行くと、次第に肩の力を抜いていった。
「冷えてるな。寒いか?」
凍えたような温度の指先を全て絡み合わせ、手のひらを重ねて問う。青年は頼りなく揺れる瞳に僅かばかり不信感を宿しながら、小さく首を振った。
「あなたは誰……?」
「俺か? 俺は瀬田だ。瀬田巽」
「せだ、たつみ……」
青年はぼんやりとその名前を繰り返し、緩く瞬いた。放っておけばまた眠ってしまいそうだ。
「お前は?」
決して無理強いしないよう、さりげなく問う。この流れなら、答えてくれるような気がした。
「オレ……は、洸季(ひろき)……名雲(なぐも)、洸季」
「洸季か」
やっと名前が分かった。ただそれだけのことなのに、自然と笑みが零れる。
けれど、迂闊に次の言葉を口にしたのは決定的な過ちだった。
「病院、戻るか?」
問いかけた瞬間、洸季の目から感情が消えた。
自分としてはただ、洸季の意思が聞きたかっただけだ。「戻りたくない」と言うのであれば、無理強いする気はまったくなかった。
だが、洸季はそうと受け取らなかったらしい。
「や、やだ……っ、やだ、やだっ!」
ぎょっとするほどの力でこちらの手を振り解き、転がり落ちるようにしてベッドから降りた。
「おい……」
「いやだっ! あんな所に戻るくらいなら死んだほうがマジだ……っ!」
部屋の片隅で蹲り、頭を守るように抱えたまま、ひたすら「いやだ」と繰り返す。その声は次第に弱まり、最後にはすすり泣きに変わった。
あまりの剣幕に衝撃を受け、束の間言葉を失う。
まさかここまでの拒絶が帰ってくるとは思わなかった。
「わ、悪かった……」
そっと近づいて震える肩に手を伸ばす。
「嫌なら、別に戻らなくていい」
自分でもどうかしていると思った。こんな見ず知らずの青年を助けたいと思うなんて。
他人のことなど、放っておけばいいものを。
冷徹にそう思う意識とは裏腹に、切羽詰った気分で口を開く。
「お前がここにいることは、誰にも連絡しねぇ。病院にも、警察にも……お前の、家族にもな」
そう言うと、洸季が息を飲む。ゆっくりと顔を上げた洸季と、至近距離で見つめ合った。涙で潤んだ瞳が、ひどく儚げで憐れに思える。
恐らく、洸季も一人きりなのだ。誰といても、たった一人で。決して埋まらない孤独感を抱えたまま、今日という日まで生きてきたのだろう。
「お前、行くとこねぇんだろ?」
真っ直ぐに目を見つめて問うと、洸季は瞳を歪め、抱えた膝に顔を埋めて首を振る。
「なら、ここにいろよ」
行くあてはなく、帰る場所もない――。そんな人間を、どうしたら追い出せるというのだろう。
追い出せばきっと洸季はさっきと同じことをするに違いない。
鼓膜を震わせるような警告音を無視して、踏み切りの中で終わりの瞬間を待つような、あんな恐ろしいことを。
(冗談じゃねぇ……)
今回はたまたま自分が見かけたから止められただけだ。
喫茶店を出るのがあとほんの少しでも遅かったらと思うだけでゾッとする。
「ここにいて、いいの……?」
「ああ。どうせ部屋は余ってんだよ」
縋るような問い掛けを耳にし、ぞんざいに頷いた。
これはひどく身勝手な偽善だと、心のどこかで分かっていた。
だけど。
もう二度と、誰かを見捨てるようなことはしたくない。自らの醜さを目の当たりにして傷つきたくない。
洸季を助けたいと思うのは、結局のところ自分のためだ。
「ここにいろ。誰も、お前を傷つけたりしねぇから。な?」
声もなくしゃくり上げている洸季をそっと抱き寄せ、誓うように囁く。
洸季は巽の胸に顔を埋めるようにして小さく頷いた。
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