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翌日
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「おい、おいってば!」
小さな手に揺すり起こされ、若干寝ぼけながら辺りを見回す。
「なんだ……?」
「いいから起きろって」
切羽詰ったような呼び声に目を向け、一気に覚醒した。困惑した顔の真志が自分を必死に揺すり起こしていたのだ。
「どうした」
「な、なんか、知らない奴が」
「ああ……」
すっかり伝えそびれていたと息をつくのと、隣に寝ていたはずの洸季がいないことに気づいたのはほとんど同時だった。
「あいつ誰だよ?」
不安そうな瞳に見つめられ、ふと胸が詰まる。真志がこんなふうに自分から話し掛けてくるのは初めてのことだ。
努めて穏やかに微笑みながら簡単に事情を説明してやった。
「あいつは俺の知り合いだ。しばらくうちに置くことになった」
心配するなと赤茶けた短髪を撫で、ベッドを降りる。
知り合った経緯など、あえて説明することもないだろう。
「で、あいつ今どこにいんだ?」
「リビング。なんか勝手に掃除してる」
「そりゃビビるわな……」
見慣れない奴がいきなり家の中にいて、勝手に掃除などしていたら臆するのが当然だ。
苦笑しつつ寝室を出ると、真志は怖々と後ろをついてきた。
リビングの扉を押し開け、絶句する。見違えるほど綺麗になっていたが、それが却って不気味に思えた。
溢れ返っていたごみは一つもなくなり、床はオレンジ色の照明が映り込むくらいピカピカだ。あちこちに散らばっていたはずの新聞はテレビの横に、きっちりと角をそろえて積まれてあった。
それだけ見れば、気持ちいいくらいすっきりとした空間になっている。だが、入った瞬間から続くこの奇妙な違和感の原因に気づき、やはり不気味に思った。
テレビに対して、ソファの位置がずらされている。ちょうど真正面、左右対称になるような位置に。それだけではない。ダイニングテーブルも部屋の壁に対して平行に置かれ、四つある椅子の並びも等間隔で、しかもきっちりテーブルと平行になるように収められている。よく見ればソファの下のラグマットも、テレビ台自体もそうだ。これを一人で動かしたのだろうかと思うと、やっぱり不気味だ。
いっそ偏執的といってもいいような潔癖さに眉をひそめた時、食器棚の方からカチャカチャと音がし、思わず目を向ける。
大きすぎる服の袖をきっちりと折り込んだ洸季が、やや背伸びしながら食器棚から食器類を取り出しているところだった。
「おい洸季、お前なにやってんだ?」
「あ……ごめん。勝手にやったらいけなかった、よね……?」
五枚ほど重なった皿を空中で支えた格好のまま、洸季がこちらの顔色を窺ってくる。そして返答も待たずに、ソロソロと食器を棚に戻した。
「いや別にいいけどよ、なにやってんだ?」
同じ問いを繰り返すと、洸季はいささかバツが悪そうに俯き、もごもごと口を動かす。
「あの、食器の位置が……気になって」
言い訳を口にした後で再度「ごめん」と呟き、洸季はふと目を見張る。
「巽さん……その子」
「ん? ああ。おい、」
洸季の視線が自分の背後に向いていると気づき、後ろに隠れていた真志の背中を押しこくった。
真志は僅かによろめき、前に出る。だが一向に口を開こうとはせず、もじもじと視線を床の上にさまよわせたままだ。
「お前な、せめて挨拶くらいしろよ。その口は飾りか?」
俯く頭を軽く小突いてみても、真志はまったく無反応だ。
どうやら人見知りをするタイプらしいが、そんなことは今初めて知った。仕方ないと溜め息をつき、代わりに紹介してやることにした。
「こいつは真志だ。俺の、息子……で今年八歳だ」
一瞬の言い澱みを、真志はしっかりと聞き取ったらしい。微かに目を眇め、口元を引き結ぶ。
今さらのこのこと現れた父親になど、気を許して堪るかといった表情だ。
(そりゃそうだよな)
内心の自嘲が棘となって全身に広がっていった。
「息子……そっか。巽さん、結婚してるんだ」
「あ、いや。結婚は……」
してない、と言い切る前に、真志が乱暴に自分の腕を振り解く。わざと足音を立てながら二階へと駆け上がっていくその小さな背中を、どうしても追うことが出来なかった。
「どうしたの? オレ、なんかマズイこと、言った?」
「気にすんな。大丈夫だ」
俄かに青褪めた洸季に苦笑を返し、見違えるほど綺麗になったソファへ腰を下ろす。
ポンポンと隣を示すと、洸季は困惑したまま、素直に隣にやってきた。
「真志とはな、ずっと離れて暮らしてたんだ」
「そうなの?」
「ああ……」
一緒に暮らすことになった経緯を簡単に話して聞かせた。二ヶ月前に母親が亡くなったことも、その原因も。結婚しなかった理由については、あえて深く触れなかった。ゲイであることなど、わざわざ話して聞かせる必要もない。
「本当に、今さらなんだよ。俺なんかが父親になれるわけねぇし、あいつだって俺なんかにゃ会いたくもなかっただろうよ」
「そんなこと、ないと思うけど……」
洸季はおずおずと両手の親指を擦り合わせながら口ごもる。そんな気休めがなんの役にもたたないことくらい分かっているようだ。
「ごめん……オレ、なにも知らなくて。無神経なこと言ってごめん……」
「いいんだよ。いちいち謝るな」
ぞんざいにあしらうと、洸季はさらに小さく謝ってくる。どうしてそんなに人に対して臆病なのか知らないが、謝られてばかりだと鬱陶しいのも事実だ。
不自然な沈黙に押し負けて、胸ポケットからひしゃげた煙草の箱を取り出す。
「お前、年は?」
緩く煙を吐き出しながら、さして重要でもない問いをぶつけた。
「え、あ……」
洸季は僅かに困ったような顔をして、室内を見回す。その不審な挙動には首を傾げるしかなかった。
まさか自分の年が分からないのだろうか。
「えっと……今年って、何年?」
「おいおい。しっかりしろよ」
どこぞのタイムスリッパーでもあるまいに。
苦笑しながら暦を教えてやると、洸季は自分の指を使って不器用に計算し始める。
「二十、五? うん、たぶん二十五」
「たぶんってお前な」
「だって、病室に、カレンダーとかなくて」
小さな弁明に、ツキリと胸を刺される。そうだった。
(こいつ、入院してたんだったな……)
八代クリニックなる病院がどういった場所なのか知らないが、今の言葉を聞く限り、相当長くいたようだ。自分の年が分からなくなるような生活とは、一体どんなものだったのだろう。
「巽さんはいくつなの?」
「今年三十一だ。お前から見りゃおっさんだな」
「おっさんって感じ、全然しないけど」
「そりゃどうも」
抑揚のない言葉に苦笑すると、洸季も微かに笑った。
「お前、やっと笑ったな」
「え……オレ、笑ってた?」
ほっとしながら微笑みかけると、洸季は唐突に表情を失くす。自らの変化に慄くように瞳を凍りつかせ、顔を背けた。
「どうした」
「ごめん、なんでもない」
〝なんでもない〟なんてことはないだろうに、洸季は緩慢に首を振って立ち上がる。
「食器、並べ直していい?」
「ああ……いいけどよ。それ、楽しいのか?」
訝りながら視線を向ける。洸季はなんとも答えず、先ほどの続きを再開し始めた。
なにかしていないと、不安なのだろうか。
短くなった煙草をそれでも吸いながら、ふと思った。確か、自分にもこんな時期があった気がする。
あれはいつだっただろうか。父が家を出て行ったときか。母が死んだ時か。それとも、彼女が死んだと知ったときだったか。
もう分からないが、確かにこんな時期があった。自分の場合はとにかくひたすら仕事に没頭することで、まとわりつく不安や焦燥感を振り払ってきた。洸季の場合はこういう身の回りの整頓が当てはまっているように思える。
(ま、好きなだけやりゃいい。それで気が紛れるってんなら、止める必要もねぇ)
もう二度とあんなふうに、自らの命を投げ打ってしまおうなどと思わないで欲しかった。
『オレは生きてちゃいけないから』
どうして、そんなふうに考えたのか。誰が、そんなことを言ったのだろうか。
たった二十五で、死を望むなんて。
煙の出なくなった煙草を灰皿に押し付けながらも、視線は無意識に洸季を追っていた。潔癖そうな横顔で、一枚一枚皿の並びを変えている。大きさ順、深さ別、丸いものとそうでないもの。
この家は、巽が生まれたときからずっと過ごしてきた家だ。家族分の食器もあれば、来客用に備えてあった食器もある。昔父母が使っていた懐かしい茶碗を目にし、知らず顔をしかめた。
思い出なんて、色褪せるだけでなんの価値もないようなものを、思い出してしまえば虚しくなるだけのものを、どうして捨てられずにいるのだろう。
忙しなく動き回る洸季を目で追い続けた。ふとした瞬間に見せる陰鬱な横顔に、胸中がざわめくのを止められない。
どこか自分と似ているのだ。
「洸季」
「ん? あ……これは触っちゃダメだった?」
追い詰められたような横顔に急き立てられて思わず腰を浮かせると、洸季はきょとんと目を丸くした後で怖々とこちらの顔色を窺ってくる。
「いや、別にいいっつってんだろ。ってかなんだそれ」
度を越して律儀な洸季に苦笑いしながら、近寄って手元を覗き込んだ。そして目を見張る。
「これ……懐かしいな」
洸季が手にしていたのは、自分が幼い頃、そう――ちょうど今の真志くらいの年の頃に使っていたプラスチックのコップだ。特撮の戦隊ヒーローがプリントされた、安物のコップ。とっくに失くしたと思っていたそれが、どうやら食器棚の奥から出てきたらしいと知り、一人で笑ってしまった。
「これって、巽さんの?」
「ああ。ガキんとき、スーパーで駄々こねてお袋に買ってもらったやつだ。まだあったんだな」
片手にすっぽりと収まるほど小さなそれは、長い年月を経てすっかり黄ばんでいる。
妙にしんみりした気分になったが、泣くほどでもない。
「お気に入りだったんだね。ずいぶん傷ついてる」
「ああ。朝飯で牛乳飲むのもその後の歯磨きも、毎日これ使ってたからな。学校にまで持ってって担任に没収されたり、ダチに取り上げられて喧嘩になったり、まあ、色々あった」
「そっか」
「お前のおかげで見つかったんだ。ありがとな」
「え?」
ほんわりと頬の強張りを解いた洸季に礼を述べると、面食らったような顔でまじまじ見つめられてしまった。
だけど本当に、礼が言いたかったのだ。懐かしさに目を細めながらコップをひっくり返し、底に記された拙い記名を目に焼き付ける。
〝せだたつみ〟
記憶にあるものと寸分違わないのに、どうして初めて目にするような感覚に捉われるのだろう。
「昔のことを思い出すときってよ、決まって嫌なことばっか思い出すだろ。痛かったこととか、悲しかったこととか。でも、こういうの見ると〝楽しいこともあった〟って思い出せるんだな」
そんなことを、今さら知るのもおかしいが。
胸の奥がじんわりと暖かくなった。その温もりを素直に〝嬉しい〟と受け止められたことが、何より嬉しかった。
思い出はきっと、無駄なものではないのだ。
一つ考えを改めてもう一度礼を口にすると、洸季は戸惑いながらも微笑を浮かべた。
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