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揺り戻し
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「おっさん、起きろよ。なあっ!」
深夜一時過ぎ。執筆がひと段落してようやく浅いまどろみに落ち始めた頃、真志に揺すり起こされた。
「どうした……?」
「いいから上に来てくれよ。洸季さんが……」
ぼやけた頭で辺りを見回し、血相を変えた真志の言葉に跳ね起きる。
「洸季がどうした?」
「分かんない……でも、様子が変なんだよ」
動揺しているのか、言葉尻を揺らしながら真志がきつく腕を掴んでくる。ただ事ではない様子に背中が冷やりとした。
素足のまま寝室を飛び出し、慌てて階段を駆け上る。二階の一番手前が、今は洸季の私室になっていた。
上に上がってすぐに異変を知る。
「おい洸季っ? どうした?」
洸季の部屋から、甲高い悲鳴がずっと続いているのだ。ノックに応答はない。
「ねぇ、洸季さん、どうしたの?」
「……お前は部屋に戻ってろ」
「でも、」
「いいから」
不安そうに瞳を潤ませる真志の背中を押しやり、自室へと向かわせた。
一つ大きく息を吸い込んで、洸季の部屋のドアを押し開ける。悲鳴はいつの間にかうめき声に変わっていた。
「洸季!」
洸季はベッドの上で小さく身体を折りたたみ、頭を抱えたまま呻き続けていた。
「おい、洸季」
「ッ触んなよ!」
強く肩を掴んで揺さぶると、弾き飛ばすような勢いで手を振り払われる。聞いたこともないような怒声に、本気で息が止まった。
「オレに触るなっ! どっか行けッ!!」
「洸季……?」
ぎらついた相貌に真っ向から睨みつけられ、再び伸ばしかけた手が空中で止まった。心臓が狂わんばかりに早鐘を打つ。
今までも何度か、こんなふうに取り乱す洸季を目の当たりにしたことがあったが、これほどの錯乱は初めてだ。
(なにがあった……? どうして急に)
嫌な夢を見たのか。それとも、自分がなにか、洸季を追い詰めるようなことを無意識にしてしまっていたのだろうか。
洸季の混乱に毒されて、こちらまで急速に体温が下がっていく。
「あ……た、巽さん……」
絶句する自分と目が合い、洸季はハッと我に返って青褪めた。ひび割れた瞳をくしゃくしゃと歪ませ、目の端から涙を溢れさせる。
感情の起伏があまりに突発的で不規則だ。
「ごめんなさい……っ、ごめ、」
一気に顔色を失った洸季が身体を震わせ、頭を抱えたまま布団に突っ伏した。
浮かせた手でゆっくりとその背中に触れる。強張って震えた小さな背中がひどく脆いものに思え、恐る恐る撫で擦った。
「どうした……?」
ベッドの淵にしゃがみ込み、そっと耳元で問う。だが洸季はきつく歯を食いしばったまま首を振るだけだ。
なにも答えない。答えようとしない。
(このままじゃ埒が明かねぇ)
舌打ちを零し、片手で洸季の顎を掴んだ。
「洸季、俺を見ろ。分かるか?」
「ん……、」
嫌がって捩る身体を押さえつけながら、その瞳を覗き込んだ。思っていたとおり、ここにはいない。どこか遠い、自分の内側だけを見ている目だ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「お前、誰に謝ってんだよ」
震える吐息とともに繰り返される言葉も、恐らくは巽に向けたものではない。
だとしたら、一体誰に謝っているのだろう。
「オレが……ねば、」
唐突に力を抜いた洸季が、呆然となにかを口にする。うわ言のようなそれに耳を傾け、
思考が止まった。
『オレが死ねば良かったんだ』と、洸季は確かにそう言ったのだ。
「洸季、」
続く言葉が、なに一つ見つからない。ただ、心臓の中心に深々と鋭利な棘が食い込むような痛みを覚え、訳も分からず息が乱れる。
突き抜けるような衝撃が去ったあと、湧き起こったのは怒りだった。
何かが変わったと思っていたのは俺だけだったのか?
お前はまだ死にたいってのか?
「ふざけんじゃねぇ……」
「ごめん、なさ――」
「うるせぇんだよ、お前はッ!」
ひたすらその言葉を繰り返している唇を、衝動的に塞いだ。
「ッ――?」
洸季が愕然と目を見張る。
(ムカつくんだよ。自分一人でなんでもかんでも背負い込みやがって)
苛立ちと焦燥の赴くままに唇を貪り、洸季の身体が硬く強張っても止めなかった。
「ん、ん……ぁ、ッふ、」
(勝手にどっか行くんじゃねぇよ)
怯えたように逃げ回る舌を捕らえてきつく吸い上げ、執拗に口内を舐りながら、胸中で呟く。
自分だけの世界になんて、行かないで欲しいと。その場所には、巽の居場所がないのだ。
泣き言じみた正直な想いを言葉にするのは、昔から苦手だった。巽はいつでも、行動で示すことしか出来ない。今のように。
容赦など一切かなぐり捨て、無遠慮に熱い口内を愛撫していると、洸季の顔に赤みが差していく。
「ん、んん……ッ、ふ、……ん」
微かな抵抗を示すかのようにしがみつく指先がきつく食い込んだが、その痛みが却って巽に安堵をもたらした。洸季は今、しっかりと巽を認識している。
やっと戻って来たのだ。こちら側に。
そんなふうに思えたことで、急速に苛立ちが止んだ。
ちゅく、と小さな水音を立てて唇を離すと、のぼせた瞳で洸季が自分を見ていた。
「巽さん……」
「……悪(わり)ぃ、他に思いつかなかったんだ」
我に返るといささか気まずくなり、もごもごと言い訳を口にする。ゲイの自分はともかく、洸季は男とキスをするなんてごめんだっただろうに。
そっと髪を梳いてから、未だ陶然としている洸季から身体を離した。
洸季が正気に戻ったなら、自分がここにいる理由もない。さっさと退散するべきだろう。そう思い、一歩踏み出しかけた。が――。
「巽さん……」
切羽詰った様子の洸季に袖を掴まれ、目を見張りつつ動きが止まる。
「おい、」
「お願い。行かないで……。ここにいて」
切実な囁きに、ふと胸を突かれた。言われるがまま寄り添い、腕の中に深く抱き包むと、洸季が細く安堵の息を洩らす。線の細い身体を、押し潰さないよう優しく抱き締めた。
「さっきは、ごめん……夢、見てて……」
「怖い夢か?」
「うん……弟が、死んだ時の夢……」
震える呟きが心に小さなひびを入れる。洸季の口から、その過去を聞くのは初めてだ。
「弟、いたのか」
「うん……いた」
そうか、と納得し、目を閉じる。強く脚を絡め合って、寂しげな背中を撫で続けた。
「あいつ、まだ十歳だった。オレは、まだ中三で……」
訥々とした声が尻すぼみに消えていく。それきり口を噤んだ洸季に、問い重ねることはしなかった。
「無理に話さなくていい。……聞かねぇよ」
小さく洟を啜る音が聞こえる。話すのもつらいような過去を、洸季の口から暴こうとは思わない。知りたいと思うのは確かだが、それなら他にいくらでも手はある。
わざわざ、洸季を追い詰めなくても。
こちらの胸に額を擦り付けてくる洸季から僅かに身体を離し、涙に濡れるその頬にそっと口づけた。塩辛い涙が口の中に伝う。
「ごめんなさい……」
「もう謝るな。泣きたいだけ泣いてろ」
俺はここにいるから。
そう何度も何度も囁いて、ようやく洸季が身体の強張りを解いた。窺いながらもう一度軽く唇に触れ、嫌がる気配がないと分かった途端、なぜだか独占欲が湧き起こった。
「ん……、ん……ッ」
深く唇を塞ぎ、吐息ごと貪るように口づける。
洸季が自分の物になればいいのに。そんな考えが脳裏を占め、思考が溶け出す。
どこか恍惚とした洸季の顔を時折見つめながら、溺れるようなキスを続けた。
飢えている。そう感じた。
人の熱に、あるいは愛情に、自分たちはとことん飢えていると。
互いの心は、埋めきれない喪失感で壊れかけた器のようだ。どれだけの想いを注いでも、無数に入った亀裂からそれは零れ落ち、決して満たされることはない。けれど、こうして互いの心を重ねれば満たされるのではないだろうか。
溢れるほど注ぎ合えば、たとえ壊れた器でも束の間、満たされる。
縋りついてくる脆弱な腕の力が、たまらなく愛しい。ずっとこのまま触れ合い、傍にいられたら、どれだけいいだろう。
胸に湧き起こる熾烈な激情を無理やり閉じ込めて、脆い洸季の身体を優しく撫で続けた。
(〝自分が死ねばよかった〟なんて、二度と口にするなよ……)
頼むから。
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