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凄惨な過去
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「洸季さん、平気かよ?」
洸季の凄絶なパニックから三日――。
朝早くにキッチンで皿を洗っていると、真志が不安げな顔でソロソロとリビングに現れた。
「ああ。大丈夫だ。まだ体調悪ぃみてぇだから、起こすなよ」
手にまとわりつく泡を払い飛ばしながら答える。洸季はまだ、どこか苦しげな顔をして眠ったままだ。微かだが熱もあり、とてもじゃないが、起こせるような状態ではない。
「おれのせいかな……?」
「あ?」
真志が小さく顔を俯けたのを目にし、手をゆすいで近寄った。
「なんでお前のせいなんだよ」
「だって、無理やりゲームにつき合わせたから……」
「そんなの関係ねぇよ。洸季にはいろいろ事情があんだ。お前が気にすることじゃねぇ」
「でも、」
自責するように顔を歪めた真志の頭を軽く撫で、ソファに座らせる。
その目の前にしゃがみ、不安そうな瞳を覗き込んだ。
「心配すんな。あいつは俺が守る。どこにも行かせねぇよ」
小さな手を握って言うと、真志は微かに目を見張った後、ゆっくりと頷いた。
「おら、さっさと朝飯食え。っつっても、さっきコンビニで買って来たやつだけどな」
「うん」
ようやく気を持ち直したらしい真志が朝食にありつくのを見届けてから、出掛ける準備をした。
洸季を残して出掛けるのは不安だが、仕方がない。なるべく早く帰ると真志に告げ、家を出た。
いつもの喫茶店に猛スピードで向かう。途中で洸季を拾ったあの踏切を横切り、ジクジクと胸が痛んだ。
洸季のことを知りたいと思う。知らなければならないとも。
その時が来たら洸季自身に問うつもりだったが、もはやこれ以上待っていられない。
開き慣れた扉を開け、店内を見回す。
「あ、巽君。いらっしゃい」
「夜須(やす)来てっか?」
「あ、やっぱり待ち合わせ? 奥にいるけど」
日阪が示したテーブルに、懐かしい天パを発見した。
「遅いやん。もー待ちくたびれたわー」
シュッと面長の男が片手を挙げ、陽気な声を掛けてくる。中年の癖に上下白いスーツとは。
「どこぞのホストかてめぇは」
「え、言うとらんかった? わいの本職はホストやで?」
「……マジで言ってんのか」
「マジもなんも、探偵なんちゅー嘘くさい仕事一本で食ってけるわけないやん」
カラカラと能天気な男の面を見ればまあ、あながち不可能というわけでもない。二十代の頃と比べて自分はずいぶん変わったが、目の前の夜須千影(ちかげ)はといえば、まったくなにも変わっていない。見た目も中身も、単に成長が止まっただけなのだろうが。
「だいたいな、〝嘘くさい〟とか、自分で言うなってんだよ」
「アハハハ」
「笑いごとじゃねぇ」
クルクルパーの頭を思い切り殴りつけ、ドカリと遠慮なく向かいに腰を下ろした。
「で、なんか分かったんだろうな?」
甘ったれた微笑を浮かべたままだらしなく頬杖をついている夜須を睨みつける。
「そない怖い顔しなさんなー。老けるで」
「うるせぇ。こっちはさっさと帰りてぇんだから、てめぇはそのうるせぇ口黙って動かせ」
「黙っててどない動かすねん。口パクかいな」
いちいち揚げ足を取る男だ。本当になにも変わっていない。まともに取り合えばこっちの寿命が無駄に縮むだけなので、舌打ち一つで切り上げて煙草に火をつけた。
夜須も日阪同様、大学時代の悪友だ。文学部の秀才ともてはやされたこいつは、卒業目前にしてなにをとち狂ったのか〝探偵業〟などという怪しげな看板を掲げて中退した。
要するにイカれた奴なのだが、調べ物に関してこいつの右に出る奴を他に知らない。
「まー、えらい湿気た話やで。ホンマ笑いごとちゃうわ」
この独特な話し方と、毒気のある微笑のおかげか、他人からの情報収集においては確かな腕を持っている。誰も彼も、夜須と話すときは口が軽くなってしまうのだ。
自らの過去を辿っても、こいつにはいちいち余計な話までしてしまった記憶がある。だから夜須は、自分の過去を全て知っているのだ。もちろん、今、真志と暮らしていることも含めて。
「なーんちゅうかなー。今までたっちゃんから頼まれた仕事ん中で一等きつかったわ」
憎たらしいほどスラリとした脚を優美に組み替えながら、夜須が気取った手つきでコーヒーを啜る。挙動が逐一うざったいが、今はカッカしている場合ではなかった。
「前置きはいいからさっさと話せ」
「うん、まあ、まずは『八代クリニック』についてやけどな、あれはアカンとこやで」
「なにがだ」
「悪辣っちゅうこっちゃ。患者閉じ込めて、一切なんもさせん。読書やら音楽やらの娯楽一つ与えんで、ずーっと監禁状態や」
部屋には時計もカレンダーもなく、ただ無機質なベッドと簡易トイレがあるだけだという。
「まるで独房やな」
洸季が、予想していた以上に非道な環境にあったと知って、思わず顔を歪める。
「心壊してる奴に、なんでそんな仕打ちができんだよ」
「心が壊れてもうてるから、できるんやろうな。なんがあっても相手は〝異常者〟っちゅう見方や。それ以上壊れようもない」
吐き捨てるような言い草に思わずカッとしかけたが、夜須の目を見て思いとどまる。
眇められた鋭い瞳に、夜須も憤っているのだと分かった。
「個人経営のホンマ小さな病院やし、外部からの接触もできんで、文字通り陸の孤島やな。しかも、八代クリニックに身内預けたもんは、みーんなその後の連絡一つせぇへん。名雲洸季の家族もそうや」
身内に見捨てられた人間の掃き溜めだと、夜須は忌々しそうに呟く。
病院から抜け出し、自分と出会ったあの日の洸季を思い出した。
〝あんな所に戻るくらいなら死んだ方がマシだ〟と叫んだ後、取り憑かれたかのようにリビングを掃除し、皿を並べ替えていた。
あれは、長いこと現実から逃避する手段を与えられなかった反動だったのだ。
だが、そもそも――。
(なんでそんなところに入れられたんだ?)
その経緯が分からない。八代クリニックに入院させられた経緯が。
そんな悪質極まりない病院に閉じ込められたのはなぜなのだろう。夜須の言葉をそのまま鵜吞みにするなら、八代クリニックに入院した時点で洸季は相当に精神を病んでいたということになる。
洸季の過去に、一体なにがあったのだろう。
「こっからは、その名雲洸季の生い立ちやけどな。正直、今の話よりきっついで」
「……いいから話せ。それが知りたくてわざわざお前に調べさせたんだろが」
洸季が、あんなことを言った理由が知りたい。〝自分が死ねばよかった〟と、〝自分は生きていてはいけない〟のだと、そんな考えに至った原因を知りたい。
「この前、少しだけ聞いたけどよ。弟が死んだって。中三の時に」
「うん、せやな。けど、まずは順を追って話してええか? 多分、そっちの方が分かりやすいで。名雲洸季が壊れた理由っちゅうのは、まあ、わりかし単純なんやけど」
温くなったコーヒーを気だるそうに啜っている夜須に一つ頷き、無言で続きを促した。
洸季の過去を覗き見するような罪悪感はある。だが今の洸季に全てを話せというのはあまりに酷で、とても不可能だ。
けれど知らなければ、いつまた、こちらの些細な行動や言動が洸季を追い詰めてしまうか分からない。
洸季がなにを望んでいるのか、本人が頑として口にしないその望みを、もしかしたら洸季自身も知らないその望みを、叶えてやりたいと思う。
たとえ叶えてやれなくても、傍にいたいと思う。もし、洸季がそれを望むなら。
「まず、名雲洸季は養子や」
「養子?」
「ん、元々孤児やってん。で、四歳んときに資産家の名雲家に引き取られたんや」
テーブルの上で緩く手のひらを組み合わせた夜須が、淡々と事実を明かしていく。
洸季が引き取られた名雲夫婦には、長年子供ができなかった。苦渋の決断で実子を諦め、養子を取った。それが洸季だという。
「まあ、金は腐るほどある家やった。名雲洸季も、最初は思いっきり可愛がられてん。オモチャもお菓子も与えられ放題でな。でもそんなわがままばっかし言うような子供とちゃうかったらしい。大人しすぎるくらいええ子やったって、当時名雲家に勤めてた家政婦さんが言うとったわ」
「お前……よくそんな人、見つけられたな」
「ツテがあるんやで、色々とな」
シニカルな笑みを浮かべ、夜須が煙草を取り出す。それを見て腹の底が重くなった。
こいつが煙草を吸う時は、本当に嫌な話が始まる時だ。
「でも、まあそんな幸せな時間も、長くは続かんかったみたいやな」
「夫婦に、子供ができたのか」
「さっすが、鋭いな」
鋭いもなにも、洸季に弟がいたという話を聞けば、誰でも察しがつくだろう。
「そう、子供ができたんや。まあめでたい話やな。長いこと諦めとった待望のわが子や」
言いながらも、夜須の目は冷え切っていた。その後の展開は、巽にとってもある種、予想通りのものだった。
名雲夫婦に実子が生まれた途端、洸季は手のひらを返したように冷遇された。身体的な暴力こそなかったが、虫けらを見るような目で洸季を一瞥するたび、「いなくなればいい」と再三口にしていたらしい。
名雲夫婦にとって、洸季は邪魔な存在になった。
(んだよそれ……)
あまりに手前勝手だ。胃の底が不快にうねり、思わず拳を握り込む。
「ま、だったら手放せばええような話やけどな。そっちの方が、洸季君も幸せやったはずや」
だが名雲夫婦は資産家として名を馳せ、その体裁を保ちたいがために洸季を手元に置き続けた。
その結果、悲劇が起きたと夜須は言う。
「なにがあった」
洸季の過去、一番つらいその事実に踏み込む覚悟を決め、先を促した。夜須は僅かに眉をしかめながら、細く煙を吐き出して話し出す。
十年前の六月下旬。ちょうど梅雨入りしたばかりの頃。洸季は中学三年生で、十五歳。弟の良哉(よしや)は当時十歳。
夫婦との関係は冷徹なものだったが、洸季にとって良哉は唯一の救いだったという。兄弟仲は良好で、両親に隠れて一緒に対戦ゲームをしたり、川原でキャッチボールをしたりしてよく遊んでいたらしい。
「でも、その日は途中から生憎の豪雨でな。なんでそんな中、はよ帰らんかったんか知れんけど、二人で遅くまで川原におったらしいんや」
そして、良哉は川に落ちてしまった。
豪雨で増水した川の水は、容赦なく小さな身体を吞み込んで連れ去ったのだろう。
「見つかったのは三日後や。二十キロ先の川下で、ボロボロんなった遺体が見つかった」
あまりの出来事に、巽はしばし言葉を失う。
洸季は、あろうことか自分の目の前で弟を失ったのだ。
「そっからが、洸季君にとって本当の地獄の始まりや」
パチン、とジッポライターの蓋を閉じ、二本目の煙草を吸い込みながら夜須が続ける。
まだ続きがあるのかと、既に血が滲む胸中で溜め息をついた。
もう聞きたくないとさえ思った。だが、知らなければならない。ここで目を背けてしまったら、洸季の心には近づけないのだ。
「まあ、分かるやろ? 弟の良哉が川に流された日の晩から、名雲家の中がどういう有様だったか」
「ああ……」
手酷い暴力と叱責。目に浮かぶような、嵐の三日間。
そして、良哉の遺体が見つかった。
どれほどの重責が洸季に与えられたのだろう。それは、あの繊細な心をあっけなく砕くようなものだったはずだ。
「その日、洸季君はいっちゃん初めの自殺未遂を起こした。学校の屋上から飛び降りて、な……」
噛み締めた唇から血の味がした。それでもまだ、洸季の痛みには遠く及ばない。
屋上から飛び降りた洸季は、奇跡的に一命を取り留めた。それは自分にとって本当に、奇跡だと思う。
もしもその時、洸季が死んでしまっていたら、出会えなかった。
「でもな、病院に運ばれて目ぇ冷ました洸季君に、親が浴びせた言葉、なんだと思う?」
「……知らねぇよ」
知りたくもない。だが、分かってしまった。
それが引き金になったのだ。洸季が自らの死を、まるで救いであるかのように望むようになった、引き金に。
夜須の口から、その言葉が忌々しげに吐き出された。
「『この死に損ない』」
〝お前が死ねばよかったのに〟
「クッソ! ふざけんじゃねぇっ!」
思わずテーブルの上を凪払う。カップやグラスの割れる甲高い破砕音が、夕べ聞いた洸季の悲鳴に重なって聞こえた。
(ふざけんな……、ふざけんな……ッ!)
洸季が、なにをした? もしも洸季が故意に弟を突き落としたのなら、まだ分かる。だが、絶対にそんなことはありえない。
洸季のあの壊れ方を見れば分かる。本人がどれだけ苦しんでいるかを見れば。
わざとなんて、ありえない。それなのに……。
かつて一度も感じたことのない憤怒が血という血を沸騰させた。全身に広がる悪感情で気が狂いそうだ。もしかしたら、これが〝殺意〟というものなのかもしれない。
「巽君、大丈夫?」
「……ああ、悪い。後で弁償すっから、あっち行ってろ」
気遣わしげな声を掛けてきた日阪をあしらい、頭を抱えて深く息をついた。急激に血圧が上昇したせいか、こめかみがひどく痛む。
「……洸季君はその後、もう一回自殺に失敗してるんや。今度は薬でな。これはもうどうしようもない言うて、あちこちの病院たらい回しにされたみたいや」
そして最後に行き着いたのが、八代クリニックという地獄の果てのような病院で。
洸季はそこで、八年の月日を過ごしてきた。
「あいつ……自分の年も分からなくなってやがったっ……」
吐き出した言葉の苦味に、目頭がジン、と痺れた。
自分と出会ったあの日、洸季は最後の賭けに出たのだろうか。
あんな場所で、あんな死に方を選んで。
(馬鹿な奴だ……っ)
胸中で呟いた瞬間、堪えようとした涙が零れ落ちる。
痛くて痛くて、たまらない。
「……大丈夫かいな。わいも調べてて何度か吐きそうになったで」
止めようもない涙を乱暴に拭っていると、夜須が気味悪いくらいに優しい声を掛けてくる。
力いっぱい拳を握り締めて考えた。
洸季を救える方法なないのか。なにか一つでも。
「そない気張りィな。たっちゃんが自分責めてもなんも変わらんで」
「……んなこと分かってる」
それでも、思わずにはいられなかった。もっと早くに出会いたかったと。
「やっぱ、聞かせん方が良かったか?」
「いや……調べてくれて助かった」
気遣わしげな視線を向けてくる夜須に礼を述べ、落としたカップを拾い集めた。割れた欠片を素手で拾い上げると、慌てたように日阪が駆け寄ってくる。
「いいよいいよ。僕がやるから」
「手伝うで。箒とちりとりある?」
「悪いな」
「なんのなんの。わいら、根っからのトモダチやん」
あっけらかんと笑う夜須に苦笑を返す。〝友達〟という言葉がこんなにもいかがわしく聞こえたのは初めてだ。
「ここは任せてええから、たっちゃんははよ帰り。洸季君、待ってんねんやろ?」
「ああ……」
その言葉に甘え、日阪にコーヒー代と割ってしまったカップの代償を差し出す。
「いらない」
「いらねぇってことねぇだろ」
笑顔で首を振られ、僅かに動揺した。こういう罪は、例え軽くてもその場できっちり清算してしまいたいのが本音だ。
これ以上、誰かに借りを作りたくない。
だが日阪は頑として金を受け取らず、大仏みたいな笑みを浮かべた。
「今日のはサービスにしておくからさ、今度連れてきてよ。巽君の大切な人、二人ともね」
今の会話が日阪の耳にも入っていたことはなんとなく分かっていたから、さして気まずくは思わない。
大切な人。もちろん洸季と真志のことだ。
「ああ。近いうちに連れてくる」
「また用があったら遠慮なく言うてや。お代は身体でええで」
おぞましい冗談に顔をしかめ、屈み込んでいる夜須の脇腹を蹴り飛ばす。
「いったぁ! ちょ、加減っちゅうもんを知らんのかワレ!」
「うるせぇ馬鹿」
喚き散らす若作りホストに鼻を鳴らし、背を向けた。
二人を日阪に合わせるのはいいとして、夜須にだけは絶対に関わらせたくない。間違いなくとんでもない方へと道を踏み外すだろう。
胸中で毒づきながらも、僅かばかりの感謝を持って店を後にした。
凄惨すぎる洸季の過去を知ってしまったが、後悔はない。
おぼろげながら、洸季がなにを望んでいるのか分かったような気がした。
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