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雨はまだ続く
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「じゃあ後はお任せください。本当に本日はご苦労様でした」
編集者の斉藤は七三分けに厚ぼったい黒縁眼鏡という〈ザ・サラリーマン〉な容姿で平身低頭しながら微笑みかけてくる。隣には酔ってヘロヘロになった金髪の青年がいた。エメラルドグリーンの瞳にはイタズラな笑みが浮かんでいる。
『じゃあね、Mr.タツミ。作品の打ち合わせはまた今度ゆっくりしよう?』
フランス語でいけしゃあしゃあと言い放った青年に、思わずぶち切れそうになりながら、ぐっと堪えて片頬を引き上げる。
『ああ。またな』
適当に手を振り、居酒屋を出た。
もうやってらんねぇ。
打ち合わせとは名ばかりの〝子守〟をやっとの思いで切り上げ、巽は苛立ちながら車に乗り込んだ。酒は一滴も呑んでいないので、運転に支障はなかった。エンジンまでもが不機嫌な唸りを発し、ますます神経がささくれ立っていく。
もっと早く帰れると思ったのに、次期長編作の打ち合わせがいつの間にかただの観光もどきにシフトチェンジしてしまったせいで、もう七時をとっくに回っていた。
「『今日ばっかりは早く帰りてぇ』って、二十回は言ったはずなんだけどな」
しかめ面のままで煙草をふかしながらハンドルを切り、込み合う国道を南下して家路を目指す。
巽はフリーの翻訳作家なので出版社や海外のライターから、作品ごとに単発でオファーを受けるのが常だ。その中でも今回、長編シリーズの翻訳を依頼をしてきた安国出版社はかなり大手の部類に入る。巽はこれまでも定期的にこの出版社から仕事を任されてきた。
安国出版では主として海外の児童文学やノンフィクション、ミステリー、SFものなどといった多彩なジャンルの翻訳物を扱っている。そのため巽のような実績のあるフリーランサーはとかく重宝がられていた。英語とフランス語を日常会話に支障がない程度に話せるというのも、アドバンテージとして評価されているのだろう。
「だからって人をガイド代わりに使うんじゃねぇってんだ……」
渋滞に引っかかり、舌打ちを零しながら携帯を覗く。着信は二件。どちらも日阪からだ。
今夜の真志の誕生日パーティーには、日阪も来る予定になっている。
本当ならとっくに日阪を迎えに行き、家で洸季の豪勢な手料理にありついているはずの時刻だった。
予想以上にあちこち連れまわされたことに今さら憤然としつつアクセルをめいいっぱい踏み込む。猛然とガラスを打ち付ける雨をワイパーは呑気な動作であしらっていた。それすらなんだか腹立たしく、刻々と眉間にシワが寄っていく。
心にあるのはただ一つ、もっと早く帰りたかったのにという恨み言だ。
今回、巽にとってのクライアントはあくまでも安国出版で、原稿料もここから頂戴することになっている。大事なお得意様なので、呼びつけられれば飛んでいくしかない。通訳代わりとして便利に使われるのも、まあ珍しい話ではなかった。
異国の小説を翻訳するとなれば、ただ原稿だけをもらって訳すだけ――という簡単な話ではすまない。
作品の世界観、文体は硬派なのか軟派なのか、ターゲット読者層はどの年代なのか。そういった細かな設定について意見を原作者と詰め合わせ、意見が食い違わないように、作品のイメージを損なわず、より深みを増すように話し合いを密にする必要があるのだ。
本来、その原作者との話し合いは電子メールで行うのが一般的である。わざわざ遠い国に赴く必要も、赴いてもらう必要もない。文明の利器は偉大なのだから思う存分活用するべきだと思う。
だがどういうわけか今回、翻訳依頼されたミステリ小説の原作者がたまたま来日していたとかで、「それなら打ち合わせは会って直接したほうが早い」などと安国出版からじきじきの横やりが入り、悲しいかな打ち合わせとはまったく関係ない観光案内をやらされたわけである。
結果的には子守というほかない無為な時間だった。
昼過ぎに斉藤から連絡があり、引き合わされた相手はフランス人の青年だった。リュカ・ベナールと名乗った青年はまだずいぶんとあどけない顔をしていたが、彼の国ではだいぶ名の知れたミステリ作家だ。無論フランス文学に聡い巽も彼の作品はよく知っていた。まさかこんなに若い子供が書いているなどとは梅雨ほどにも思わなかったから、一見して本当に驚いた。
彼が手がけているミステリ小説は既刊十五巻にもわたり、まだ続編を執筆しているというのだから、相当に才能のある若者と言えるだろう。
日本語がまったく喋れないリュカに『歩きながら話そう』と提案され、この雨の中を散歩なんて冗談じゃないと返したら、なぜか東京タワーだとか、スカイツリーだとか、果ては『居酒屋の雰囲気って珍しいね。パブとは全然違う』などと言って、結局あちこち連れまわされてしまった。
リュカはやたらとスキンシップの激しい性質らしく、何かあるたびにベタベタと腕やら太腿やらに触れられるのもいい加減辟易した。
もちろん、仕事として付き合うには大事な相手だ。それは分かっている。
彼の小説を翻訳して、それが日本国内でもベストセラーになれば、この先彼が手がける作品の専属訳者になれる可能性も出てくるのだからパイプを太くしておくに越したことはない。斉藤を含む安国出版の社員たちが彼におもねるのも、自社の売り上げを見込んでのことだろう。
フランス語が話せる巽を直接彼に引き合わせたのも、恐らくはそういった泥臭い事情があってのことだ。
実力ある若手作家を懐柔できれば、自分たちの会社が潤う。そのためには、この機会に是非親交を深めて欲しい――。言外の打算に抗えなかったのは今後の生活を考えての苦慮でもあった。
真志と洸季。二人の家族を養うためには仕事が必要だ。平穏な日常をこの先も連綿と、滞りなく続けて行きたいと願うなら、何をおいても先立つものが必要である。だけど。
自分にとって一番大事なのは、決して仕事ではない。家族だ。けれどそれを守るためには仕事が必要で――。
仕事と家庭。どちらか一方ではこの先の平穏は約束されない。そんな堂々巡りの思考に思わず溜め息が出る。
「だけど、今日だけは早く帰らねぇと……」
何度もそう言ったのに、リュカはまったく人の話を聞いちゃいなかった。しかも、口を開けばあれこれと無駄話をするばかりで、肝心の作品に関する打ち合わせはほとんどできもしない。あれでは本当にただの観光だ。
「ったく、あのガキは……」
観光がしたかったのなら、自分一人で勝手にツアーにでもなんでも参加してくれればいいものを……。
まったくもって無駄な時間だった。そう思った瞬間、どっと疲労が押し寄せてきた。
とにかく、どうあっても真志の誕生日をすっぽかすわけには行かない。
酔いつぶれたリュカを斉藤に引渡し、強引に引き上げてきたところで遅刻は遅刻だ。真志が臍を曲げないことを祈りながら国道をはずれ、日阪の喫茶店へと向かった。
「で、なんでお前がここにいるんだ」
「なんでて、わいだけ真ちゃんの誕生日パーティお呼ばれせんかったし。しゃーなし駆けつけたったんやろ」
相変わらず人気のない店内で見たくもない天パを見つけ、思いっきり顔をしかめてしまった。
「呼んでねぇんだから来んなよ」
「つれないこといいなやー。わいかて洸ちゃんや真ちゃんに会うてみたいんや」
夜須は気安く肩を竦め、無駄に上品な仕草でコーヒーを啜っている。
「ってか、そのクソ目立つ格好はなんなんだよ」
今日の夜須は以前見た白いスーツではなく、高級そうな燕尾服に身を包んでいた。首にはホワイトタイ、胸に純白のポケットチーフ。見事な正装だ。
「パティーに相応しいドレスコードやろ」
「一体どこのパーティーに参加する予定なんだてめぇは」
どこぞの王族じみた豪奢な雰囲気は、悲しいことに夜須の能天気面と天パのせいで台無し感があった。
「お前絶対わざと悪ノリしてんだろ」
「これのどこが悪いんや」
本気でムッとした表情をみるに素らしい。呆れつつ嘆息していると、カウンターの奥から日阪が顔を出した。
「あ、巽君。やっと来たね」
巽を見ていつも通り朗らかな笑みを浮かべる。
「悪ぃ、ちょっと面倒くせぇ仕事だったんだ」
遅れたことを詫び、気の急くまま車に乗り込む。当然、夜須もついてきて後部座席に収まった。如才ない動きだ。
「マジで来る気なのかよ」
「なんや、わいが行ったら本気で迷惑なんか?」
「いや、まあ、いいけどよ」
若干傷ついたような顔をされると、それ以上文句も言えなかった。
「せやったら、はよ車出してぇなー。わいめっちゃ腹ペコやねん」
「お前、ちったあ遠慮しろよ」
「洸ちゃんの手料理楽しみやなー」
「千影くん、結局それが目当てなんだね」
「そらそうや。めちゃくちゃ美味いっちゅーて、たっちゃんが自慢してたんやで? 気にならんわけない」
うきうきしている夜須に、日阪は力なく苦笑するばかりだ。
「ったく……」
正直この変人を家族に会わせて大丈夫だろうかと不安になる。洸季も真志も初対面の相手にはかなり警戒心を抱くタイプだ。
それでも夜須は洸季の過去を知っているし、軽口にしても常に言葉を選ぶ慎重さを持っている。大事な場面においてそうそう無神経なことは言わないし、しない男だ。そこは信用に足る、はず。
そんなことを考えながら、急いで自宅へと向かう。
雨はまだ降り続いていた。
おかしいと思ったのは、玄関のチャイムを鳴らした直後だ。
いつもならすぐに洸季がドアを開けて出迎えてくれるのに、三回鳴らしても応答すらない。
「おらへんのとちゃう?」
「んなわけあるか。あいつは自分から外出なんてしねぇよ」
巽が誘えば別だが、洸季はなかなか外には出たがらない。夜須の言葉を否定して鍵を開け――そもそも掛かっていないと気づいて眉をひそめた。その気配に日阪が気づいたらしく、こちらの顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「いや……」
なぜ、鍵が掛かっていないのだろう? 過剰なほど他人を臆してしまう洸季の性格からして、こんなミスは絶対にありえないのに。
ちりちりと不穏な予感を追い払いつつ、玄関を開ける。
家の中はもぬけの殻だった。
「洸季? 真志?」
リビングや寝室、風呂場やトイレまで一つ残らず扉を開けたが、二人はどこにもいない。
「料理は冷めてへん。少なくとも洸ちゃんはついさっきまで家におったはずやで」
冷静にリビングを見回し、テーブルに並べられた料理を見て夜須が断言した。対する巽は全身に冷や汗を搔き、意味もなく家中を歩き回る。
何度も一階と二階を往復し、ようやくあることに気づいた。
「真志の部屋にランドセルがねぇ」
「え、まだ帰っとらんちゅうことか? 七時過ぎてんねんで」
「じゃあ、もしかして洸季君は……」
「探しに行ったんだ」
この雨の中を。一人で。
自らの呟きに、ザアっと音を立てて血の気が引いていく。
真志が帰らない。洸季もいない。
その事実に立ちすくみ、身体が震え出した。
自分がいない間に、二人に何かあったのだろうか。こんな時間まで真志が帰って来ないなんて、これまで一度もなかった。
不測の事態に思考が凍りつき、呼吸が乱れた。震える手でなんとか携帯を確かめてみたが、着信履歴は日阪の二件のみだ。
(ってかそもそも、あいつら俺の携帯番号知らねぇんじゃ……)
そう思い至り、絶望的な気分になった。もし二人の身になにかあったら――。
俺は生きていけない。
「クソッ!」
発作的に携帯を床に叩きつけた。頭の中はほとんどパニックに陥っている。
真志は今どこにいる? 洸季と一緒にいてくれるならいい。けれど、どちらも一人きりで、全く別の場所にいるとしたら……。
どう探せばいいのだ。
「どうすりゃいいんだよ……」
絞り出した声が震え、心臓が早鐘を打った。全て自分のせいだ。
自分がもっと早くに帰っていればよかったのだ。そうすれば少なくとも、洸季がたった一人で真志を探しに行くことはなかった。
その真志が帰宅していないのも、きっと自分に原因があるのだろう。
向き合いたいと思いながらも、未だなに一つ真志の気持ちを尋ねたことがない。どう接すれば傷つけずに済むのか、傷つけたことに自分が傷つかずに済むのか、そればかりを考えて――。
「巽君、落ち着いて」
日阪に肩を叩かれ、ハッと顔を上げた。
「君が自分を責めたって仕方がないよ」
「せやで。とにかく今は二人の安全確認が先やろ?」
努めて平静でいてくれる二人の言葉に、巽もようやく気持ちを落ち着ける。そうだ、今は取り乱している場合ではない。
「真志君の方はとりあえず学校に問い合わせた方が――」
「ちょい待ち。たっちゃん、電話や」
日阪の言葉を遮る形で、電話のベルが鳴り響いた。携帯ではなく、廊下にある固定電話だ。
不安と期待を半々に抱きつつ受話器を取る。
「もしもし?」
『あ、どうもお世話になっておりますー。わたくし、練馬交番の者ですが、こちら瀬田巽さんのお電話でお間違いないでしょうか?』
「はい、そうですが……」
『ご本人様でいらっしゃいますか?』
「はい」
交番、という単語に一瞬動揺したが、続く言葉に不安が消し飛ぶ。
『ただいまこちらで、瀬田真志くんを保護しています。電車を乗り間違えて迷子になったそうで――』
「真志は無事なんですかっ? 怪我は?」
『大丈夫ですよー。お父さんが迎えに来るのを、いい子で待っててくれてます』
「そうですか……」
足元から脱力し、受話器を握り締めたまま床に座り込んでしまった。
心の底から安堵の溜め息が漏れる。すぐに迎えに行くと答え、電話を切った。
「大丈夫かいな?」
「ああ……警察からだった。真志は無事だ」
夜須に引っ張り起こしてもらいながらそう答えると、夜須はほっとしたように頷く。
「よかった……」
リビングから心配そうな顔を覗かせていた日阪も安堵の表情を浮かべて微笑む。
「あとは洸ちゃんやな。どこ行ってもうたんやろ」
真志の無事が分かった今、一番の懸念は洸季の安否だ。
外はまだ雨が続いている。こんな日に洸季が一人で出かければ、嫌でも昔の出来事を思い出してしまうだろう。
(無事でいてくれ……頼むから、どっか行くんじゃねぇ)
祈るような気持ちだった。真志と洸季。二人が揃っていなければ、自分の人生に意味などない。
「真志君を探すとすれば、まず学校に向かうんじゃないかな」
「せやろな。わいらが洸ちゃん探しに行くで、たっちゃんは早う真ちゃん迎えに行き」
「……悪い。頼む」
洸季を探しに行きたい気持ちは本当だが、自分は真志を迎えに行かなければならないのだ。今も一人ぼっちでいる、大切な息子を。
快く協力を申し出てくれる友人たちに頭を下げてから、巽は自宅を飛び出した。
どちらも失いたくない。巽はいつでも、ただそれだけを願っている。
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