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父と息子
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駅前は豪雨の影響か、送迎の車で大混雑していた。路上駐車を承知で車を降り、巽は気の急くままに交番へと駆けつける。
手押しタイプのガラスドアを押し開くと、すぐ見える位置に真志がいた。壁に沿って置かれたボロボロのソファに座ったまま、所在なさげに足をぶらつかせている。
無事な姿を見た瞬間、思いっきり脱力した。人心地つくというのは、こういう心境を指すのだろう。
「おい、真志」
無事だと分かって安堵する胸中に怒りが混ざり、低い唸り声が出た。ビクッと肩を震わせ、真志が顔を上げる。
こちらの顔色を窺うような視線を向けられ、カッと血がのぼった。
「なにやってんだお前はッ!」
ここに向かう道中、ずっと張り詰めていた緊張から解放された反動だろう。自分でも驚くほどの怒声が飛び出す。
「どんだけ心配したと思ってんだっ!」
かけられた心配の分だけ、腹が立つ。こいつは絶対に、自分がしでかした事の重大さを分かっていないのだ。
その証拠に、怯えたように縮こまりながらもどこか不満そうな顔をしている。
「まあまあ、お父さん。真志君もほら、ちゃんと反省してますから、そんなに怒らないであげてください。ね?」
とりなすように割り入ってくる警官の言葉すら鬱陶しかった。
奥歯を噛み締めることでかろうじて舌打ちを堪える。侮辱罪などといちゃもんをつけられでもしたらたまったもんじゃない。
元来、人の揚げ足を取るためだけに足元ばかり見ているような警察の人間は大嫌いなのだ。ひどく言いがかりじみた偏見だが、こんなときでもなければ絶対に関わりたくない。
「とりあえず、こちらへどうぞ。真志君はもう少しだけ待っていてね」
それでも、こうして真志が無事だったのはある意味警察のおかげなのだから、今だけは敵愾心をわきに押しのけて必要な手続きを済ませることにした。
「帰りの電車を乗り間違えてしまったようですね」
真志が自宅とは正反対のこの場所に来た経緯は、警官の口から明かされた。
学校が終わったあと、真志は家に帰らず駅に向かった。電車に乗ったはいいが、乗り換える駅を間違えて迷子になったらしい。
「駅前をうろうろしているところを、通りがかった女性が保護しまして。ここまで連れてきてくれたんですよ」
「そうですか……」
その女性が善人でよかったと、心底思う。最悪の場合、そのまま連れ去られていてもおかしくなかったのだから。
このご時勢、どんな人間も頭から信用するのは危険だ。性別、年齢いかんに関わらず、とんでもなく恐ろしい人間もいる。
それにしても、どうして――。
さりげなく真志を振り向き、眉をひそめた。真志は俯き加減に、意味もなく両手を見つめている。
どうして、今日に限って、こんな行動を取ったのだろうか。今日は真志の誕生日で、夜にはお祝いをするから早く帰るようにと、そう洸季が言っていたはずなのに――。
「あ、こちらが真志君の持ち物ですね」
警官が持ってきたものを見て、巽は瞠目した。
見慣れたランドセルに、見慣れた傘。視線はそれらを素通りして別のものに釘付けになる。
――花束。
小ぶりだが、花屋で買ったものだろう。オレンジや黄色をメインにした色鮮やかな花束だ。
見慣れないはずなのに、妙な既視感があった。どこかで、見たことがある。
どこで?
自問した瞬間、唐突に記憶の蓋が開いた。
『じゃーん! 見てこれ』
懐かしい声と笑顔を思い出す。
『これ、全部あたしが好きな花でできてんの。タイトルは〝プチ紅葉〟』
いつだったか彼女が自慢していた、秋のブーケだ。
『巽にあげる。どーせ辛気くさい暗い部屋に住んでんでしょ? ちょっとは華を添えなって。腐るよ?』
ずっと忘れていた。いや、違う。思い出すのがつらかったから、意図的に記憶の深いところへ押し退けて蓋をしていたのだ。
彼女が好きな花のことも、交わした言葉も、その暖かな笑顔のことさえも。
忘れることで、全てなかったことにしようとしてきた。そんなことができるはずないのに。
(ああ……そうか)
それを見て、理解した。なぜ今日に限って、真志がたった一人でこんな場所にまで来たのか。
抉られたように胸が痛んだ。それはきっと、当然の罰だ。
「ではこれで大丈夫です。お家でもちゃんとご指導してあげてくださいね」
「どうも。お世話になりました」
引き取り確認の書類にサインしたあと、警官に見送られながら真志とともに車に向かった。
真志は終始無言のまま俯いて、目すら合わせようとしない。
「お前な……勝手なことしてんじゃねぇよ」
叱責の声は自分でもあきれるほど弱々しい。だが先ほどまでの怒りはとっくに枯渇してしまっていた。今はただただ疲れている。
巽がランドセルと傘を後部座席に放り込んでいると、真志は不機嫌そうに黙り込んだまま助手席に乗り込んだ。両手にはしっかりと例の花束を握り締めている。さも大切そうに――。
直視するのがつらかった。閉塞的な沈黙が続く車内は圧迫感に満ちている。
「なあ真志……」
だいぶ軽めになった雨の中を運転しながら、静寂に耐えかねて重い口を開いた。
「お前、母ちゃんに会いたかったのか?」
自分でも冷淡だと思うような、抑揚のない声が出る。そうでもしないと、とても彼女の話題など口にできないのだ。
いっそ、禁句と言ってもいいだろう。真志に母親の話をするのは。
未だにバックリ抉られたまま、決して塞がることのない傷痕が、自分たちの間には存在している。
肩を強張らせてきつく花束を握り締める真志は、こちらを激しく拒絶しているように見えた。
触れるな。話しかけるな。お前にその権利はないのだから、と。徹底した沈黙を続けることでそう示している。
けれど、よく見れば。
俯いたままのその横顔は、痛々しく歪んでいるのだ。嗚咽を飲み込もうとして食いしばった歯の奥から、小さな悲鳴が漏れ聞こえてくるような気がした。
きっと、真志は母親に会いに行こうとしたのだ。彼女が好きだった花束を持って、彼女が眠る場所に。
たった一人で。
真志がどんな気持ちでその行動に出たのか、それを想像すると堪らなくなった。
「ごめんな……真志」
俺は〝いい父親〟になんてなれない。きっと、一生かかっても。
「お前の気持ちなんて、全然分かってやれてなかった」
真志から目を背け、独り言のように呟く。それが精一杯だった。
「こんな親父でごめんな……最悪だよな」
長いこと自分や母親を放置して無責任に生きてきたような男が、父親だなんて。そんな男と暮らさなければならなくなったのも。
真志からすれば最悪に違いない。
沈鬱な車内に、小さな啜り泣きがこだまする。なぜ泣いているのか、何が悲しいのか、問い質すことすらできない。
分かり合いたいと思うのに、歩み寄りたいと思うのに、どうして自分はなにもできずにいるのだろう。
「ちがう……」
蚊の鳴くような鼻声がポツリと響いた。空耳だろうと思ったその言葉は、もう一度強く繰り返される。
「違うよ……」
「なにがだ?」
ちらりと真志に横目を向けながら、辛抱強く問い返した。
真志は悲痛な嗚咽を洩らして肩を震わせている。
「む、迎えに、来て……くれた、」
そんな言葉が切れ切れに紡がれた。混乱しているのか、質問の答えにはなっていなかったが、巽はふっと肩の力を抜く。
「当たり前だろ。……警察から呼び出されたときゃ、心臓止まるかと思ったぞ」
「嬉しかった……っ」
掠れた言葉に瞠目し、信じられないような気持ちで真志を見つめる。
なに一つ、聞き逃してはいけない。なぜか、そんな気がした。
真志は今、とても大切なことを伝えようとしている。
「心配、してくれたの、ほんとは、嬉しかったんだ、よ……っ。怒ってくれたのも、初、めて、だったし……」
嗚咽に揺らいだ声で、たどたどしく真志は言った。
そう言われて、今さらのように思い至る。自分は今まで一度も、真志に怒鳴ったことなどなかったのだと。
そんな資格はないと、そう思っていたから。
けれど今回ばかりは、怒鳴らずにはいられなかった。本当に、生きた心地がしなかったのだ。
それを、〝嬉しかった〟なんて、言われるとは思わなかったけれど。
真志がそう感じていたのだと、切羽詰った声音で伝えてくる。
「最悪、なんて、思ってない……ぜったい、思わない、から――」
握り締めた花束に雫を落としながら、真志は懸命に声を絞り出す。
袖で涙を拭う真志を見つめ、続く言葉に息が止まった。
「だから、〝父ちゃん〟って呼んでも、怒んないで……?」
「っ……」
愕然する。
本当に、自分は馬鹿だ。この期に及んでもなお、真志の気持ちなんて微塵も分かっていなかったのだから。
いつだったか、洸季に言われたことがある。自分の卑屈な態度が真志を傷つけているのだと。
ずっと、自分が許せなかった。
生まれてから一度も会わず、見捨てたも同然に生きていたのに、今さらどの面を下げて父親なんて言えるだろう。
こんな自分が父親なんてありえない。真志だって認めるわけがない。いつでも、頭の片隅でそう思いながら真志と接してきた。
けれど、そうやって巽が自分自身を卑屈に揶揄するたびに、知らず真志の思慕を裏切り続けていたのだ。
だから真志は、自分を〝父〟と呼べなかった。そう呼んだ瞬間に、拒絶されるような恐れすら抱いていたのだろう。
(ほんとに、俺はどうしようもねぇな……)
本気で自分を殴り飛ばしたくなった。洸季の忠告がまるで身に染みていなかったのだから。
「――怒るわけねぇだろ」
わざと乱暴に真志の頭を撫でた。ふがいない自分を誤魔化そうと、あえて軽口を叩く。
「いつまで〝おっさん〟呼ばわりする気だって思ってたくれぇだよ」
真志はぐっと口元を引き結んでから、ゆっくりとこちらに顔を向ける。窺うような視線は、まだほんの僅かに他人行儀だが。
ほんのりと穏やかになった瞳に、今までなかった〝なにか〟を見つけて微笑み返す。
(ああ……もうやめだ)
〝こんな俺が〟などと言って逃げるのは。
こんな俺でも。
この先、なにがあっても真志を守っていくのだ。その誓いだけは反故にしない。
「あの、父ちゃん……」
「なんだ?」
ちらりと目を向けると、真志は一度握り締めていた花束に視線を落とし、そっとそれ差し出してきた。
「これ……父ちゃんに、あげる」
巽は唖然と目を見開いた。
「だってお前、それ、母ちゃんにやるんじゃねぇのか」
「違うよ」
真志は頑なに首を振った。まったく意図が読めない。
「今日、父ちゃんも誕生日だろ。だから、これ、プレゼント……」
まったく予想だにしていなかった言葉が返ってきた。
束の間、絶句する。
「お前……それ、知ってたのか」
「うん。母ちゃんが言ってた。おれと父ちゃんはおんなじ誕生日なんだって」
そうだ。一年は365日もあるのに、自分と真志は同じ日に生まれた。
真志を引き取った時、初めてその事実を知ったのだ。
あのとき自分はこう思わなかっただろうか。
出会うべくして出会ったのだと。そして、そう思う自分がひどく身勝手に思え、すぐさまその思考は消し去った。
けれど今は。
「誕生日、おめでとう」
照れたような、淡い笑顔で告げられる言葉がこうも嬉しい。
「ああ、ありがとな。お前も、誕生日おめでとう」
素直な気持ちでそう告げると、真志が嬉しそうに破顔する。くすぐったくなるような笑顔だった。
「あ、電話」
ダッシュボードに投げたままだった携帯が鳴ると、真志が手を伸ばしてそれを取ってくれた。
着信が日阪からだと分かって、慌てながら通話ボタンを押す。運転中の通話は罰金刑だが、そんなことどうでもいい。
『もしもし、巽君?』
「洸季は見つかったかっ?」
開口一番、急き込むように問いかけた。真志が驚いたような視線を向けてくる。
『うん、大丈夫。見つかったよ』
「そうか……」
よかった。洸季がどこか遠くに行ってしまわなくて、本当によかった。
「あいつ、平気か?」
『うん、だいぶ落ち着いたよ。……さっきまでずぶ濡れのまま川原にいたから、今はお風呂入ってる』
その説明で、全てを察した。洸季は真っ先に、川原へ向かったのだと。そこで過去の悪夢を再び呼び覚ましてしまったのだろうということも、どんな気持ちで真志の無事を祈ってくれていたのかということも、歯切れの悪い日阪の言葉から痛いほど伝わってきた。
『真志君は?』
「無事だ。もうすぐ家に着くから、洸季にもそう伝えてくれるか」
『分かった、あ、』
『もしもーし、たっちゃんかいな?』
途中で電話が横取りされたのだろう、別段聞きたくもないような陽気な声が割り込んだ。
「なんだよ。今運転中だから切るぞ」
『つれないなー、洸ちゃん見っけたのわいなのに』
「……そりゃ、あんがとよ。助かった」
『分かったらええねん』
心底感謝しかけたが、ふんぞり返ったような声音を耳にすると若干感謝の気持ちも薄れる。
『はよ帰って来てやー。わい、もう腹ペコで動けんで』
「いっそお前が帰れ」
冗談まじりに吐き捨てて通話を切る。自宅までは、あと五分程度の距離だ。
早く帰りたいときに限って信号に引っかかるのは、世の不条理だと思うが。
焦れ焦れしながらブレーキを踏みつける。
「……洸季さん、どうかしたの?」
不安そうな真志の言葉に、思わず嘆息する。
「どうもこうも、こんな時間までお前が帰らねぇから、一人でお前を捜しに行っちまってたんだよ」
それを明かすと、真志がサッと青褪めた。
「まあ、もう見つかったけどな。……帰ったらちゃんと謝れよ」
「うん……ごめんなさい」
真志は悄然と肩を落として俯く。
「ほんとにすぐ帰るつもりだったんだ。でも、これ買って帰ろうとしたら、電車間違えて……」
ポツポツと呟いて、真志は花束を握り締めた。てっきり母親のために買ったのだと思っていたそれは、巽のためのプレゼントだ。
「ごめんなさい……」
「いや、いい。俺には謝るな。……そのプレゼントは嬉しいんだ。お前からもらえるなんて、驚いたしな」
真志は自分のために、その花束を買いに行ってくれたのだ。自宅の近くには花屋がないから、わざわざ内緒で電車に乗って――。
子供らしい無鉄砲さの中には、ちょっとした冒険心があったのかもしれない。最近真志がハマっているという、あの冒険小説の影響がないとも言い切れないだろう。
つまり、今回の出来事の元凶は自分なのだ。
なんてこったと思いながら溜め息を飲み込む。
サプライズのプレゼントは、感動するほど嬉しい。真志が自ら考えて、父親である自分のために行動してくれたことも。
結果がよくなかったからと言って、咎めるのは大間違いだろう。
「だけど、これだけは言っとくぞ。二度と黙ってどっかに行くんじゃねぇ。出掛けるならちゃんとそう言ってから行け。――いいな?」
「うん……」
落ち込んだ背中をやや強く叩き、苦笑した。
「帰ったら洸季に謝ってやれ」
真志は小さく頷く。
いつの間にか、雨はすっかり上がっていた。それに気づいたと同時に、見慣れた家の明かりが目に入る。
早く洸季の顔が見たいと、強くそう思った。
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