アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
新たな厄介ごと
-
いつの時代も、どの国でも〝天才〟と呼ばれる人間は存在する。
「まいったな……」
リュカの小説を読み終え、息を飲むような結末に思わず天井を振り仰いだ。
これを翻訳するのは、もしかしたら自分の手には余るかもしれない――そんなことを思ったのは訳者になって初めてのことだ。
巽は深く息をつき、ハードな表紙を撫でる。
『RÊVE IRRÉALISABLE』――日本語に訳すなら、〝叶わぬ夢〟だろうか。
舞台は十八世紀のフランス。首都パリのスラム街で、深夜0時に子供の断末魔が響き渡った。警官が駆けつけると、そこにあったのは子供の抜け殻だけ。臓腑どころか骨すらない、ただの生皮だ。
猟奇的な殺人事件は夜毎、連続して起きた。被害者は皆孤児であり、目撃証言も皆無だった。
警察に属する主人公は早々に事件の究明に行き詰まり、そこである人物が登場する。
「ストーリー自体は単純なんだけどな……」
そう呟いたところで、自分には到底描くことのできないものだ。これほど緻密な物語は、逆立ちしたって思いつかない。
新たに登場した男――ロミリオは私立探偵を営む青年だ。卓越した推理力と洞察力のほかに、彼にはある秘密があった。彼は一目で相手の嘘を見抜いてしまう眼を持っている。その特異な力で、ロミリオはさっそく事件の犯人を見つけ出してしまうが……。
このミステリの鍵は、彼の特殊な力にあると言っていい。なにを持って〝嘘〟とするのか。その〝嘘〟は誰の視点から見た物語なのか。
全ての伏線がラスト数ページで見事に回収され、自分が思い描いていた結末が木っ端微塵に打ち砕かれる。その圧倒的な筆力は感服と言うほかなかった。
タイトルのとおり、夢は叶わない。誰の夢も。殺された子供たち、主人公を含めた警察の人々、そして真犯人――ロミリオの夢も。
衝撃に次ぐ衝撃。一瞬たりとも気の抜けず、ページをめくる手は止まらなかった。
ミステリーとしての骨格を保ちながらも、どこか哲学的な結末を持ってくる辺り、さすがフランス文学界の天才と呼ばれるだけはある。この作品に含まれる強烈なアイロニーは、彼が真に伝えたいことをしっかりと言い表しているように思えた。
弱冠十九歳で、これを書くのか。いや、この小説がリュカにとってのデビュー作なのだ。つまり、実際は十四、五才で書いたことになる。
「あいつ、実はとんでもねぇ奴だったんだな」
低く唸り、数日前に見た顔を思い出す。悲しいことに能天気な顔しか浮かばないのだが。一見なにも考えていなさそうに見えて、その内面は非常に複雑な作りをしているのかもしれない。
彼には一体、この世界がどんなふうに見えているのだろうか。
「あーあ……ったく、ちったぁ真面目に答えてくれりゃよかったのによ」
デスクに本を放り出し、椅子の背にもたれて大きく伸びをする。
もっとちゃんと翻訳の方針を固めておけばよかった。先日の打ち合わせはまさに千載一遇のチャンスだったはずなのに。どうでもいい観光案内などしている場合ではなかったのだ。
天才的な文学を凡庸に落とさないために、どう翻訳するべきか。偏頭痛を堪えて唸っていると、ドアがノックされた。
「父ちゃん」
「おう、真志か。どうした?」
ひょっこり顔を覗かせた息子に微笑みかけると、その後ろから洸季も顔を出す。
「外、すごくいい天気だから出かけたいんだって。お弁当も作ったよ」
「自転車、練習付き合ってくれんだろ?」
「ああ、そうだったな」
そう言えばそんな約束をしていたのだった。真志は期待に満ちた顔でヘルメットを抱きかかえている。窓の外は確かに快晴だ。
いくら仕事があるからと言っても、こんな日にまで家に篭る道理はない。せっかくの誘いを断る理由も。
「そんなら、ちょっと遠出して森林公園まで行くか? あそこなら自転車も入れるしな」
「マジっ!? おれ、まだ行ったことない」
「鳩が山ほどいんぞ」
「え……オレ、鳩苦手なんだけど……」
ほんの少し顔を歪めた洸季に内心驚きつつ苦笑する。どうやら一緒に来てくれるらしい。
最近の洸季は、以前ほど外出を拒まなくなった。買い物やゴミ出しも積極的にやってくれるが、正直申し訳ない気持ちもある。
(あんまり無理はして欲しくねぇんだけどな)
そんな過分に心配する必要はないのかもしれないが。洸季はもう、出会った頃の洸季ではないのだ。
「おれ、先行って自転車準備してくる!」
「まだ道路に出んじゃねぇぞ」
「分かってるよ」
はしゃぐ真志に念押しすると、満面の笑顔が返ってきた。あの笑顔が見れるようになるまで、本当に長かったと思う。
「よかったね」
真志と自分の関係が変化したことに、洸季は気づいていたのだろう。
「ああ。……お前のおかげだ」
「オレはなにもしてないよ」
緩慢に首を振って微笑む洸季をそっと抱き寄せ、甘く見つめ合ってキスをした。
なにもしていない、なんて。そんなことはない。洸季がいなければ、この家の中を漂う空気は未だに殺伐としたままだったはずだ。真志が変わったのは洸季のおかげで、自分が変われたのも洸季のおかげで、なのに。
(ちったぁ素直に認めろってんだ)
洸季だけがそれを認めようとしないのだ。謙虚さや謙遜は、度を過ぎれば単なる自己否定と変わらない。だから心配になる。洸季は未だに、自分自身が嫌いなままなのではないかと。
「ん……、巽さん、真志君が待ってるってば」
「わぁったよ。……この続きは今夜だな?」
「っ……!」
か弱い力で胸板を押し退けられ、悔し紛れに囁く。途端、洸季は耳まで真っ赤になるのだから、どうにも可愛くて仕方がなかった。
少し風が強い。十一月も目前に迫ったこの季節は、時折思い出したように北風が吹きつけてくる。
「あいつら体力あるよな……」
巽は森林公園のベンチでのんびりしながら、少し遠くの二人を眺めていた。
「真志君、待ってってば!」
「洸季さんが遅いんだよー!」
「前見て走って! 危ないから!」
真志は元からかなり運動神経がいいらしい。二時間も練習しないうちに、もうすっかり自転車を乗りこなしている。追いすがる洸季は遠目にも疲労困憊していた。
八歳の子供に体力面で勝てる人間は巽家に存在しないらしい。
悲しいことに洸季より年を食っている自分は早々に体力の限界を迎え、こうして一人遠巻きに眺める他なかった。元々インドアな生活が長いのと煙草のせいで、十メートルも走れば肺が悲鳴を上げるのだ。
自転車との鬼ごっこなんてそれ自体が鬼の苦行としか思えない。しかも、満腹になるまで昼飯を食べたあとでは。
なんとなく眠気さえ覚えつつ、所在なげにベンチで身を震わせる。汗が冷えてきて余計に寒い。二度ほどくしゃみをしたとき、コートのポケットで携帯が振動した。
誰だと画面を確認し、安国出版の編集部からだと気づいて通話ボタンを押す。
『あ、お世話になっておりますー。わたくし安国出版の斉藤でございますー』
「ああ、どうも」
奇妙に間延びした声に七三分け眼鏡が浮かんだ。どうせ電話の向こうで意味もなくペコペコしているのだろう。
『あのー、大変申し訳ございませんが、今お時間大丈夫でしょうか』
「……まあ、多少は」
絶賛行楽中の身としては今すぐ叩き切りたいのだが、そんなことをして今後の仕事に差し障るのは馬鹿らしい。せいぜい声のニュアンスに「手短に話せ」と含ませながら当たり障りない返答をする。
『あ、恐れ入りますー。では少し代わりますね』
「ん?」代わる?
思わず眉をひそめたのは、ものすごく嫌な予感がしたからだ。
誰に、と問い返す間もなく雑音が入り、電話が別の人物に代わった。
『ボンジュール?』
甘えるような、鼻にかかった甲高い声を耳にして、思わず瞑目する。やっぱりお前か。
『……なんの用だ』
挨拶すら返す気力もなくなり、低いフランス語で問い詰めた。電話の相手はリュカ・ベナールだ。
『ねぇタツミ、ちょっと助けてくれない?』
『あ? いきなりなんだってんだよ』
『実はさ……』
俄かに声が弱くなったかと思うと、リュカはあからさまに困窮した口調で話し出す。
『はあっ? 財布スられたっ!?』
とんでもない告白に声が裏返った。
『本当にか?』
『うん……クレジットカードもパスポートも、ついでに帰りの旅券も全部入ってたんだけど』
『おま、それ……馬鹿じゃねぇのか』
旅先においてそんな大事なものを一つにまとめておく神経が知れない。不測の事態なんて、いつ起こるかわからないからこそ用心すべきだろうに。
自分が唐突に大声を出したことと、その言葉が耳慣れなかったことに驚いたのか、洸季と真志が不思議そうな顔で近づいてくる。
『警察には行ったのか』
『ううん。だってボク、日本語全然ダメだもん。だからタツミに助けて欲しいんだよ』
そういうことかと納得しかけて、いやちょっと待てと思い止まった。いくらなんでも人を便利に使おうとしすぎだ。
『そんなことなら通訳でも雇えばいいだろが』
『だからー、ボク今お金ないんだってばー』
いっそ逆切れのような反論だった。それだけ切羽詰っているのだと思うと同情が湧く。
『ぜんぜん持ってねぇのか? 一円も?』
『ない。そもそも全部カード一枚で済ませてたんだ』
ああそうかい。まったくもって大馬鹿野郎だ。
額を押さえて嘆息し、ちらりと視線を上げた。二人は興味津々に自分を見ている。
「……ちょっと面倒なことになっちまったんだ」
通話口を押さえて手短に説明した。今自分が請け負っている仕事の関係者だということ、その人物が困っているということ、そして彼はフランス人で日本語が通じないため自分が助けに行く必要があるらしいということを。
「父ちゃん、フランス語話せんのかよ」
「まあな。昔二年くれぇ住んでたんだよ」
「フランスにっ!? すっげぇ……」
「え、それ初耳……」
変なところで感心してくれる二人に苦笑し、同時に謝った。せっかく遊びに来たのに、ここで抜けなければならないのが心苦しい。
「そんなのいいから行けって。そいつ、父ちゃんしか頼る人いないんだろ」
「うん。オレと真志君だけで帰れるから大丈夫だよ。道は覚えてるし」
「そうか……ごめんな」
自分よりずっと寛大な二人に背中を押され、通話に戻る。
『ねぇ、タツミ? 聞いてる?』
『ああ。で、お前今どこにいんだ? 編集部か?』
『そう。なんとか出版の狭いオフィスに閉じ込められてるんだよ』
そういう言い草はないだろうに。どちらかというとお前は保護されているんだと言いたくなった。
見た目はそこそこ大人とは言え、なんせ年齢はまだ十九歳。日本では二十歳未満は皆子供だ。
『今から行ってやっから、大人しく待ってろ』
『あ、やっぱり来てくれるんだ。さすがボクのタツミだね』
『お前のもんになったつもりはねぇよ』
毒づいて一方的に通話を終え、しぶしぶ立ち上がった。まったく面倒なことこの上ない。また子守の延長戦をさせられるのかと思うとうんざりだ。
けれど相手は仕事上、一応は大事な顧客と言えるのだし、ここで放り出すともっと厄介なことになるだろう。
「気をつけてね、巽さん」
「おう。お前らも気をつけて帰ってくれよ」
二人の頭を両手で撫で、それぞれ逆の道へ歩き出した。ゆっくりと日が傾き出している。
リュカを迎えに行ったのちに、さらなる厄介ごとが待ち構えているとは思っても見なかった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
16 / 32