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熾烈な心
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(ほんとに邪魔だなぁ……)
チラチラと視界に映る男が、心底気に入らない。
リュカは無意識にその背中を睨みつけ、不意にその凄絶な過去を垣間見て吐き気を覚えた。
何度も、視えた。死を望む彼の心が。
(だったら、早く消えてよ)
タツミの傍から、消えて欲しい。
『リュカ、ここの台詞ちょっと変えていいか? 日本語だと、こういう表現は使えねぇんだ』
ずっと昔に自分が書いた物語を、タツミは真剣に翻訳しようとしてくれている。
『うん、いいよ。できるだけ分かりやすくして欲しいし』
リュカは満足しながら頷いた。今、タツミの視界にあるのは自分だけだ。彼の意識は自分にだけ向いている。
『読者ターゲットは絞らないで欲しいんだ。子供でも分かるように翻訳してよ』
さりげなく寄り添っても、タツミは自分を突き放そうとはしなかった。
『子供でも、か……そりゃちょっと難しいぞ』
『なんで? 内容が暗すぎるから?』
難色を示したタツミに、無邪気を装って小首を傾げる。分かっていた。この物語は、子供が読んで平気なものではない。
きっと何かしらの影響を受けるだろう。人の心が持つ醜い悪意や、その残虐性に触れれば、必ず感化される。そして知らず知らずその心が蝕まれていくはずだ。
それでいい。この世界は、ただただ残酷なのだと思い知って欲しい。この物語を読んだ、全ての人間に。
密かな嗜虐心は、ずっと幼い頃からこの胸にあったものだ。自分が受けた暴力を、精神的な苦痛を、他の誰かに思いっきりぶつけたくて、この物語を書いた記憶がある。
『まあ、なんでもいいよ。タツミの自由にして?』
それでも、こんな醜い感情をタツミにだけは知られたくない。この世界でたった一人、自分を守ってくれそうな相手には。
朗らかに笑って丸投げすると、タツミは呆れたように溜め息をつく。
『お前、ちったぁ真面目に考えてんのか?』
『全然。だって、タツミが翻訳してくれたその本、ボクは読めないんだもん』
それが、一番悔しかった。せっかくタツミが自分の〝心〟を翻訳してくれたとしても、その文章をまったく理解できないなんて。
せめて日本語なんて複雑な言語じゃなければ、タツミの言葉で綴られる自分の〝心〟を、ちゃんと理解できたかもしれないのに。
カタカタと微かな物音を耳にして、タツミがふとそちらを向く。あの男がキッチンの棚を動かして、懸命に床を磨いていた。
(別に汚れてないじゃん)
彼は床に這いつくばり、執拗な動きで汚れてもいない床を磨いている。毎日のことだが、本当に気色悪くて仕方ない。
『ねぇタツミ』
タツミの顔を覗き込んで、視線を強引に引き戻した。この優しい瞳があの男を見るたび不安に揺れるのは、ただただ不愉快だ。
あの男は、いつかタツミを不幸にする。出会いからしてそうだ。
タツミが彼を助けるために、踏み切りに飛び込んだのは知っている。一歩間違えばタツミの命すら失われていただろう、その過去を。
タツミはどうして、あの男を助けようとしたのか。それは分からない。自分が視るのは、ほとんど断片的な光景でしかないから。
だけど、これだけは確信している。あの男はタツミに相応しくないと。
『なんだよ。どうした?』
呼びかけたまま沈黙する自分に、タツミは穏やかな苦笑を向けていた。
『今日の夕飯はなにがいい?』
『別になんでもいいっつってんだろ』
こんなに温かな瞳で自分を見てくれるのは、タツミだけだ。自分のこの力を知ってなお、タツミは優しい。
自分を殴ったあとで、それを謝ってくれる人なんていなかった。〝お前は悪くない〟なんて、そんな言葉をかけてくれる人も。
(やっぱり、タツミはボクの運命の人だ)
出会った瞬間から、分かっていた。見ず知らずの男を、自分の命すら省みずに助けてしまうようなタツミなら、自分のこともきっと助けてくれるだろうと。
あの男さえ、ここにいなければ。タツミは自分を愛してくれるだろうか。
きっと、愛してくれるだろう。
(ねぇ早く消えてよ、ヒロキ)
ここに必要ない、その男の名前を呼んで嘲笑う。
タツミを不安にさせることしかできないような奴には、ここにいる資格なんてないのだ。
(君はタツミと出会うはずじゃなかったんだから)
本当ならとっくに死んでいたくせに。当然の顔をしてタツミを独占しないで欲しい。
タツミの隣にいていいのは自分だ。
どうにかして、あの男を追い出さなければ。リュカは胸中で密かに企む。
あんな脆い心を壊すのは、とても単純だと分かっていた。
かつての自分と、あの男はひどく似ているから。
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