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守り手
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俯いたリュカがとぼとぼ後ろをついてくる。ガラガラとキャリーバッグを引きずる手が小さく震えているのを、夜須はとっくに見抜いていた。
(なんや、ずっと静かやな……)
パスポートとクレジットカードが無事に再発行されてからも、ホテル代がもったいない、などという口実をつけてリュカを自分の元に引き止めた。
なんとなく手放したら危ういと分かっていたのだ。リュカを一人にしてはいけないと。
それから実に十日ほど一緒に過ごしてきたが、これほど物静かなリュカは初めて見る。
『えらい人が多いなぁ。はぐれたらアカンわ』
そう軽く言って手を握っても、反抗はまったくなかった。
冷たい指先から、とリュカの内心がひしひしと伝わってくる。〝帰りたくない〟と。
今日がリュカの帰国日だ。成田空港の国際ターミナルまで連れてきたはいいが、さてどうしたものか。
ちらりと腕時計を確かめた。午後一時――出立の便は二時半発のエールフランスだから、まだ少し時間がある。
『リュカ、昼飯食べ行こか? 最後に美味い日本食でも食べて元気だしぃ』
明るく投げ掛けた言葉にも無反応では、ますます目が離せなかった。
もうそんな暗い顔をする必要はないと言ってやろう。そう決心して口を開きかけたとき、
『リュカっ』
自分たちの背後から大きな声が聞こえ、思わず足を止める。振り返って瞠目した。
(え、なんでや)
小走りでこちらに駆け寄ってくる人物に、本気で目を疑ってしまう。どうして、ここに――。
「あ、夜須さん。お久しぶりです」
洸季がいるのか。
困惑する自分に、洸季は明るい笑みを浮かべながら、律儀な会釈をしてくる。
「久しゅう……」
あまりに驚いてまじまじ見つめていると、数秒遅れて巽が現れた。こちらは見送りに来ることを知っていたから別にまったく驚かない。
「ったく、急に走り出すんじゃねぇよ……っ」
たった数メートルしか走ってなさそうだが、巽は傍目にも明らかなほど消耗していた。膝頭に両手をついた姿勢で、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す。
「なんちゅーか、」
どうして洸季まで連れてきたのか分からないが、とりあえず口を開いた。
「たっちゃんも年やなぁ」
「っるせぇ。てめぇも同じだろが」
ジロリと睨みつけられたところで痛くもかゆくもない。
「わいは週三でジム通いしとるわ。たっちゃんもそろそろ腹回り気ぃつけた方がええで? ひーちゃんみたくなってまう――」
『なにしにきたの?』
唐突に、鋭利な声が響いた。ふと押し黙り、三人揃って同じ方を見る。
リュカは露骨に剣のある目つきでただ一人を睨みつけていた。
『君の顔なんて見たくもないんだよ。さっさと消えてくれない?』
滑らかな英語で、リュカが洸季に言い放つ。
『っていうか、なんでまだ生きてるの? ほんとに図々しいね』
一見、無邪気な笑顔で容赦のない暴言を吐くのはリュカの悪癖だ。
リュカの言葉にいち早く反応したのは巽だった。庇うように洸季の腕を引き、無言でリュカを睨みつける。その目は激昂寸前だ。
(あー……アカン)
夜須は内心額を押さえて嘆く。これはヤバイで。言い過ぎやリュカ。
凄まじくヒリヒリした怒気を感じ、どうにか取り繕おうと口を開いた。が――。
『生きてちゃ悪い?』
一触即発の空気を先に割ったのは、洸季だった。朗らかな笑みを浮かべて、真っ直ぐにリュカを見つめている。
『オレは君の許可なんてこれっぽっちも求めてないよ?』
洸季はそっと巽の腕を引き剥がし、自ら進んでリュカの目の前に立った。
まさか反論を受けるとは思わなかったのだろう。リュカはぎょっと目を見開いたまま声を失った。
気圧されたように口を噤んだリュカに微笑みかけ、『大体さ、』と洸季は続ける。
『君は口が悪すぎだよ。前にオレの発音を〝赤ちゃんみたいだ〟って馬鹿にしてたけど、そういう君こそもっと口の利き方に気をつけた方がいいよ? 思ったことをそのまま口にして許されるのは三歳までなんだから』
すらすらと、水が流れるような滑らかな発音で、洸季が言う。
『分かったかな、〝坊や〟?』
泰然とした微笑みに凄まじい迫力を感じたのだろう。リュカは目を白黒させて硬直し、ぽかんと洸季を見つめている。
天晴れな反撃に、夜須は思わず口笛を吹く。あのリュカを黙らせるなんて。
「大したもんやな?」
ちらりと横目で巽を窺うと、こちらも呆気に取られて瞠目している。
いやいや、と内心突っ込んだ。自覚ないんかいな。洸ちゃんを強くしたんは、たっちゃんやろ。
一目見た瞬間から、気づいていた。洸季が以前とはまるで別人のような雰囲気を纏っていることに。強くしなやかな〝自信〟を、その穏やかな瞳に湛えていることに。
ずっと俯くように自分自身を卑下してきたはずの洸季が、他人の悪意に反発したのだ。リュカに自分の命を軽んじられて怒ったのだ。
それが意味することは一つしかない。
洸季は今、自分が生きていることを誇っている。自分の心を、そこにある命を、洸季は大切に守っている。
それが誰のためかなんて、聞くまでもないだろう。
「さすがやな、たっちゃん」
賞賛を持って肘で小突くと、巽は小さく肩を揺らして笑った。心の底からほっとしたような笑顔だった。
「おい洸季、顔見たんだからもういいだろ。さっさと帰るぞ」
巽はさりげない仕草で洸季の肩を抱き寄せる。何だかんだ心配性は治っていないらしい。洸季が仕方なさそうに苦笑していた。
『じゃな、リュカ』
それから巽はリュカに目を向けた。ムッスリと黙り込むリュカの頭を多少乱暴に撫でる。
『翻訳が終わったら報せてやるから、待っとけ』
『……別に、いい。どうせ読めないし』
唇を尖らせてそっぽを向くリュカの手を、自分が引いた。
別れ際はあっさりしたものだ。
『またね、リュカ。また遊びにおいで。今度はちゃんと美味しい料理作ってあげるから』
洸季は一つ穏やかな笑顔を残し、巽と一緒に去っていく。ちらりと目が合って、夜須も微笑みを返した。
「またな洸ちゃんっ! たっちゃんもな!」
大きく声を張り上げれば、二人揃って手を振り返してくる。
しばらくあの二人とはお別れだが、そのうちまた会えるだろう。
ピッタリと歩調を合わせて歩く二人の後ろ姿を目にして、夜須は微笑んだ。
もう自分が洸季の居場所を突き止めなければならないような事態は、きっとこの先、永遠にないと。そう確信して。
彼らの歯車はもう、狂わない。
『なんだよあいつ……』
今さら洸季にやり込められたことが気に入らないらしい。
『急に強がっちゃってさ。バカじゃないの?』
リュカは遠ざかっていく二人の背中を恨めしげに見つめ、綺麗な顔をこれ以上ないほどに歪めて吐き捨てる。
強がっとるのは、リュカ、お前やろ。
夜須は胸中で密かに囁いた。
住む国も話す言葉も違うが、その心の中は透けるように明瞭で、単純だ。
(お前はただ、羨ましいだけやろ? 洸ちゃんが)
エメラルドグリーンの瞳を揺らがせるリュカは、傍目にも明らかに傷つき果てている。
守り手を得た洸季が羨ましくて仕方ないのだろう。どうして自分じゃないのだろうと、そんなことを考えているに違いない。
『リュカ、そないな顔しぃな』
あやすようにポンポンと頭を撫でた。
独りぼっちが寂しいなら、素直にそう口にすればいいのに。
『心配せんでも、お前のことはわいが守っちゃるで』
その決心はとっくについていた。巽が洸季を守って生きていくなら、自分も同じように。
『お前と一緒におるわ』
リュカの守り手になろう。この孤独な子供を、強がる割には脆弱すぎるその心を、ずっと傍で守りたい。
心からそう思っているのに、
『……嘘つき』
リュカはポツリと吐き捨て、俯いてしまった。
(なんや、ちっとも信じとらん顔やな)
しゃあない、と苦笑して、夜須はトレードマークと自負する白いスーツのポケットをまさぐった。
『ほんなら、ええもん見せちゃるわ』
そう言って微笑みかけ、取り出した細長い紙を差し出す。リュカは怪訝そうな顔でそれを見つめ、ますます眉をひそめた。
『なにこれ、ボクの航空券じゃん』
『いやいや、よう見てみ?』
二時半発、フランス行きのエールフランス。このチケットを土壇場で入手するのは結構骨が折れたが。
『な? わいの名前やろ』
座席もリュカの隣だ。
『なんで……』
搭乗者の名前が確かに夜須のものだと気づいたリュカが大きく目を見開く。驚倒しかねないほどびっくりしているその様子に満足し、自分より頭一つ背の低いリュカの顔を覗き込んだ。
『せやから、言うたやろ。お前はわいが守っちゃるて。一人になん、させへんわ』
絶対に。
その言葉に、リュカはいっそう瞳を揺らがせる。そこにある感情は先ほどととはまったく違うものだった。
『一緒に、来てくれるの?』
期待と猜疑がない交ぜになった瞳で、リュカは上目遣いにこちらを見上げてくる。
『そう言うとるやろ』
軽い口調で頷くと、リュカは唇を引き結んで顔をくしゃくしゃに歪めた。
(ああ、そないな顔しぃなって。ほんまきついわ)
この、今にも泣き出しそうな子供を笑わすにはどうしたらええんやろか。
夜須は一考し、長い指先でリュカの顎を捉える。ぷっくらとして柔らかそうな唇を注視した後、人目も憚らずそっと口づけた。
『……っ!』
瞠目する気配を至近距離で感じ、顔を離す。頬どころか耳まで赤く染めて、リュカは唖然と自分を見つめていた。微かに開いた唇を意味もなくパクパクさせている。
こういう顔は可愛げがあってええなぁ。
夜須は一人勝手に満足し、何事もなかったかのように微笑んでリュカの手を握った。
『さて、と。飛行機まであんまし時間ないで、はよ飯食べ行こか』
ほとんど呆然自失となっているリュカの半歩先を歩く。
『なぁリュカ、フランスってどないなとこや? 実はわい、一度も行ったことあらへんのや』
詮無い言葉を投げ掛けつつ、ちらりと隣に視線を向けた。リュカはなにやら複雑な面持ちで未だ沈黙を貫いている。
怒っているのか、喜んでいるのか。
(これは五分五分やな)
苦笑しながら、取り留めのない言葉を続けた。
『観光案内は任したで? あと、わいにフランス語教えてや。いずれお前と向こうに住むつもりやし、そうなったら英語だけっちゅーわけにもいかんやろ?』
さりげない宣言を、リュカは聞き逃さなかったらしい。ふと大きく目を見張ったあと、その瞳が柔らかに綻ぶ。
『……ほんと、バカじゃないの』
呆れたように笑いながら。
リュカは、初めてこちらの手を強く握り返してきた。
『フランス語より、先にその変な英語と服装をなんとかしなよ。チカゲが不審者と間違われて警察に捕まっても、ボクは絶対に助けてあげないからね?』
『……お前、他人の悪口言うてる時がいっちゃん楽しそうやな』
生き生きと毒を吐くリュカに嘆息しつつ、夜須はその冷たい指先を包み込んだ。
(なんでもええから、そうやって笑っとき。その方がずっと可愛えしな)
孤独に怯えて俯いているより、ずっとリュカらしい。
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