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『孤高の麗人』
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「叔父さーん」
年季の入ったアパートの扉を不躾に叩きながら呼びかける。時刻は朝の五時半だ。
七月も半ばの今、空の目覚めはとても早い。煌々とした朝の光に目を細めていると、扉の向こうから唸るような声が聞こえた。
気だるそうな速度で扉が開く。見慣れた男がのっそりと顔をのぞかせた。
「……なんだ、大翔かよ……」
叔父は起き抜けの声で唸り、露骨に迷惑そうな顔をする。冬眠から無理やり起こされた熊のようだ。
「お前、いま何時だと思ってんだ」
「ごめんって。でももうさー、家まで帰る気力がないんだよー」
そもそもこの時間ではまだ電車が動いていない。かといって始発を待てるほどの気力もなかった。既に体力の限界を超えているのだ。
「ごめん、ちょっとだけ寝かせて? なんなら二時間とかでもいいからさ」
叔父をやや強引に押し退け、いそいそと上がり込む。叔父は諦めたように溜め息をついて玄関を閉めた。
「また徹夜仕事か?」
「うん、そう。撮影長引いちゃってさ。十時間くらいかかったんだよ」
「十時間っ!?」
サマーコートを脱ぎ捨てながら言うと叔父は大げさに仰け反る。
「ファッションモデルなんて服着てパシャパシャ撮るだけだろが。なんでそんなに時間かかんだよ」
「だってオレの他にも何人かいたし、撮る服だって一着じゃないからね」
まだ駆け出しでしかない自分は単独で雑誌の表紙を飾れない。せいぜい雑誌の隅におまけで載せてもらえるくらいだ。それでも充分嬉しいので、文句なんて全然ない。
けれど複数人の撮影はどうしても順番待ちが起きてしまい、撮影時間が長くなりがちだ。この際、一番待たされるのが自分のような新人である。結果としてスタジオに長時間縛り付けられるのが多少つらい。
「それに……カメラさんの機嫌も最悪だったから」
「カメラさん? 誰だそりゃ」
「カメラマンさんの略」
押入れから自分用の布団を取り出していそいそ敷きながら答える。身体に馴染んだクタクタのスウェットに着替え、遠慮なしに寝転んだ。ようやく人心地ついた気分だ。
「今回のカメラさんって結構有名な人でさ、構図とかモデルの表情とかすごく厳しかったんだよ。メインのモデルさんの撮影が終わったの、ついさっきだし」
「まじかよ」
「そ。で、オレの撮影時間は十五分」
よくあることだ。
「なんだそれ……ひでぇな」
「そんなことないよ」
渋面を浮かべる叔父に軽く首を振った。
「ずっとカメラを向けられてたあの人の方が、ただ待ってたオレよりずっと大変だったはずだから」
今回メインだったモデルは、自分の役割をしっかりと理解していた。カメラマンの指示に従うだけではなく、自分自身で表現したい〝なにか〟を固持していたから、撮影に時間がかかったのだ。
カメラの目はそのまま、世間の目だ。一瞬の表情しか切り取ってくれないのに、それがすべてになってしまう。
プロが構えるカメラの前では、いつだって自分自身を試される。その言いようのないプレッシャーや緊迫感はきっと、あの黒い視線の前に立ったことがなければ分からないだろう。
こだわりの強いカメラマンの怒声を浴びながらカメラの前に立ち続けるなんて想像するだけで恐ろしい。
(でも、あの人はやってのけたんだ)
淡々と。それが自分の役目だと、いっそ誇るように。
そんな人間を妬むのは不可能だった。自分のほかにいた新人モデルたちも同じように思ったはずだ。どれだけ待たされても仕方がないと。
だって自分たちはまだ、あのレベルには到底及ばないのだから。
「すごい人だったよ、ほんとに。あの人の撮影が間近で見れただけでも、十時間の価値はあったね」
「おかげでこっちまで寝不足だってんだよ」
「それはごめん」
「もういい。さっさと寝ちまえ。お前、うちのバイト今日からだろが」
「あ、そうだっけ?」
言われるまですっかり忘れていた。目を丸くすると叔父が呆れた視線を投げ掛けてくる。
「ったく、しっかりしろよ。初日から遅刻なんかしてみろ、めちゃくちゃ怖ぇ教育主任がけちょんけちょんにしてくるぞ」
「志槻さん、だっけ?」
記憶の端に引っかかっていた名前を引きずり出した。叔父の話では相当に厳しい人らしいということも、ついでに思い出す。
叔父は頷き、くしゃっと顔を歪めて笑った。
「俺の一期下の後輩なんだけどよ、こいつがまあおっかねぇんだ。鬼だぜありゃ」
「そんなに?」
「ああ。なんつーか、ドライなんだよな。他人に対してもそうだけどよ、どっか自分にも厳しい。仕事は完璧なのに近づきがてぇってか、温かみってのが全然ねぇ」
聞く限りでは悪口のようなのに、叔父の表情はどこか温かい。いつもそうだ。志槻という男のことを話すとき、まるでできの悪い弟の話でもするかのような口調になる。
「けど、あれで結構面倒見がいいからな。教育係としちゃ悪くねぇんだ」
「ふうん……」
一体どんな人なのか。早く会ってみたい気がした。
新しい場所に飛び込むのは嫌いじゃない。不安は当然あるが、もともと人と出会うのが好きなのだ。知らない場所、知らない人、新しい環境。そういうものに触れるのはとても楽しい。
「どんなにおっかなくてもよ、あいつの言葉は正しいんだ。だからお前、逃げ出すなよ」
「分かってるよ。オレがそんなひ弱に見える?」
意外に心配性な叔父の忠告に苦笑を返す。
「どのみち逃げ場なんてないよ。ちゃんと稼いで引越し資金貯めないといけないんだから」
でなければ、いつまでもこうして明け方に叔父を叩き起こさなければいけなくなる。
自分の実家は都心から離れた八王子だ。撮影のたびにこっちまで出てくるのは正直きついし、今回のように始発や終電のない時間に撮影が終わることもある。そのたびにこうやって叔父の家に上がりこんで仮眠を取る生活をしているが、さすがに迷惑だろうということは分かっていた。
できるだけ早くに引っ越したいと思っても、まだまだモデルの仕事だけではまとまったお金が稼げないのだ。そう言った自分に叔父が紹介してくれたのが、彼の職場でのバイトだった。
「マジで早いとこ引っ越せよな。こちとらアラサーなんだからよ、毎回寝不足になんのはごめんだぞ」
「はーい」
叔父の苦言を素直に受け止めた。
「じゃあ、ちょっと寝るね。おやすみー」
バイトはお昼からだ。少なくとも五時間は眠れることに感謝しつつ、愛用のタオルケットを抱き込んで目を閉じた。
「うわ広っ……」
約束の十二時より少し早めにバイト先へ赴き、あまりの広さに瞠目する。ワンフロアが一望できないほど広いのに、まだ二階と三階があるなんて桁違いの広さだ。
(これはなんか……思ってたより大変かも……)
今日から自分が働くことになる職場が、まさかここまで大きな店だとは思わなかった。商品の位置を覚えるだけでも相当苦労しそうだ。
気圧されながらもレジの店員に声を掛け、バイトに来た旨を伝える。尻込みしている場合ではない。
「あ、どうも初めましてー、バイトリーダーの伊藤です」
しばらくしてやってきたのは、ひょろりとした大学生風の青年だった。八の字の眉毛とはにかむような笑顔のせいで、どことなく気弱そうな印象を受ける。
「うん、初めまして。オレは秋村大翔」
よろしく、とこちらが差し出した手に伊藤は一瞬固まってから、おずおずと握手を返してきた。
「教育係の志槻さんは今ちょっと手が離せないので、先に事務所へ案内しますね」
「りょーかい」
景気よく頷いて彼の後に続く。エスカレーターの横にある〝STAFF ONLY〟のガラスドアを通り抜け、従業員専用のエレベーターで二階に上がった。
「事務所はこちらになります。更衣室も兼ねてますが、制服は基本このエプロン一枚なのでさっと着替えられますよ」
伊藤は自らの出で立ちを示して言う。シンプルな黒いエプロンにはポケットが四つもついていて、胸元には白い糸で大きく〝純読書店〟の刺繍がしてあった。
ファッションには一家言持つ自分として、このデザインはあんまりだと思う。飾りっ気も遊び心もない、実用性重視のデザインだ。
(まあ、しょうがないか)
仕事用なのだからと苦笑し、雑然とした事務所を見回す。あまり広くない空間なのに、物が多すぎる。部屋の中央にはデスクの島、その隣にホワイトボードが二つ。これだけでもかなり窮屈だが、壁際には無理やりファイル棚と小型のロッカーが並んでいる。さらに少し奥まった場所には型の古いパソコンまで置かれていた。
「じゃあ、僕は売り場に戻りますね。じきに志槻さんが来ると思うので待っていてください。あ、椅子は適当にどうぞ」
「うん、ありがと」
軽く微笑んで頷くと、伊藤は丁寧なお辞儀を残して去って行った。
「うーん……」
がらんと人気のなくなった事務所で大翔は所在無く立ち尽くす。
蛍光灯が切れかけているのか、時々不安な音を立てて点滅していた。
「オレ、こういう薄暗いとこ苦手なんだよなぁ」
ひっそりと物寂しい空間にいると妙にそわそわしてしまう。早く明るくて賑やかな店内に戻りたかった。
何の気なしに事務所の中を歩き回る。壁に貼り付けられた行事予定やら接客規範やらを流し見して、ふと視線を定めた。
シフト表なのだろう。膨大な数の名前が連なる紙をまじまじ見つめ、その内容を理解して思わずぎょっとした。個人個人に割り当てられている就業時間のバランスがめちゃくちゃだ。二時間の勤務で週一日程度の人もいれば、五時間を越えているのに十日以上休みがない人もいる。
「うわ……志槻って人、めっちゃシフト入ってる」
中でも志槻慧の欄が一番ひどい。朝八時から夜の十時までという日が週に五日――となっているところをさらに上から修正され、今日で十一日連勤――さすがにこれは労働基準に反しているのではないだろうか。
「教育主任って、そんなに忙しいのかな……?」
いささか引いてしまうほど過酷な勤務体制を見ると、この先が不安になる。
こんな馬車馬のように働いていて、この人は本当に大丈夫なんだろうか。他人事ながら心配になってしまい、しばらくその名前から目が離せなかった。
「志槻、さとし? さとる?」
どっちの読み方をするのか分からないが、とにかく自分の上司になる男の名前だ。
どんな人なんだろうと想像していたところで、ノックの音が響いた。
「遅くなりました」
申し訳ありません、と硬質な口調で言いながら、一人の男が事務所に入ってくる。
「わたくし、教育担当で主任を勤めております、志槻です」
そう言って綺麗な会釈をしてくる男に、大翔は目を見張った。束の間、呼吸すら忘れる。
思ってたのと全然違う――そんな衝撃を受けるほど、目の前の男は美麗だった。
叔父の話からして、てっきり神経質そうなインテリ風の男が現れると思っていた。長身痩躯で銀色の眼鏡で、髪型は七三とか。
だが現れたのはそんな想像とはまったく相反する容姿の男だ。
涼しい目元に高すぎない鼻梁。真っ白な頬は驚くほど滑らかだった。小柄で華奢な身体つきだが、全身に纏う透徹した雰囲気が軟弱な印象を露ほども与えない。
少し癖のある黒髪は艶っぽく、高貴な面差しによく似合っていた。
「初めまして」
失礼なほど驚いていると、志槻がゆっくりと近づいてくる。
自分の見た目が相手にどう映るのかを熟知しているらしい。一部の隙もない完璧な微笑を浮かべる口元と裏腹に、その目は酷なほど冷ややかだ。
(あ、なんか今オレ、牽制された……?)
背筋が寒くなるような冷笑に思わず頬が引きつる。
彼が他人に許す領域はとてつもなく狭いのだろう。迂闊に踏み入れば容赦なく叩き潰されるような気がした。
「うん、初めまして……」
叔父が言っていた通り、近づきがたい男だ。威圧的とは少し違うが、確かに怖い。
苦笑いをかろうじて浮かべ、おっかなびっくり手を差し出す。が――。
「さっそく業務内容の説明に入ります」
その手を見事にスルーして、志槻が脇をすり抜けていく。
「まずはこちらを着て下さい」
「あ、うん……」
機敏な動きで突き出されたものを反射的に受け取った。まだ袋に入ったままの制服だ。
袋を破り、首ひもを通す。エプロンは基本簡単な作りだ。
「あれ? なんで?」
だがどうしても、後ろ手に腰紐を結べない。ひもがあっちこっちに揺れてしまっては掴むことすら難しかった。
「なにをやっているんですか、君は」
意味もなくクルクル回って四苦八苦していると、見かねた志槻が助けを出してくれる。
「不器用なんですか」
「だって難しいよ。なんでマジックテープじゃないの」
「知りません」
呆れた声に反論すると、にべもなく突き放された。なんだかんだ言ってもきちんと蝶結びをしてくれる辺り、意外に優しいのではないかと思う。面倒見がいいという話は本当らしかった。
「あのさ、」
そんなことを思うと、つい口が軽くなってしまうのが自分の欠点だ。
「志槻さんって、年いくつなの?」
「はい?」
一目見た瞬間から抱えていた疑問をうっかり口にしてしまう。とたん、志槻の顔が険しくなった。
「だ、だってさ、すごく若いよね?」
凍てつく視線に冷や汗をかきながら、なおも墓穴を掘り進める。
叔父の一期下なら、少なくとも二十代半ばか、後半だろう。だけどそれが信じられないくらい、志槻は若く見える。
ピッシリとしたスーツを着ていなければ、高校生にも見えるくらいなのだ。とても自分より年上とは思えなかった。
そう言うと志槻はあからさまに表情を消す。どうやら気分を害してしまったらしい。
「初対面の上司にずいぶんな言葉ですね」
「ごめん。でも、気になってさ」
怖々顔色を窺うと、志槻は露骨な溜め息をついた。
「少なくとも君より年下ということはありません。仮にそうだったとしても、社会に出れば年齢なんて関係ないでしょう。勤務年数で立場が決まるんですから、年下であっても先輩は皆、君の上司です」
「そ、それは分かってるけどさ」
「なら余計な質問は以上でよろしいですね?」
「うん……、」
取り付く島もない上司に項垂れる。正論だが、そんなきつい言い方をしなくてもいいじゃないかと思った。
「まずは簡単なことから覚えてもらいます」
志槻のあとについて回り、ざっと仕事内容を教えてもらった。ストアコンピューターの使い方、売り場の整頓、客用トイレの巡回時間と清掃方法、在庫の場所や管理方法、棚についている数字の規則性について――。
いうほど簡単な仕事でもない。いや、一つ一つは確かに単純なのだが、いかんせん覚えることが多すぎた。
「次はこっちです」
「まだあるのっ!?」
思わず悲嘆すると、志槻がちらりと視線を向けてくる。感情の読めないポーカーフェイスが却って怖い。
「まだ大したことはしてないでしょう。この程度で音を上げられても困りますよ」
「うぇー……」
まさかここまで大変だとは思っていなかった。げんなりしながら志槻の背中を追う。
向かった先は書庫だった。腰の高さまで積まれた段ボールがぎっちりと空間を圧迫している。
「こっち側にあるのはすべて雑誌です」
入って右側の段ボールたちを示して志槻が言う。
「箱に出版社の名前と商品名が書いてありますから、しっかり確認してください」
「うん、あ、これ?」
「そうです。必ずしっかり見てから運ぶようにしてください」
「どこに運ぶの?」
「売り場にです。先ほど見た限りではだいぶ商品が減っていたので、夕方のピークに向けて今から補充します」
志槻は段ボールに紛れて立てかけられていた台車を手に取った。
「うわ、重っ……」
志槻の指示通り段ボールを台車に載せる。腰が抜けそうなほど重かった。
持ち上げるのも一苦労な重さなのに、自分よりずっと華奢な志槻は難なく台座に積んでいく。
呆気に取られてしまうほどよどみない動作だ。
「すごいね、なんで普通に持てんの?」
「コツがあるんですよ。君のように腕の力だけで持ち上げようとすれば大抵腰を痛めます」
志槻はさらりとした口調で恐ろしいことを言う。
「できる限り脇を締めて、持ち上げる時は太腿や腹に密着させてください」
「こう……? あ、ほんとだ。ちょっと楽になったかも」
重さ自体が変わったわけでもないのに幾分軽く感じた。目からウロコだ。
「すごい豆知識」
「一般常識ですけどね」
呆れているらしい志槻に続いて台車を押しつつ、売り場へと戻る。
運搬作業もかなりの重労働だが、陳列作業にはもっと恐ろしい危険が潜んでいた。
「っ……! ったぁ、」
指先にいやな冷気が通り、反射的に左手で押さえ込む。
間違いなく切った。新品の紙はこれだから嫌いなのだ。
恐る恐る傷口を確認して、引きつった呼吸が漏れ出した。ザックリと切れた傷口からじわじわと血が滲んできている。
大した怪我でもないのに、赤い液体を目の当たりにしただけで全身の血の気が引いてしまう。
とっさに再びきつく抑えていると、志槻が陳列の手を止めた。
「どうかしましたか?」
「……切った」
声を絞り出すようにして答える。志槻は動じるでもなく、ただ一言「ああ」と頷いてなにやらスーツのポケットを探り出した。
「どうぞ」
「え、あ……ありがと」
差し出された絆創膏を受け取る手が震える。
「そんなに怯えなくても、大した傷じゃないでしょう」
「だって、痛いんだよ……あー、どうしよう……傷が見れない」
血は苦手だ。無条件に怖いもの、第一位。
青褪める自分に嘆息し、志槻が屈みこんできた。おもむろに手首を掴まれ、息を飲む。
「……大した深さじゃありませんよ。まあ、しばらくは痛むでしょうけど」
極めて冷静に傷口を眺め、呆然としている自分に構わず手際よく絆創膏を巻いていく。
志槻の手はとても冷たかった。
「あ、ありがと」
「慣れないうちはしょっちゅう切りますからね。ポケットにでも入れておきなさい」
余った絆創膏を差し出してくれるのは嬉しいが、そんな冷静な口調で怖い宣言をしないで欲しい。
立ち上がった志槻は無機質な視線で腕時計を確かめ、自分を見下ろしてきた。
「そこの陳列がすべて終わったら事務所に戻って来てください」
「え、行っちゃうの?」
「私は忙しいんです。あとは君一人でもできるでしょう?」
それでは、とそっけない一言を残して志槻は去っていく。その背中を見つめながら、大翔は一人小さく溜め息を零した。
「志槻、慧さん……か」
帰りの電車の中、何の気なしにその名前を呟いた。
(あんなに綺麗なのに、ちょっと寂しい感じがする人だったな……)
硬質な瞳に艶のある童顔。これ以上ないほど洗礼された容姿を持つ男なのに、身にまとう雰囲気はどこか殺伐としていた。
あの冷たい笑みは仮面だ。その裏にどんな感情があっても決して零さないよう、ピッタリと張り付かせている。
(ドライっていうか、なんだろう……人嫌い、とか?)
始終、感情を読ませないクールな表情を一貫しているのは、必要以上に他人と馴れ合うことが嫌いだからではないのだろうか。
一人でいても、まったく平気だと。むしろ一人でいたいのだと。そんなことを考えていそうな人だ。しかもそれはきっと、強がりでもなんでもない。
指先に巻かれた絆創膏をぼんやり眺める。
さりげない仕草で、当たり前のように助けてくれた。レジで失敗しても、掃除の最中にバケツをひっくり返してしまっても、呆れた顔一つしないで手を貸してくれた。〝最初は仕方がない〟とまで言ってくれたのだ。
「結構、優しいのにな……」
どうして、あんなに他人を拒むのだろう。分からない。
取っつきにくいとか、近寄りがたいとか、怖いとか。わざとそんなふうに思われるよう、意識して振舞っているみたいだ。
ふとした拍子に見せる優しさこそが、彼の本質なのではないだろうか。
冷たい手の感触を思い出し、無意識に微笑んだ。あれだけ冷たい指先だったのに、巻きついた絆創膏は微かに温もりを覚えている。
彼を知りたい。それはただの好奇心かもしれないけれど。
もっと触れてみたい。彼の本当の顔に。あの仮面が剥がれたとき、彼は一体どんな顔で笑うのだろう。周りに誰もいないとき、一人でどんなことを考えているのだろう。
知りたい。
あの孤高の麗人が抱えるなにかを、暴いてみたい。
(次から、〝慧さん〟って呼んでみようかな……)
そう呼んだら、どんな顔をするだろうか。驚くのか、怒るのか。それとも呆れてみせるだろうか。
どんな反応でもいいから、見せて欲しい。
追いかけたら逃げ出してしまいそうな彼と、少しずつでもいい、その距離を縮めてみたくなった。
次に会うのが楽しみだと微笑みながら、大翔は流れる窓の外を眺めた。
その好奇心に別の名前がつくのは、まだ少し先の話――。
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