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『災い転じて』
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「では湿布と痛み止めを処方しておきますねー」
お大事にどうぞ、という医師の言葉に一礼して診察室を出る。長々と待たされた割に、診察時間はたった十分ほどだった。
(やっぱり大したことなかったじゃないか……)
慧はコートを片手に嘆息しつつ、足早に待合い室を抜けた。階段を使って一階の会計窓口を目指し、人の多さにうんざりする。
これだから病院は嫌いなのだ。あちこちいたるところで咳き込む声が聞こえ、頼むから移してくれるなと願った。
ただでさえインフルエンザが猛威を振るうこの季節、総合病院はひどく混み合っている。
来るんじゃなかったと、心底げんなりしながら待ち人の姿を探した。
「あっ、慧さんこっち!」
ロビーの隅でふわりと茶髪が動いた。これだけ人が多いのに視界の端に捉えただけでその顔を見失えなくなる。
「お待たせしましたね」
人脇を縫うように近づき、大翔を見上げて端的な声を発した。本当にずっと待っていたのかと内心で呆れる。
「大丈夫だった?」
「ええ、ただの打ち身だそうです。一週間もすれば治ると」
心配そうな顔でこちらの頬を撫でてくる大翔に、医師の言葉をそっくりそのまま伝えた。湿布を貼られた頬はツンと冷たく、独特の薬品臭さに辟易してしまう。
「よかったぁ……」
大げさなほど安堵されても、反応に困るだけだ。
「だから大したことないと言ったんですよ」
柔らかな視線から目を背けつつ、溜め息を飲み込んだ。
本当にどいつもこいつも心配しすぎだ。こんな怪我くらいでいちいち病院に来る必要がどこにあるのか。
昨夜のサイン会でちょっとした騒動に巻き込まれ、全身に軽度の打ち身をこしらえた。一番目立つのは左頬の痣だ。別に対して痛くもないからと放置して眠ったのがマズかったらしい。
今朝起きて傷がジンジン熱を持っているのを知覚し、慌てて鏡を覗き込んだら思った以上に腫れていた。
だからと言って仕事を休むほどでもないと独断して出勤したのが間違いだったのだろうか。
自分を一目見るなり誰も彼もにぎょっとされ、次いで心配され、挙句客にまでどうしたのかと質問される始末で、苦笑を返すのにも疲れ果ててしまった。
そして極めつけは原田のお節介だ。
「全然大したことなくないじゃん。慧さんってなんでそんなに自分に無頓着なの?」
心持ち憮然とした表情の大翔を見上げ、苦虫を噛み潰す。無論、そんな内奥はちらりとも顔に出さないまま。
(本当に余計なことをしてくれたな、あの熊は……)
大翔がこの怪我を大げさに騒ぎ立てるのはある種予想していた。サァ、と音を立てて青褪める姿まで目に浮かぶほど、分かり切っていたことだ。
だからあえて黙っておくつもりでいた。ほんの数日で治ると思っていたし、忙しい大翔と次に会えるのは来週の予定だったのだ。上手く隠し通せば余計な心配をかける必要もないだろうと思い、実際そうするつもりだった。
だが、そんな目論見は原田のせいであっけなく無に帰した。
「ほんと、叔父さんが報せてくれてよかった……じゃなきゃ慧さん、絶対こんなとこ来なかったでしょ」
咎める口調で図星を指されたので、とりあえず視線を逸らして言い訳を口にする。
「……そもそも病院なんかに来るほどの怪我じゃありませんし、そんな時間もなかったんですよ。仕事が終わったら薬局で湿布を買うつもりでした」
「そんな素人処置じゃダメに決まってるじゃんっ。痕残っちゃったらどうするんだよっ!?」
いつになく乱暴な口調で叱責されてしまうと立場がない。年下の大翔に諭されるなんて、正直自分が情けなくなる。
そもそも、真っ先に〝病院〟の単語を出したのは原田だ。しかしこちらが頑として拒否したのが気に入らなかったのか、断りもなく大翔に事の次第を伝えたのだ。本当にやってくれたものだと今さら腹が立つ。
大翔を切り札に出されれば自分が折れると、いつの間にやら録でもない確信をしていたらしい。そしてそれは、悔しいことに一笑できない事実だ。
連絡を受けた大翔が現れた瞬間、してやられたと思い知って原田を睨みつけたが、既に手遅れだった。
『さ、…………』
自分の顔を見るなり、大翔は予想通り真っ青になって絶句してしまった。呼びかけの途中で硬直した唇まで微かに震えていたのだ。
むしろ、あの瞬間だけを見るなら大翔の方が自分よりよっぽど医者を必要としている顔色だったと思う。
『びょ、病院行かなきゃ……っ、早くっ!!』
顔面蒼白でそのまま倒れかねない大翔に腕を引かれては振り払うこともできず、結局原田の思惑通りに病院を訪れるはめになってしまった。仕事は早退――入社して以来初めての早引けだ。
「……どうも、ご心配おかけしました」
〝たいしたことない〟といくら言っても聞かない大翔を納得させるためだけにこんな場所まで来た。本当にその必要があったとは今もって思えないが、それでも。
「慧さんに肘鉄食らわせたバカ、マジで殴り飛ばしたいよ。オレの大事な人の顔に怪我させるなんてさ」
自分のために、というか、自分の代わりに憤ってくれているらしい大翔の顔色がいつも通りに戻ったのを見れば、来て正解だったのかも知れないと多少は思い直す。
「ほんとに早く治るといいね」
「……そうですね」
穏やかな瞳でこちらの頬を撫でてくる恋人に苦笑を持って頷き返した。大翔がこれ以上無駄に心配しないで済むなら、こんな無為な時間にも価値はあったというものだ。
『お会計番号320番の方。窓口6番までお越しください』
ロビーに無機質なアナウンスが流れ、ちらりと手元の紙に目を落とす。自分は342番。呼ばれるまでには時間がかかりそうだ。
「私はまだしばらく帰れそうにありませんから、先に帰っていただいて結構ですよ」
大翔だって色々と忙しい身だ。こんなところで時間を無駄にできないほど、そのスケジュールは過密を極めていると知っていた。それなのに――。
(なんでずっと待ってたんだこいつは)
慧は呆れと申し訳なさが六対四の比率で混ざった溜め息を零す。
「もう本当に、私一人で平気ですから」
そもそもこんな軽症では付き添う意味すらない。先に帰ってくれとあれほど強く念押ししたにも関わらず、結局大翔は自分を待っていた。〝ここで待ってるから〟と、その宣言通りに。
「え、だってあとは会計するだけでしょ? 待ってるってば」
「お会計だけなんですから、もうこれ以上の付き添いは必要ありません」
なおも食い下がって自分のために時間を割こうとする大翔に、そろそろ本気で焦れてきた。大翔の邪魔なんてしたくもない。
「だいたい私は子供でもありませんし、この程度の怪我で大げさに騒がれるのは迷惑です」
焦る胸中を誤魔化そうと口にした言葉を、すぐさま後悔した。
「迷惑だった……?」
微かに顔を強張らせる大翔に、ますます焦りが募る。
「っ、今のは取り消します。迷惑だったわけではありません」
そう、迷惑だったわけではないが。
「ですが、その……君にも仕事があるでしょう」
視線を逸らしつつ呟くと、申し訳なさの比率が十になった。こんな些細な怪我で心配させてしまった上に、貴重な時間まで潰させているのだ。
「私のために抜け出してこられたのは、正直あまり嬉しくありません」
できることなら今すぐ戻って欲しい。目標に向かって前進している大翔の足を引っ張りたくなかった。
「……慧さんって、ほんとしょうがないよね」
頭上から降ってきた温かな嘆きに視線を上げる。大翔は言葉通り、仕方なさそうに苦笑を零していた。
「世界で一番愛してる人が怪我したって聞いてさ、平気で仕事を続ける男がいると思う? なにがあっても駆けつけたくなるのが普通だって」
「そんなこと知りません。あいにく私は〝普通の男〟じゃありませんから」
とっさに皮肉で応じてしまったのは、カッと頬が熱くなったからだ。今さらのようにジンジンと痺れが戻ってくる。無傷の右頬まで熱いのはどういうことなのだろう。
〝世界で一番愛してる〟とか。
(よく臆面もなく言えるよな……)
そんな台詞を吐く人間はドラマか小説の中にしかいないと、今の今まで信じきっていた。
「またまたぁ、慧さんだってオレが怪我したって聞いたら絶対駆けつけてくれるくせに」
「そんなの当たり前じゃ、――っ、」
反射的に答えて臍を噛む。大翔が鬱陶しいほど顔を綻ばせていたのだ。
「オレと同じだね」
無邪気極まりない笑顔に、グッと言葉を飲み込む。
同じ。なにが。それは一体どういう確信なんだ。
まさかとは思うが、この自分も大翔を世界で――。
「っ……どうかしてますよ」
馬鹿げた思考の帰結に顔をしかめ、わざとらしく鼻を鳴らす。
天地がひっくり返っても、自分が他人にそんな感情を抱くことはない。と、そう思っていたのは本当につい最近の話で、だから余計に認められない。
「あれっ!? 慧さん、顔真っ赤だよ。もしかして熱出てきたっ?」
純粋に心配だけを浮かべてこちらの顔を覗き込んでくるのが、実に腹立たしかった。照れもせずにあんな言葉を口にして、こちらを羞恥に追い込んだ自覚は皆無なのか。
大翔のなにげない一言は、いつだって自分の心に波紋を呼ぶ。
「早く家に帰って安静にした方がいいよっ。オレ、送ってくからさ」
慌てたように言い募る大翔を見て、諦めた。こいつはこういう奴なんだと。
「あとさ、今日からオレ、慧さんちに帰っていい?」
「え、今日から、ですか」
「だってサイン会、昨日で終わったじゃん」
「それは、そうですけど……君が引っ越して来るのは来週でしょう?」
その予定だったはずだ。引越しとは言っても、業者に頼むほど大げさなものではなく、大翔が実家の車を借りて自分で荷物を運ぶだけだが。
「やっぱ今日から住んじゃ、ダメ?」
長身の大翔が器用に上目遣いで自分を見つめている。お預けを食らった犬みたいな表情に、小さく吹き出してしまった。
「別に構いませんよ。勝手にしてください」
いつでもいいと言ったのは自分だ。
「ほんとにっ!? やったっ!!」
飛び上がらんばかりに、というか若干飛び跳ねながら、大翔は大喜びしている。
「オレ、朝はちゃんと起こしてあげるからねっ? モーニングコールは七時でいい? あ、今度さ、おそろいの食器買いに行こうよ」
「はいはい、なんでもいいですから大声を出さないでください。他の方々にご迷惑ですよ」
鬱陶しいほどはしゃぎ出す大翔を冷静に宥めつつ、慧も内心では相当に気分が高揚していた。
本当なら来週まで大翔の顔を見れないと思っていたのに。まさか今夜から一緒に暮らせるなんて。
一日数分でもいい。毎日大翔の顔が見れるなら、一言でも声が聞けるなら、それだけで充分嬉しいと。そんなことを思うのは。
(〝同じ〟か……確かにな)
仕方なく認め、しかしそんな小っ恥ずかしいことは断じて口にするものかと、慧は微苦笑の下で頑固に誓っていた。
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