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平穏から一番遠い仕事
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◇
今でも夢に見る。眩しいほど煌くリングと、それを取り囲む人々の歓声、あるいは罵倒。
小気味の良い音でゴングが鳴り響き、汗の雫が宙を舞う。しなやかに放った拳は張りのある筋肉に弾かれて微かに痺れ、快感の余韻も残さず消えていく。リングは、緊迫と熱気だけが満ちた四角い戦場だった。勝ち残り、生き残り、頂点まで一気に駆け抜ける――ただひたすら単純で崇高な肉弾戦だ。自らの存在意義を賭したその戦いに魅了されない男がいるだろうか。
ボクシングだけが自分の全てだった。二十二才で新人王のタイトルをもらったあの瞬間が、自分の人生における最高到達点だったのかもしれない。
だから、あとは下るだけだ。血と汗と青春の全てを懸けて、死に物狂いで登り詰めたとしても。
耳障りな機械音にまどろみを破られ、小さく唸る。澄朔(すざく)はうつ伏せのままベッドの上をまさぐった。
ひんやりとした携帯が指先に触れ、無意識に時刻を確かめる。深夜一時過ぎ――アラームではなく、着信だ。
「……はい、」
寝起きの掠れた声で応答する。
「柏田(かしわだ)か? 俺だ」
相手は職場の上司だった。澄朔は俄に覚醒し、飛び上がるようにして身を起こす。
この時間に電話してくるということがなにを意味するのか。それが分からないほど能天気な性格ではない。
「緊急依頼ですか?」
「ああ。〝モノクロ〟の依頼だ。三十分で来てくれ」
「分かりました」
短い通話を終え、すぐさま出掛ける支度を整えた。
45℃の熱いシャワーを三分浴び、鏡を覗きながら丁寧に髭を剃る。
鏡に写り込んだ二十六歳の自分がまるで見知らぬ誰かのように思え、束の間のジャメヴに思い切り眉根を寄せた。
浅黒い褐色の肌では分かりづらいが、あまり血色が良くない。寝不足由来の疲労とストレス――ここ最近は食欲不振による体重の減少も著しく、目元の辺りが痩せてきている。
ボクシングで鍛え抜いた身体は今もって健在だが、リングの上で生き生きと輝いていたあの頃の面影はどこにもなかった。鏡に映っている自分はどこまでも無気力で生気に欠けた目をしている。
――まるで人間の抜け殻だ。
小さく溜め息を零し、酷薄な無表情を晒す自分からそっと目を逸らした。
雑な手つきで真っ黒な短髪を拭い、黒いスーツに袖を通す。仕事の必需品は身分証明ID。数日分の着替え。たったそれだけだ。
スーツケースを片手にがらんとした室内を見回し、施錠と消灯を徹底して家を出た。
(次はいつ帰ってこれるんだろうな)
住み慣れたテリトリーから離れる時、いつも寂しくなる。安普請のマンションでも、自分にとっては唯一心から安らげる場所だ。
だが澄朔には確信があった。これからしばらくの間、ここには帰ってこられないだろうという確信が。
それはある種の〝予兆〟だった。
渋谷区某所にある職場を目指し、青いレクサスを軽快に走らせる。深夜とあってさすがに道はがら空きだ。
「〝モノクロ〟から、か……」
口の中で呟いて溜め息を飲み下す。〝モノクロ〟とは〝警察〟の隠語だ。厄介な依頼であることはまず間違いない。
三年前、元プロボクサーという経歴を買われてある警備会社に入社した。主だった仕事は民間人の身辺警護――いわゆるボディーガードだ。
一般的に、民間人は警察の警護を受けられない。警察がじきじきに警護するのは内閣総理大臣や衆参議員長などといった要人のみで、民間人の警護は同じく民間の警備会社が請け負うのが常だ。
例えばストーカー被害に遭っている女性や、何らかの理由で命の危険を感じている一般人であっても、直接的な被害がない限り警察は動かない。せめて自宅周辺の巡回を強化する程度が関の山だ。
それは多分、仕方がないことなのだろう。一個人に対して二十四時間人手を割けるほど、警察の人員は多くない。
だから通常、一般人がボディーガードを雇うには、身辺警護を請け負っている警備会社と個人的な契約をする必要がある。大抵の警備会社では、警護に当たってリスクが高ければ高いほど雇用金額も上がっていく仕組みだ。
澄朔が勤めている〈マツザキ警備〉も、そうした民間警備会社の一つである。――表向きは。
運よく一つも信号にかかることなく車を走らせていると、前方に見慣れた建物が見えてきた。都会の中、どこにでもあるようなオフィスビルだ。一見して警備会社だと分かるような特徴は何もない。
地下の駐車場に車を潜らせ、セキュリティーゲートにIDをかざす。
『認証いたしました。本日もご苦労様です』
無機質な人工音声と共にゲートが開いた瞬間、反射的に気を引き締める。ここから先は一切の油断が許されない。どこか試合前の緊張感を思い起こさせるような、あのひりついた時間が続くのだと知っていた。
地下のエレベーターに乗り込み、十二階の事務所を目指す。三階で一旦停まったかと思うと、見知った顔が乗り込んできた。
「おう、お疲れさん。お前、まだ帰ってなかったのか」
「いえ、帰るには帰ったんですけど……」
「呼び出しか? そりゃ難儀なこった」
守屋(もりや)は、ガハハと腹を抱えて豪快に笑う。黒い眼帯と無骨な体躯が相まって、一見どこぞの海賊を思い起こさせる大柄な男だ。
彼は元陸上自衛隊だったらしい。だが任務先で左目を失明し、それでも人を助ける仕事がしたくてここに転職したのだと、何かの拍子に聞いたことがある。
「ま、お前は期待のエースだからな。あっちこっち引っ張りダコでいいじゃねぇか。なぁ?」
「ちょ、痛いですってば」
バシバシ無遠慮に背中を叩かれ、苦笑を返す。泣く子も怯えて泣き止むほど強面な守屋だが、話してみれば案外気さくで頼りやすい男だ。
「可愛い女子も婦人も守り放題――カァーっ、羨ましいこった。オレなんか無駄にキラキラした石っころとか、大型爬虫類の骨ばっか守ってんだぜ?」
守屋は自分が担当する宝石店や博物館の警備業務をそんな風に嘆き、丸太のような腕をこちらの首に回してきた。狭いエレベーターの中、暑苦しいことこの上ない。
「オレも一度でいいからお前みたいに『きゃぁ!! こんなイケメンボディーガード今まで見たことないわ!! ねぇ貴方、今度私とデートしなぁい?』とか言われてぇよ」
「ぷっ、なんですかそれ」
無理のある高音ボイスで体をくねらせる守屋を見て、思わず吹き出してしまった。
「そんなの俺だって言われたことありませんよ」
「いーや。少なくとも今まで、お前に警護されて喜ばなかった女はいねぇぞ」
下らない冗談に、張り詰めていた緊張がほんの少しだけ緩む。〝何事も力みすぎはよくない〟と教えてくれたのも、そう言えばこの男だった。
ピーン、と軽快な音を立ててエレベータが八階に停まる。八階はフロア全体がトレーニングジムになっていて、従業員であれば二十四時間自由に利用できる便利な施設だ。
「これからトレーニングですか。体力ありますね」
「おうよ。気ぃ抜くとすぐ筋肉が落ちちまうからな。ったく、年は食いたかねぇ」
守屋は大げさな溜め息を零しつつ、首を左右に倒して骨を鳴らした。
男も四十路を越えると色々思うことが出てくるらしい。自分がそれ実感する日はまだ遠い――なんて思っていたら、きっとあっという間なのだろう。
「んじゃあな。仕事頑張れよ」
守屋は励ますように二、三度こちらの肩を叩いて去って行った。箱の中からその広い背中に頭を下げ、強く拳を握り締める。
自分も負けていられない。
「ああ、柏田。こっちだ」
スッと通る落ち着いた声に呼ばれ、澄朔は小走りに近づいた。
「時間通りだな」
篠原悠作(しのはらゆうさく)は知的な銀縁眼鏡の奥から賞賛の笑みを送ってくる。
篠原は身辺警護業務部の部長で、自分にとっては直属の上司に当たる。三十二才で合気道の最高段位を有し、五十人を越える部下を難なく総括しているという、まさに文武両道を地で行くような男だ。
規律厳守を信条に掲げる篠原は、急な呼びつけにも時間通り駆けつける部下のみを重宝する。ここで一分でも遅刻していたら、自分は明日から無職になっていただろう。
「さっそく本題に入らせてもらうぞ」
「はい」
音もなく身を翻した篠原に続いて、フロアの一番奥にある応接室に入った。真っ白な壁に囲まれた部屋には窓一つなく、何度入っても圧迫感が拭えない。
中央に置かれた簡素な会議デスクに、入り口を向く形で二人の男が座っていた。初老の男と、自分より若そうな青年の二人組みだ。どちらも埃っぽいスーツを身につけ、どことなく疲れ切ったような顔色をしている。
部屋に足を踏み入れた瞬間、二人は露骨な視線でこちらを観察してきた。まるで夜闇に浮かぶ猛禽類の目だ。
「――君、名前と年は?」
年嵩の男が先に口火を切る。鋭利な視線に若干気圧されたが、幸い態度には出さずに済んだ。
「柏田澄朔、二十六です。……失礼ですが、警察の方ですか?」
姿勢を正して答えたあと、質問を加える。特有の雰囲気から察しはついていたが、二人が揃って頷いたのを見て腹の底が重くなった。
噂の〝モノクロ〟が、じきじきに依頼を持って来たらしい。そんなことは今まで一度もなかったはずだが。
「まあ、とにかく座ってくれるかな。立ち話で済むような内容じゃないのでね」
それはそうだろう。内心苦く頷きつつ、無言で二人の向かいに腰を下ろす。篠原が扉を締め、自分の隣に座った。
初老の男は元沢(もとさわ)と名乗り、若者の方は水野(みずの)と名乗る。二人とも警視庁捜査一課に勤める刑事らしい。
「さて、何から話すべきか。とりあえずこれを見てくれるかな」
元沢が指先で一枚の書類をデスクに滑らせる。
「拝見します」
断りを入れてから手にとって目を落とした。紙のトップには〈警護対象〉と大きな見出しがつき、小さな写真もセットになっている。
対象者の名前は雨宮晴透(あめみやはると)、二十八歳。職業は〝作家〟とあった。写真は遠巻きの横顔だ。言い方は悪いが盗撮なのだろう。ひどくピンボケしていてはっきりとは分からないが、それでもかなり整った顔立ちの男なのは見て取れた。
「君にはその男を警護して欲しい。ただし彼以外の誰にも、君がボディーガードだということを悟られないように、だ」
「……どういうことですか?」
話がまったく読めない。書類をデスクに戻して胡乱に問うと、刑事二人は意味ありげな目配せをし合った。
「ところで、君は普段、読書をする方かな?」
ゴホン、とわざとらしい咳払いのあとで、元沢が唐突に話を逸らす。思わず眉を寄せて隣の篠原を見た。だが篠原は冷めた一瞥をくれるだけでなんの説明もしてくれない。
「あまり読みません」
仕方なく端的な答えを返した。些か見栄を張ったが、実のところ読書なんて小学生以降まったくしていない。昔から活字を読むのが苦手で、読書をすると頭が痛くなるのだ。
「そうか。では作家の鐘原雷蔵氏を知らないね? 『雪の水音』や『亡者の憩い』を書いたホラー作家なんだが」
「あ、その方は知ってます。先月亡くなったとか」
「ああ、知っているなら話は早いな。そう、鐘原氏は先月殺害されたんだ。犯人はまだ捕まっていない」
〝まだ〟と言ったとき、元沢の瞳が暗くなった。一ヶ月も前の事件が未だ未解決だというのは、刑事にとって相当頭の痛い事実らしい。
だが、それとこの依頼がどう繋がるのだろう。視線だけで先を促すと、今度は水野が口を開いた。
「これは、ここだけの話でお願いしたいんですが」
「はい。秘密は厳守します」
硬く頷くと、水野はやや勿体つけたような間を置いて口を開いた。
「鐘原氏の遺体発見現場に、奇妙なメッセージが残されていたんです。〝亡霊は皆殺し〟という――」
「亡霊?」
ずっと無言だった篠原が、その単語に眉をひそめる。
「それはどういう意味なのですか?」
怪訝な問いに、「我々にもさっぱり分かりません」と元沢が首を振った。
「ちなみに、このメッセージについてはマスコミにも一切公開されていない、極秘情報なんです!」
やたら威勢のいい水野の補足に、元沢は一つ頷いた。
「ところが、別の現場でも同様のメッセージが見つかりましてね。鐘原氏の他、分かっているだけでも既に三名の被害者が出ているんです」
遺体のすぐ傍に、被害者の血で同様の言葉が綴られていたらしい。
(ってことは……)
ふとある可能性が脳裏に浮ぶ。恐らく篠原も同様だったのだろう。自分より先に、篠原が口を開いた。
「それはつまり、連続殺人ということでしょうか?」
「ええ。少なくとも我々捜査本部はその読みで動いていますな」
「そしてですね! 実は一昨日、雨宮氏にもまったく同じ内容のメッセージが送られてきたんです。ごく普通の葉書に無機質な印刷がされただけのものでしたが――」
水野は妙に興奮した口調で言い募る。メッセージにあった〝皆殺し〟という言葉が犯人の声明なら、次の被害者は雨宮になるかもしれない、と。
「……まあ、これで理由は分かってもらえただろう」
元沢は口の軽い部下を諌めるように咳払いし、強引に話を戻した。
「ぜひとも彼の警護を君に頼みたい。当初は我々が警護する手筈だったが、雨宮氏がそれを承諾してくれなかったのでね」
「なるほど……」
本来警察は民間人を警護しないが、こういったケースではそれなりの護衛と監視がつく。しかし、それも本人の承諾なしには難しいのだろう。
どれだけの危険に晒されようと、四六時中警察に見張られるような生活を嫌がる人もいる。かといって警察も、守るべき市民を守らなければ立場がなくなってしまう。
だからこうして〈マツザキ警備〉が動くことになるのだ。両者の利害衝突を緩和するための仲介役として。
〈マツザキ警備〉は表向きごく普通の警備会社だが、たった一つだけ他社と異なるサービスを行っている。警察が〝要・警護対象〟と定めた民間人の身辺警護を極秘裏に請け負う、〝セカンド・セキュリティー〟というサービスだ。
この特殊なサービスは、両者にとってメリットが大きい。警護を外部に委託することで警察は余計な人員を裂かずに済むし、警護を受ける側も警察に監視されないで済むのだから。
さらに言うなら、一個人の契約とは違って、依頼人はあくまでも警察組織――〝モノクロ〟となる。したがって警護対象者にかかる金銭的負担もかなり軽減される仕組みだ。
雨宮本人も、民間の警備員なら身辺警護を受けてもいいと言っているらしい。まあ、元沢たちの口振りからするとそれもかなり渋られたようだが。
「お話は大体分かりました」
自分としては、雨宮晴透の警護にまったく異論はない。けれど、まだ一つだけ気になることがあった。
どうして自分がボディーガードだということを雨宮以外に悟られてはならないのだろうか。むしろ積極的にアピールする方が犯人を牽制しやすいというのに。
気になって問うと、
「それが本題だ」
元沢は険しい顔のまま、我が意を得たとばかりに頷いた。
実は、という前置きのあと、瞠目するような事実が明かされる。
今日――と言っても日付が変わる前、正確には昨日の夕方だが――雨宮は駅の階段を下っている最中で何者かに突き飛ばされたらしい。
そう聞いた瞬間、思わず顔が強張った。
このタイミングでの襲撃となれば当然、事件と無関係ではないだろう。
「雨宮さんは無事なんですか」
「ああ。幸いと言うべきではないが、腕を折っただけで命に別状はなかった」
「そうですか……」
ほっとしても、肩の力を抜くわけにはいかなかった。事態が切迫していることに変わりはないのだから。
「犯人が雨宮氏を狙っているとすれば、近いうちにもう一度、必ず接触してくるだろう」
(ああ、なるほど……)
唐突に、彼らの真意が読めた。
どうして、雨宮以外に自分がボディーガードであることを知られたくないのか。それが今、やっと分かった。
一連の犯人が再び雨宮に接触するのは、もはや確実で。
それは彼ら警察にとって千載一遇の好機なのだ。
(そういうことか)
全てが腑に落ち、澄朔は椅子の背に深くもたれ掛かった。
露骨にそれと分かる警護をつければ、犯人は警戒して近づいてこなくなる。
逆に自分がボディーガードらしく振る舞わずなければ、犯人の油断を誘うことができる――。かなり非常識だが、確かに一理ある策だ。
頭が重くなるような思考の帰結に、思わず眉をしかめた。彼らの依頼を要約すれば、結論はたった一つしかない。つまり――。
「〝雨宮晴透〟を囮にして、犯人をおびき出す。……そういうことですね?」
確信を持って低く問いかけると、元沢はあからさまに表情を消した。暗い瞳に、彼らの心情がはっきりと映り込んでいる。
「確かに、そういう言い方もできるだろう。だが我々にはもはや、手段を選んでいる余裕がない」
たった一ヶ月で四人も犠牲者が出ている。一刻も早く犯人を捕らえようとする彼らの必死さは、部外者の自分にも理解できた。
「まだ若い君をこんな危険に巻き込むのは心苦しい。だがどうか、我々に力を貸してくれないか。――このとおりだ」
元沢はデスクに両拳を突いて深く頭を垂れる。
重い沈黙が密室に充満し、澄朔はちらりと隣の篠原を見た。篠原の視線はいつも通り平坦だ。
〝受けるかどうか、お前が決めろ〟 そう言われているのが分かる。
断るという選択肢は端からなかった。リスクが高かろうが低かろうが、自分がやるべきことは別になにも変わらないのだ。
澄朔は毅然と二人の刑事に向き直り、硬く拳を握って口を開いた。
「もちろん、お受けいたします」
これは誰にとってもリスクの高い仕事だ。平穏からは程遠い日々を過ごすことになるだろう。だけど。
(俺にはこれしかできないんだ)
他にできることなどなにもない。遠い日の栄光はとっくに色褪せ、今の自分にあるのは仕事だけ――例え危険が伴おうと、これ以外にできることがないのだ。
澄朔にとって、この依頼を受けることは自らの存在意義そのものだった。
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