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〝信じて欲しい〟
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◇
ガリガリと扉を引っ掻く音を耳にして、澄朔はパッと飛び起きる。柔らかなマットレスの沈み具合と、見慣れない部屋の様相――ほんの一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「……ああ、そうか」
晴透に借りた部屋だと思い出し、小さく息をつく。サイドボードに置いた腕時計を確かめると、午前九時を少し回っていた。
眠っていたはずなのにまったく疲れが取れていない。
晴透は事件や自分を襲った犯人について、なにを知っているのだろう――あれからずっと埒もなく考え続けて、浅いまどろみに落ちたのは結局明け方過ぎだったのだ。
鈍く痛む頭を無意識に擦りながらベッドを下り、がらんとした室内に眉をひそめる。
晴透に間借りしたこの部屋には、余計なものが一切置かれていない。リビングや廊下の散らかり具合が嘘のようだ。備え付けのクローゼットを除いて、家具はベッドとサイドボード一つだけ。窓にはカーテンすらかかっていなかった。
これだけの空間を遊ばせる余裕があるのなら、もう少し整理整頓すればいいのにと思わずにはいられない。
黒のチノクロスパンツに足を通していると、また扉を引っ掻くような物音がした。間髪入れずに短く低い啼き声が鼓膜を揺らす。
「マジか……」
どうやら扉の向こうにあの狼がいるらしいと知ってげんなりと肩を落とした。一体なんの用だろう。あれは晴透と一緒に眠っていたはずじゃないのか。
そこまで考え、まさかと慌ててドアノブを捻る。自分が寝ている隙に、勝手に出歩いてしまうような警護対象者は嫌というほどいた。
恐る恐る扉を開くと、予想通りオーブがこちらを見上げている。オーブは自分を見た瞬間、なにかを訴えるかのように低く吼えた。
「なんだよ、お前。あっちに行ってくれ」
あしらう仕草で手の甲を振ってみても、返ってくるのは「ウォンッ」という意味を成さない言葉だけ――早く退いてくれないと本当に困る。せめて晴透がこの家にいるかどうかだけでも確認させて欲しいのに。
「なあ、お前のご主人様はどうした?」
細く開けたドアの隙間から、無駄と分かっていながら問いかけた。するとオーブはもう一度鋭く吼え、くるりと向きを変えて去っていく。
自分の視界からギリギリ消えない位置まで歩き、ふとこちらを振り向いてまた吼える。今度は二回。心なしかさっきより切迫した啼き方だ。
「……?」
どうやら呼ばれているらしい。そう気づいてそっと部屋を出た。
仕方なく、オーブの後を追いかける形で晴透の寝室に足を踏み入れる。とは言っても、脱ぎ散らかした衣服と本の洪水で足の踏み場もなかったが。
オーブはベッドの淵に前足を掛け、か細い声でしきりに啼いていた。視線の先に気づいた瞬間、慌ててベッドに駆け寄る。
「晴透さん……っ!?」
広いベッドの隅で身体を丸めて眠る晴透の様子は、明らかに尋常ではなかった。ぐったりとして、微かに震えている。
「どうしたんですか!?」
細い肩を揺すってみても、晴透は微かに呻くだけで目を開けようとしない。ほんの少し触れただけでも、かなり発熱しているのが分かった。
(やっぱりな……)
おかしいとは思ったのだ。骨折は軽い怪我じゃないのに、あんなに平然としていたのは。しかも昨日のクラブで飲酒までして。
こういう反動が来るのは当然だが、晴透を責めるわけには行かない。そもそもこんな怪我をしたのは晴透の落ち度ではないし、酒を飲むことで誰かに襲われたという恐怖心を紛らわせようとしたのも理解できるからだ。
汗で張り付いた前髪をそっと掻き分け、額に触れる。この分では痛み止めの薬すらまともに飲んでいないのだろう。
「参ったな……どうする?」
困窮しながら薄暗い室内を見回すが、処方されたはずの薬がどこにあるのかまったく分からなかった。これでは本人に聞く以外ない。
「晴透さん、」
辛抱強く肩を揺っていると、しばらくして晴透が薄く目を開けた。焦点の合っていない瞳を覗き込んで問いかける。
「薬、どこにありますか?」
「……くすり?」
「病院からもらったものがありますよね? ちゃんと飲まないと熱が下がりませんよ」
「……ない」
浮かされるような返答に、しばしフリーズしてしまった。〝ない〟とはどういうことだ。
「薬をもらってないんですかっ?」
「紙はもらった……玄関」
たどたどしい言葉を耳にし、急いで玄関に向かう。靴箱の上に放置されていた処方箋を手に取って思いっきり脱力する。
どうやら病院のあと、薬局に寄らずそのまま帰宅したらしい。処方箋だけあって薬そのものがないなんて、世の中にこれ以上無意味なことはそうそうないだろう。
紙を持ってリビングに引き返し、少し迷ってから冷蔵庫を開けた。せめて水分だけでも摂らせなければ――そう思って、絶句する。
大量の栄養ゼリーと缶ビール。およそ食材らしきものはそれしかなかった。
「あの人、どうやって生きてんだよ……」
げんなりしつつ冷蔵庫を閉め、コップに水道水を汲んで寝室に戻る。
「晴透さん、水飲めますか」
手を貸しながら身体を起こさせようとするが、
「気安く触らないでくれ……っ」
鋭く手のひらを振り払われた。反動でコップが床に落ち、オーブがオロオロと室内を行ったり来たりし始める。
「もう放っておいてくれないか……鬱陶しいんだよ」
くぐもった声を耳にして、ツキリと心臓が痛む。
感情的なのはきっと、体調が良くないからだ。そう分かっていても、こんなふうに拒絶されるのはつらい。
「晴透さん、」
澄朔は躊躇いつつもベッドの淵に腰を下ろし、そっと晴透の肩に触れる。また振り払われるかと思ったが、もはやその気力すらなくしたらしい。
「俺、処方箋受け取ってきますから。俺がいない間は絶対に出歩かないでくださいね」
無意識にあやすような仕草で叩いていると、やがて毛布の隙間から掠れた声が聞こえた。
「……僕は事件の重要参考人なんだ。君に守られるほどの価値もない」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「重要参考人って……どういうことですか?」
「〝容疑者〟って言った方が分かりやすいかな」
全てがどうでもよさそうに吐き捨て、晴透は億劫そうに身体を起こした。熱のせいかフラフラしている。
慌てて背中を支えた自分に、晴透はちらりと煩わしそうな視線を向けてきた。が、それもすぐに伏せられてしまう。
「警察、特にあの元沢って刑事は最初から僕を疑っているんだ。脅迫状も、この怪我も、『全部自作自演なんじゃないか』って言われたよ」
「そんな……」
愕然と言葉を失った。どうして晴透がそんな疑いを掛けられなければならないのだろう。
晴透は疲れたように目を伏せ、ポツリポツリと事件のことを話し始めた。
「鐘原さんが殺される前の日、僕は彼と酷く揉めたんだ」
「なぜです?」
「……仕事のことで、色々あって。結構激しく口論してたから、途中で彼の娘が止めに来た」
互いに険悪なまま、その日は別れたのだという。そして次の日、晴透は謝罪のために鐘原氏の自宅を訪れ――彼の遺体を発見した。
「鐘原さんは血まみれでベッドの上に倒れていたんだ。あんまり現実味のある光景じゃなかったけど、臭いが酷かった……。何度吐いたか覚えてないよ」
訥々と抑揚のない声音が、却って晴透の恐怖心を克明に伝えてくる。
鐘原氏は何者かに刃物で数十回も刺されていたらしい。身体の原形を留めないほど。
「内臓があちこちに散ってて……僕は何も考えずに拾い集めたんだ。そうしなきゃいけないような気がして……」
その様子を脳裏に思い描いた瞬間、ザッと音を立てて血の気が引く。恐らく、その時の晴透はまともな判断力を完全に失っていたのだろう。
それほど凄惨な現場を目の当たりにして、ショックを受けない方がどうかしている。
「晴透さん、もういいです。それ以上思い出さないで下さい」
切実な思いで懇願するが、晴透はどこか虚ろな瞳をしたまま話を続けた。
「遺体の近くに凶器はなかった……代わりにおかしなメッセージが残っていたんだ」
そのメッセージについては元沢たちから聞いている。〝亡霊は皆殺し〟――寝室の床に血文字で書き殴られていたそうだ。
「しばらくぼうっとしてから、やっと警察を呼んだ……怪しまれるのは当然だよ。僕の手は血塗れだし、意味もなく現場を荒らしたんだから」
さらに前日に言い争いをしていたという事実もあったため、晴透は真っ先に疑われたのだという。証言したのは娘だ。
その娘も鐘原氏とは別の家に住んでいて、事件当時のアリバイはなかったらしい。
「だったら、その女性も疑われているんじゃないですか?」
晴透だけではなく、元来刑事というものは疑わしい人間全てを疑ってかかる生き物だ。それほど深刻に捉える必要はないのでは――と、思ったのだが。
晴透は暗い瞳を伏せて微かに首を振った。
「彼女はもう死んでいるよ。……二人目の被害者だ」
ゾッとした。それではまるで。
「僕が彼女を殺したように思えるだろう? 証言された腹いせに」
自嘲じみた笑みを唇に浮かべ、晴透はぼんやりと自分の手のひらを見つめている。
「このあと、二人立て続けに被害者が出た。……どっちも僕と顔見知りの人間だった」
「そ、れは……」
どんな言葉を掛ければいいのか、もう分からない。
「極めつけは例のメッセージが送られてきたことだ。……僕はまだ生きているのに」
晴透は生気の抜け落ちた顔で虚ろに笑った。
どの現場でも見つかっている犯人からのメッセージ――晴透の場合はただの葉書に印刷された無機質なものだ。
今までは被害者の遺体とともにあったはずのメッセージを、晴透だけが不自然な形で受け取った。
警察じゃなくとも疑念に思う。どうして晴透だけが他の被害者と違うのか。
「その葉書が送られてきたのは三日前……郵便ポストに入っていたけど、消印はなかった」
「……それは、変ですよね。どう考えても」
消印がないということは、差出人が直接ポストに投函したということになる。
「だろう? だから僕が〝犯人〟で、自分の疑いを晴らすための〝自作自演〟だって言われたんだ。メッセージも、この怪我も全部」
「……」
鐘原氏の死亡推定時刻、その他三名の被害者の死亡推定時刻にも、晴透のアリバイは立証されなかったのだ。しかも殺された計四名の被害者全員と、晴透は面識があった。
だから。
(疑われたのか……)
その上そんな不自然な形で例のメッセージを受け取り、数日後に何者かに強襲されたのでは、警察の疑いも一応筋が通る。
話によると晴透は昨日の夕刻、再三に及ぶ事情聴取のため署に赴いたらしい。その帰り道、何者かに襲われた――タイミングが良すぎると穿った見方ができなくもなかった。端から晴透が犯人だと疑っている警察からすれば、全てが自作自演のように思えるだろう。
元沢が自分を晴透の警護につけた真の意味は、もしかすると監視のためではないか。
(有り得るな)
晴透の怪我を自作自演だと思っているのなら、彼を階段から突き落とした犯人を共犯者だと考えているに違いないのだ。
それを捕まえれば、あるいは晴透とその誰かが接触すれば、事件の解決に結びつく。
警察が油断させたがっているのはその実、晴透なのかもしれない。
けれど。
「僕じゃないんだけどな……」
晴透は他人事じみた口調でポツリと呟く。全てを諦めたような瞳とは裏腹に、右手は硬くシーツを握り締めていた。
「僕は本当に誰も殺してなんかいないのに」
「晴透さん、」
「今さらなにを言っても、僕を信じる人間はいないんだよ。〝雨宮晴透は犯人じゃなかった〟って、警察がそう気づくのはきっと僕が殺されてから――」
「晴透さんっ!」
澄朔は震える晴透の手を強く握り込む。ふっと口を閉ざした晴透が驚いたようにこちらを見つめてくる。
「俺は信じます。貴方が犯人なわけない」
偽りなく断言した瞬間、晴透の瞳が僅かに揺らいだ。
自分に言わせれば、元沢を始めとした警察の見解は机上の空論でしかない。物的証拠もないのに、頭から晴透を犯人扱いするのは視野狭窄もいいところだ。
もっと正直に言うなら、心底腹立たしかった。いつの間にか、自分までもが晴透を疑う側の人間に仕立て上げられていたなんて。
そんなつもりで警護に就いたわけではないのに。
「晴透さんのことは俺が必ず守ります。絶対に」
確固たる決意を持って、強くその手を握り締めた。
たとえ相手が殺人鬼だろうと、国家に属する警察組織の人間だろうと、これ以上晴透を傷つけるのは許さない。
「だから、晴透さんも俺を信じてください。なにがあっても、俺は貴方の味方です」
もう独りで耐える必要はないと、ただそれだけを伝えたかった。
晴透はなにも言わずに顔を背け、さりげない動きでこちらの手を振り払った。そのまま、もぞもぞと毛布の中に隠れてしまう。
やっぱり信じてもらえないのか。そう落胆しかけた時、
「……ありがとう」
小さく鼻を啜る音とともに、蚊の鳴くような声が聞こえた。堪らないほど切ない嗚咽を耳にして、澄朔はとっさに晴透の背中を擦る。
ずっと独りで耐えていたことくらい、とっくに分かっていた。この人の拒絶や牽制は一種の自己防衛だと。
つらかったはずだ。誰も味方がいないなんて。
「……もう大丈夫ですよ。俺がついてますから」
細く張りつめていた糸が切れたかのように啜り泣く晴透の隣で、澄朔は何度も同じ言葉を口にした。
もう大丈夫だから、信じて欲しい――と。
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