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翌日から、本格的に仕事が始まる。
早朝に旅館の皆で食事をして、その後各自持ち場へと向かっていく。
俺はまず根本的なところからで、心構えやら経営理念、挨拶の仕方、作法などの説明を有坂母に受けた。
有坂と一緒に仕事が出来るかと思ったが、当然だがその辺の指導はもう有坂には必要ない。
なら早く一緒の仕事が出来るようになって、協力したり時には小突きあったりしながら楽しくバイトをしたい。
――なんて甘く考えていた俺の思想は、一瞬で打ち砕かれることになる。
「益男さん、背中が曲がっていますよ。お客様の前でだらしない姿勢を取らないように」
「えっ」
「益男さん、お客様への言葉遣いがなっていません。それから声ももっとお腹から出し、ハキハキと発声なさい」
「ええっ」
「益男さん、一つ一つの所作が雑です。例え廊下であっても、常に見られていることを意識するように」
「えぇーっ!?」
「益男さん、益男さん」
有坂母は鬼だった。
ニコニコとした表情は変わらないが、めちゃくちゃ細かく隅々まで指摘してくる。
まるで埃一つ許さない姑ばりの細かさだ。
「常にお客様の立場に立ち、何をお客様が求めているか、どうしたら快適に過ごして頂けるかを考えて接客なさい」
「…そ、そう言われても――」
「考えられないのであればそう見えるように努力をなさい」
しかもピシャリと言われると逆らえない威圧感がある。
尽くされることはあっても尽くしたことなんかないし、これは相当の難題だ。
「…あ、有坂っ」
調理場の片隅で説教を受けていたが、不意に有坂が視線の先に見えた。
ビール瓶が詰まったケースをどうやら運んでいるらしい。
そういえば有坂は客の前には出ていないし、裏方の仕事をメインにやっている。
俺も接客じゃなくてそっちのほうが良いんだが。
俺の声で有坂と一瞬視線が合ったが、すぐに何かギクリとしたような表情に変わる。
声を掛けることなくそのまま仕事に戻っていってしまった。
俺の唯一の癒やしが一瞬で消えてしまったことにガックリしつつ振り返ると、有坂母がニコニコと俺を見つめていた。
笑顔が怖いと思ったのは初めてかもしれない。
「益男さん、今はお仕事中ですよ。そんな浮ついた気持ちで仕事をされては困ります。――今後、お役目に慣れるまでは仕事中に桐吾さんと話す事を禁止とします」
「えぇーっ!?」
俺の本日何度めかの悲痛な叫び声が響き渡る。
有坂母、強し。
チェックアウトの客の見送りを有坂母とする。
客が完全に見えなくなるまでお辞儀を続けなさいと言われているが、この角度の姿勢をずっと保ちつづけるのは結構プルプルと筋肉にくる。
さっさといなくなれと願いつつチラッと隣を見れば、ハッとするような上品な仕草で有坂母はこなしていた。
素直に凄いなと感心してしまう。
「益男さん、余所見はいけませんよ」
「あっ、は、はいっ」
やべ、バレた。
慌てて姿勢を正す。
表情は穏やかだが、もう俺には有坂母が鬼にしか見えないんだが。
昨日のガキどもが有坂母の名前を出されて慌てたように家に戻っていった意味が、今分かった気がする。
「お疲れ様でした。ここから昼食を取って、ゆっくり休憩なさってくださいね」
「えっ、いいんですか」
「うちは中抜けの時間を設けているんですよ。この時間帯はお客様も観光に行っていて旅館は暇になりますから」
なるほど。
朝も早かったし有坂母の鬼指導で既にぐったりだったが、休憩が取れるなら希望の光も見えてくる。
「桐吾さんにも益男さんと一緒に昼食を取るようにと伝えています。きっと今頃用意して待っていると思いますよ」
「――マジっすかっ」
テンションが上がるままそう言ってからハッと口を抑える。
やばい、この言葉遣いはまた怒られる。
そう思って恐る恐る有坂母を見たが、クスクスと微笑んでいるだけで怒られなかった。
休憩中はセーフ扱いなのかもしれない。
これ以上説教をくらわない事にホッとしたが、そうとなれば早く有坂の元に行きたい。
一礼して、ダッシュで旅館の中へ戻る。
まさか有坂も一緒に休憩が取れるとは思わなかったから、二倍嬉しい。
「結城、戻ったのか」
全力で休憩所に駆け込むと、有坂が昼飯の用意をしてくれていた。
つい数時間前に会ったばっかだけど、なんだか随分久しぶりのような気がしてしまう。
張り詰めていた心が、じわっと緩んでいく。
「有坂ぁ」
力無く名前を呼びながら、ふらりと休憩所に入り込む。
そのままガバっと腰に抱きついた。
癒やしだ。
俺の友達。唯一の癒やし。
「…随分やられているな。女将は厳しかっただろう。知っていたが先にそれを教えるのはよくないかと黙っていた」
「あー、やっぱりそうだったのかよっ。めちゃくちゃ笑顔なのにめちゃくちゃ説教されたぞ」
「俺もよくそれをされたから気持ちは分かる。頑張ったな」
そう言ってギュッと抱きしめ返された。
ノリで抱きついたわけだが、ガチで返ってくるとは思わなかった。
が、荒んだ心にはこれくらい甘やかしてくれるぐらいがちょうどいい。
「食事を取って少し休め。夕方からまた忙しくなる」
「えっ、でも休憩長いしせっかくならどこか行かね?」
「疲れているんじゃないのか」
「へーきへーき」
有坂との時間があるなら楽しみたい。
それから俺達は昼飯を食べて、少し近場のお店を見て回ることにした。
石畳の道を二人で歩いて、有坂が俺に昔ながらのお店を案内してくれる。
店先でパクっと買い食いしたり、今時珍しい駄菓子屋さんを見たり、和雑貨が売ってる店を覗いてみたり。
どこへ行くにもワクワクする気持ちが止まらなくて、楽しくて堪らない。
この後の仕事の事を考えると若干鬱だが、それでも有坂と一緒にいられるなら頑張ろうと思う。
そうしてまた今日も、有坂との大切な一日が過ぎていく。
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