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軋轢は避けられない。それでも。
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◇
一度失った信頼を取り戻すのは簡単じゃない。
反省文の一件以来、クラスは奇妙な空気に包まれていた。賑やかしい教室に一歩踏み入ると、途端に静まり返る。
「皆、おはよう」
自分が声を掛けても、返ってくる声はほとんどない。きつい視線を向けてくるのは主に谷村直人と、親しい男子数人だ。
「おはよう、裏切りセンセー」
揶揄するような口調は棘を帯び、口元は歪に微笑んでいるのに目は笑っていない。
クラスの中心とも言える直人が率先しているせいか、他の生徒たちも同調するように嫌味な言葉を掛けてくる。
「おはよう、谷村君」
それでもめげずに声を掛ければ、直人は仲間内で顔を見合わせて吹き出した。
「『おはよう、谷村君』だってよ。うっぜー」
「先生ヅラすんなっての」
「エコヒイキしたくせになー」
聞こえよがしの嘲笑を聞き流し、教科書を開くよう告げる。
だが男子生徒は誰も従わず、授業もままならない。ふと三沢友二を見やれば、彼もおどおどと周囲を見回し、結局教科書を開いていなかった。ここではみ出せばどういう結果を招くか、彼も理解しているのだろう。
「ちょっと男子! ふざけないでよ! 授業にならないじゃない!」
女子のリーダー格である里中亜美が声を張り上げた。長い黒髪を腰の辺りで切りそろえ、前髪は丸い額を僅かに隠す程度という、今時古風なスタイルの女子生徒だ。利発的な釣り目と相反する可憐な雰囲気のせいか、パッと人目を引く華やかな容姿をしている。
「うっせーよバァカ」
「馬鹿はどっちよ。ほんっと子供みたいね」
ふん、と鼻を鳴らし、亜美がこちらを見た。
「先生、男子は放っておいていいので授業始めてください」
溌剌とした声で言われたが、「分かりました」と頷くわけにもいかない。
「皆、教科書三十七ページを開いて。順番に音読を始めます」
宣言したところで直人が従うはずもなく、挙句の果てにはまったく関係ない英語の教科書を開き始めた。
苦戦しながら授業を進めていくが、やはり男子生徒は皆、終始悪ふざけばかりで真面目に取り組もうとはしなかった。
そんな日々が二週間も続いたある日の放課後、職員室の電話が鳴り響いた。受話器を取り上げた今泉が一瞬眉をひそめ、それを差し出してくる。
「土井(どい)菜月(なつき)さんのお母様からよ」
受話器を受け取りながら、その女子生徒を思い浮かべた。ぼんやりとしていて大人しい子だ。国語の成績はクラスでも上の方だった。
「もしもし、お電話代わりました。夏井と申します」
『あなたね? 国語の夏井先生って』
「はい」
『菜月から聞きましたけど、授業中に男子生徒がふざけているせいで授業がまったく進まないんですって? 期末テストも近いのに何をやっていらっしゃるんですか』
あからさまな敵意を込めた声にみぞおちが痛くなる。
「申し訳ありません。わたくしの不手際でして……生徒たちにはきちんと指導いたしますので」
『先生の言うことなんて聞かないんでしょう? 教師がダメな子を甘やかすから、真面目に授業を受けているうちの娘まで迷惑しているんですよ』
取り付く島も与えず、さらに言葉が続いた。
『夏井先生、うちの菜月はあなたの授業を受けるのが辛いって言ってるんですよっ?』
「え……」
『教室の空気も悪いし、学校が嫌いになりそうだって。あの子が不登校にでもなったら、あなた、どうしてくれるんですか?』
噛み付くような言葉に、殴られたような衝撃を受ける。本気で呼吸が止まった。
自分の授業を受けたくない。そんな風に思う生徒がいる。その事実を知らされ、受話器を握る手が震えた。
「申し訳、ありません……近いうちに必ず問題は解決します。菜月さんに嫌な思いをさせてしまったこと、心からお詫びします」
『これだから若い先生って嫌なんですよ。頼りないって言うか、信用できませんね。とにかく菜月はしばらく学校を休ませます。どうせ授業にならないなら行っても無駄でしょう』
菊谷に伝えて欲しいとだけ告げ、通話は一方的に断ち切られた。無機質なビジートーンを鳴らす受話器を耳から離し、そのまましばらく放心する。
「大丈夫? 何か仰ってた?」
今泉の問い掛けに我に返ったが、ショックは長く尾を引き、首を振って受話器を戻した。
たった一つのミスが連鎖的に問題を引き起こしている。このままではマズイ。
菜月の母親が言ったように、もうすぐ期末テストを控えているのだ。テストの問題を作るのは別の国語教師だが、当然範囲は学年で統一されている。今の授業ペースではそれにも追いつけない。
頭を抱え、溜め息をついた。どうすればいいのだろう。どうすれば直人は自分を許してくれるのだろう。
二度と信じないと言われた。その言葉通りなら、この先もあの授業態度は改善されない。
「ねえ、何があったのか話してくれない?」
今泉は気遣うように言い、背中に触れてくる。張り手でも食らったような痛みを不快に思い、逃げるように立ち上がった。
「夏井先生?」
「……ちょっと、煙草吸ってきます」
心配そうな瞳から目を逸らし、校舎裏の喫煙所に直行する。普段は人気のない場所なのに、その日に限って先客がいた。
「よう、夏井じゃねぇか」
筋骨隆々とした屈強な体躯を持て余すようにして、奥園(おくぞの)利和(としかず)が紫煙を燻らせていた。体育教師の彼はいつ見てもTシャツにハーフパンツというラフな格好で過ごしている。服の上からでも割れた腹筋が透けて見えるような、度を越して鍛え上げられた肉体や、浅黒く日に焼けた肌のせいで一見、教師に見えない。初対面の時は本気でその筋の人かと思い、正直かなり怖かった。
だが意外にも話してみればだいぶ気さくで、細かいことにはまったく頓着しない男だ。生徒たちは誰しも口をそろえて「暑苦しい」という評価しかしないが、それがマイナスの感情から出たものではないのは確かだろう。
「どうした。しけたツラして」
「……まあ、ちょっと」
言葉を濁し、煙草に火をつける。
「お前煙草吸うんだな」
「意外ですか」
少し剣のある言い方になってしまった。自分が思っている以上に、ダメージが大きいのだろう。奥園は気にした風でもなく、「似合わねぇよ」と豪快に笑う。
「お前ここ最近ずっと元気ねぇよな。なんか悩みでもあんのか?」
「悩み……っていうか。生徒との付き合い方が分からなくて」
どうすれば以前のように慕ってもらえるだろう、なんて甘い考えはもう捨てた。一度失った信頼を取り戻すのは簡単じゃない。今はただ、真面目に授業さえ受けてくれればそれでいいと思っている。本当はこんな妥協をするべきじゃないが、もう疲れてしまった。
「ま、難しい年頃だよなぁ。中学生ってのは自分が子供なのか大人なのか、一番見失っちまう時期なんだよ」
奥園の言葉に頷き、クラスでの様子を簡単に話して聞かせる。奥園は鼻から盛大に煙を吐きながら低く唸った。
「谷村直人ってあいつだろ? バスケ部の」
「そうです。彼が率先して授業放棄を促してるって言うか……。小テストのときもカンペ回したり、音読も変な抑揚つけて皆を笑わせたり……」
「そりゃ厄介だな。久古より厄介だ」
思いもよらない名前が出てきたことに驚き、吸い込んだ煙に噎せ返る。
「おいおい、しっかりしろってんだ」
苦笑気味に思いっきり背中を叩かれると、却って咳がひどくなった。冗談じゃなく痛いのでやめて欲しい。感じる痛みは十倍以上なのだ。
「……なんで、久古先生の名前が出てくるんですか」
涙目を擦りながら問うと、奥園は腕を組んで鼻を鳴らす。
「あいつは厄介だぞ。ぶすっとしてるくせに生徒からは人気絶大。女子にキャーキャー言われて保護者にもてはやされて美代子ちゃんにまで惚れ込まれて……ああチクショーっ! 思い出しただけで腹立つぜあの野郎」
途中から完全に愚痴になっていた。どうやら奥園にとって久古は厄介な恋敵らしい。
(っていうか美代子ちゃんって……)
ミス・マドンナこと中村美代子先生のことだろう。まああれだけの美女なら、誰だって憧れを持つのは当然だ。その隣にはやはり、同じくらい容姿の整った男がいるべきで。そこに久古の姿を当てはめてみると、なるほどお似合いのカップルになる。
(まあ、久古先生が恋愛に傾倒するなんて想像もつかないけどな)
苦笑する内心に僅かな翳りを自覚した。なぜか知らないが、胸がざわつく。やっぱり久古も、ミス・マドンナを憎からず思っていたりするのだろうか。
「久古はあれだ、全身惚れ薬野郎だ」
「誰がなんだと?」
唐突に聞こえてきた低い声に奥園はおろか爽太までもが飛び上がって驚いた。久古はいつもの無表情を浮かべたままこちらを見つめている。
「なんでてめぇは悪口言ってるときに限っていきなり現れるんだよ」
「耳聡い方なんでな」
逆切れも甚だしい奥園の言葉にしれっと切り返し、久古は視線を自分に向けた。
「お前、煙草吸うのか」
奇しくも奥園と同じことを言われ、爽太は複雑な気分になる。そんなに意外なのだろうか。
「……たまにですよ」
ぼそりと答えると、久古はさして興味もなさげに「そうか」と頷く。
(誰の影響だと思ってるんだよ)
完全に責任転嫁だが、事実、今の自分は多大に久古の影響を受けて出来上がっている。十四歳の少年にとって、久古はあまりに影響力の強い男だったのだから仕方がない。
わけもなく肩身の狭い思いをしつつ、根元まで燃えた煙草を灰皿に落とした。
「じゃあ、俺は戻ります」
いささか居心地が悪いので、そそくさと喫煙所を後にしようとするが、
「おい待て待て。何も逃げるこたねぇだろ」
奥園に素早く襟首を掴まれた。
「お前そんなに久古が苦手なのか? ん?」
奥園は肩眉を吊り上げて意地悪く笑う。ぎくりと顔を強張らせれば、奥園は声を上げて爆笑した。
「わっかりやすいなぁお前」
「べ、別に苦手なんかじゃないですよ」
取り繕いながら渦中の久古を窺えば、まるで他人事のように悠然と煙草をふかしている。
苦手とかそういうわけではない。ただ、久古が何を考えているのかまったく読めないから、どう接すればいいのか分からないだけだ。
奥園とは違い、久古には悩み事を打ち明ける気になれない。下手に愚痴なんか聞かせたらまた小言を言われるに決まっているのだ。
というかそもそも『付きまとうな』と釘を刺されている以上、自分から久古に相談を持ちかけたり、話しかけたりなんてできない。なにを言われるか、あるいは完全に黙殺されるかと思うと、正直怖い。
気まずい空気が流れる。ややあって久古が空を見上げながら呟いた。
「……授業放棄されているらしいな、お前」
「え」
避けたかった話題を向こうから振られ、思わず身体が強張った。なぜ久古がそれを知っているのだろうと一瞬疑問に思ったが、考えてみれば学年主任の彼が知らないわけもなかった。耳聡いというのはこういう意味でもあるのだろう。
奥園がやれやれと首を振って嘆くように言う。
「夏井先生はなんつーか……弱っちいんだよなぁ。ヘラヘラしてねぇで、たまにはバシっとよ。言うときゃ、言えってんだ」
「……すみません」
それができたら苦労しないと思いつつ、かろうじて苦笑いを浮かべた。
自分についているイメージはどうやら〝軟弱〟〝お人好し〟〝草食系〟というものらしく、今さら強面教師の真似事をしたところで失笑を買うだけだろう。それに……。
(また〝ヘラヘラ〟か……)
菊谷にも言われた言葉だ。自分が気づかないうちに、生徒におもねるような笑顔になってしまっているのだろうか。
これ以上嫌われたくない。そう思うから、せめて笑顔だけは大切にしているのに。それが逆効果なのだとしたら、いっそ笑うのをやめてみようか。
「おいおい、夏井」
俯いて沈黙した自分に奥園が焦った声を出す。
「お前、ガチで落ち込むんじゃねぇよ」
「落ち込ませたのはお前だ」
久古の呆れた声に、ふと目を見開いた。久古が他人とこんな風に他愛ない会話をしているところを見るのは初めてだ。
驚きながら顔を上げると、久古がこちらに目を向けてきた。まともに視線がぶつかると、なぜかどぎまぎしてしまう。
「原因になっているのは谷村だったな。あいつはこの前の反省文のことをまだ根に持っているのか?」
「ええ、多分……。でもどっちかって言うと、俺が三沢友二を見逃したことが気に入らなかったみたいです」
友達は見逃してもらえたのに、自分だけが注意された。彼が傷ついたのは間違いない。
「俺が悪いんです。でも他にどうしようもなくて……」
「別にお前は悪くねぇだろ。授業中に携帯いじくってる生徒が悪(わり)ぃんだ」
「だが、谷村はそう考えていない。自分の罪を棚に上げてお前を逆恨みしているだけだ」
「逆恨み……」
久古の言葉を反芻する。見落としていた大事なことが、なにか一瞬見えたような気がした。
爽太は沈黙し、思考を回転させる。
なぜ、谷村直人はあれほどまでに自分を敵視しているのだろう。
恐らく、谷村直人には校則違反をしているという自覚が充分にあったからだ。持ってきてはいけない携帯電話で授業中に遊び、それが露見したという罪悪感を打ち消したいから、こちらに攻撃的な態度を取っている。逆恨みというか、八つ当たりだ。そして、その行動が意味するものは――。
(もしかして……そういうことか?)
行き当たった一つの可能性は、明らかに希望的観測を含んでいる。けれど、もしそうなら。
(仲直り、できるかも……)
爽太は腕時計を確認する。
「俺、ちょっと体育館行って来ます。バスケ部の練習って何時くらいまでですか?」
奥園に問うと、彼は首を傾げて唸る。久古が見かねたように「六時前には切り上げるはずだ」と答えてくれた。あと十五分程度だ。
「夏井」
「はい?」
駆け出そうとしたところで久古に呼び止められ、振り向く。
「……何かあったら俺を呼べ」
端的な命令だが、その真意を汲み取れば嬉しくもなった。何かあったら、久古は助けてくれるのかもしれない。学年主任としての義務感だろうが、だとしても心強いし、嬉しい。
「ありがとうございますっ!」
思わず破顔すると、久古が面食らったように目を見開く。こんな顔もできたのかと胸中で感心しつつ二人に背を向け、今度こそ駆け出した。
練習が終わるのを待って、三年の生徒に直人を呼び出してもらった。さすがの直人も先輩には逆らえなかったのか、大人しく顔出す。
「なんか用かよ」
敵意むき出しの直人を近くの石段に座らせ、自分はその横に腰を下ろした。
「最近の授業態度、ちょっとひどいよな」
あえて冷たい口調で切り出す。
「……また説教かよ」
直人は舌打ちで誤魔化すが、明らかに表情が強張っていた。自分でもよくないことをしていると分かっているからだ。
「信じなくていいから、聞いてくれ」
前置きは短く、告げた。
「俺はお前を信じてるよ」
「……はあ?」
意表をつかれたのか、直人が口を開いたまままじまじとこちらを見つめてくる。
「なにそれ。どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」
言いながら立ち上がると、直人は口を閉ざして難しい顔をした。何か言いたそうなその顔を見つめ、付け足す。
「三沢を見逃したのは、エコヒイキのつもりじゃなかった。俺はまだ、教師のルールを知らなかったんだ。……言い訳だけどな」
我ながら情けないが、他にどんな言い方ができるのか分からない。
「お前を注意したのは、お前が嫌いだからじゃない。今だって、俺はお前を嫌いになんかなってないよ」
「別に嫌われてもいいし」
吐き捨てるような言葉が本心だとは思えなかった。その証拠に、直人はこちらの目を見ていない。
嫌われるくらいならこっちから嫌ってやる。それが直人の本心だ。傷つくことを恐れるあまりの過剰防衛は自分にも覚えがあった。
幼さゆえに、他人との距離感を図り違える。稚拙な感情は純粋だ。
直人は自分に嫌われたくないと、本心では思ってくれている。むき出しの敵意は、その裏返しなのだろう。
不器用ないじらしさについ微笑みが漏れた。
「お前を嫌いになるのは却って難しいな」
言いながら、ごく自然に直人の頭を撫でていた。ひりつくような痛みが手のひらから腕を伝い心臓にまで達したが、構わずガシャガシャと乱暴に髪を搔き回してやる。
「やめろよっ!」
直人はあからさまにムッとし、強引に手を振り払って立ち上がった。
「ガキ扱いしてんじゃねぇよ、クソ教師っ!」
罵詈雑言を吐きながら体育館に逃げ込んで行くその横顔が真っ赤だったのは多分、見間違いじゃない。
心配していた土井菜月は、翌日普通に登校してきた。
「昨日は母がすみません」
こちらが恐縮してしまうほど丁寧に頭を下げ、大人びた口調で彼女が言う。
「うちのお母さん、ちょっと口うるさくて」
はにかみ笑いを浮かべて、菜月は困ったように肩を竦めた。
「大丈夫だよ」
他人を気遣う優しさを持った子供というのは、大人が思う以上に強い。
「お母さんは君のこと、とても大切にしているんだね」
「どうかな? 昨日もすごいケンカしちゃったけどね」
くすぐったそうに頬を染め、菜月が席に戻っていく。
もしかしたら、菜月が自分の授業を受けたくないと言っていたというのは、母親の方便かもしれない。なんにせよ、彼女が普通に登校してくれて良かった。
始業のチャイムが鳴り、生徒たちがそれぞれ席に着く。挨拶の後で小テストのプリントを配った。
今日の授業がどうなるか、もう心配はしていない。信じていると言ったあの言葉に嘘はないからだ。後は、直人がそれを信じてくれるかどうかだった。
ふと直人を見る。プリントを後ろに回す仕草は投げやりだったが、黙々と問題に取り組み始めた。
知らないうちに笑みが零れる。ちゃんと言葉にすれば、伝わることもあるのだ。
静かな教室に、紙の上を走るペンの音と生徒たちの息遣いが聞こえた。真っ直ぐでひたむきなそれを耳にしながら、一つ何かを乗り越えたのだと確信する。
初めて、教師になって良かったと思えた。
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