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心の疵
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真夏の体育館倉庫に転がっていた。窓のない空間はひどく蒸し暑い。すえたような空気を浅く吸って顔をしかめる。身体中が痛かった。
複数人を相手にやり返したところで勝ち目などあるはずもなかった。あっという間に押さえつけられ、いつもより苛烈な暴力に翻弄された。
(俺、このまま死ぬのかな……)
別にそれでも構わない。自分が死ぬことで奴らに一矢報いることができるなら。
久古が言ったように、このまま這いつくばって一生を生きていくのは嫌だ。そんな目に遭うくらいなら死んだ方がましだとすら思える。
うだるような暑さの中で、既に意識は朦朧としていた。倉庫は外から鍵をかけられている。ここから出ることはできないのだ。
今日は午前中しか授業もなく、既に校内に生徒も教師もほとんどいない。助けを求めたところで、誰も来ないだろう。
なにもかもが色褪せて見えた。十四年という人生が途轍もなく長かったように思う。世界にたった一人取り残されたような気がして、知らず涙が溢れた。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。
薄れゆく意識の中で、自分と同じように一人ぼっちな男を思った。久古は今日もあの屋上にいるのだろうか。
(このまま俺が死んだら、少しは悲しんでくれるのかな……)
あの男が感情に振り回される様など想像もできない。けれど。
自分を思って泣いてくれる人間が、少なくとも二人いる。両親。父と母。何より自分を大切に思ってくれている、二人きりの肉親。だからこそ余計に縋れなかった人たちだ。自分がこんな惨めな思いをしていることを、あの二人にだけはどうしても知られたくない。
爽太と言う名前は、あの二人の願いそのものだと知っている。明るく爽やかな子に、太く逞しい心を持った子に育って欲しい。そう願ってつけた名前だと聞いたことがある。だから、そうあろうと努力した。その結果がこれだ。
あの時、クラスでのいじめなど無視すれば、野口を見捨てれば、こんな目には遭わなかった。見て見ぬふりをすればよかったのだ。他の皆のように。
けれど、そんな卑怯なことをして、それが両親に知られたらどれほど落胆されるか。二人の願いや期待に背いたら、自分の居場所はなくなってしまう。
誰かに期待されるということが、本当は苦痛だったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
瞳を閉じて、誰にともなく謝ってみた。諦めることを、こんな弱い自分を許して欲しい。
床に転がったまま、遠くで誰かの足音を聞いた。今が何時なのかも分からないが、きっと見回りにきた教師だろう。
今、声を出せば助けてもらえる。そう分かっているのに、喉が嗄れていて叫ぶことも出来ない。少しも身体を動かせなかった。
ぼんやりと、扉の施錠を確認する音を聞く。行ってしまうのか、そう思った。けれど。
掛け金が外れる音が倉庫内に反響し、耳障りな金属音を立てて扉が開く。そのどちらも聞き間違いだと、最初は思った。だが――。
「おいっ」
自分の肩を揺さぶる声に薄く目を開ける。視界が揺れていて、誰だか分からない。
「しっかりしろ、爽太」
けれど、微かな煙草の臭いに、少しだけ意識が明瞭になった。この男の焦った声なんて、初めて聞いたような気がする。
「く、ごせんせ……」
なんでここにいるのだろう。どうして、自分を抱き締めているのだろう。何も分からず、呆然とされるがままになっていた。
耳元で歯軋りの音がする。自分を抱き締める腕に力がこもった。
「もう、耐えるな。耐えなくていい。助けを呼べ。頼むから――」
一人になるな、と。そんな悲痛な声を聞いた気がする。多分、気のせいだ。
気づけば見慣れない天井を見つめていた。薬品臭い空間に一瞬病院を想像したが、辺りを見回して、そこが学校の保健室だと知る。
「よくある生徒同士の喧嘩でしょう。大げさですよ」
ねちっこい声は聞き覚えがあった。担任の安浦だ。
気だるい身体を起こし、引かれたカーテンの隙間から外を覗き見た。
「喧嘩? あれを喧嘩と言うのか」
低く呆れた声で応じたのは久古だ。年嵩の安浦は若い教師の態度に辟易した様子で顔をしかめている。
「いじめなんかじゃありませんよ。うちのクラスは皆、仲のいい健全な生徒ばかりですからね」
どの口が言うのか、安浦は無責任に言い放った。こういう男だと知っているから、別に今さら落胆しはしない。
「健全な生徒が、よってたかって一人の人間を標的しているんだろう。それをいじめと言わずなんと言うつもりだ」
「だから、喧嘩ですよ。彼らはまだ子供なんです。気に入らないことがあれば、時に過剰な争いをすることもあるでしょう」
「ふざけるなっ!」
久古は突然声を張り上げ、安浦の胸倉を掴み上げた。
「この期に及んで、まだ白を切るつもりか!」
「ぼ、暴力はやめてくださいよ」
怖じたように安浦が青褪め、両手を挙げて首を竦める。
「暴力? この程度が?」
久古が薄く微笑むのを、爽太は信じられない思いで見つめていた。
「痣ができるほど殴られるということがどういうことか、まったく分かっていないようだな」
久古は目を眇めたかと思うと、握りこんだ拳を深く安浦の腹部に叩き込んだ。くぐもった呻きを上げ、安浦が床に膝をつく。
息を呑んだのは自分の方だった。
この程度では痕も残らない。そう言った久古を、安浦が泣きそうな顔で見上げていた。
「あんたに教師をする資格はない」
吐き捨てた久古が、不意にこちらを見る。まともに目が合った瞬間、久古が驚いたように目を見張った。
「爽太」
名を呼ばれ、思わずカーテンに隠れる。見てはいけないものを見てしまった気がして、動悸が止まらなかった。
「目が覚めたか」
久古がカーテンをめくり、声を掛けてくる。俯いたまま小さく頷くと、大きな手のひらが頭の上に振ってきた。いささか乱暴に髪を搔き回され、それでも不快な気分にはならなかった。――だが。
「さっきお前の親を呼んだ。じきに来る」
その言葉に、爽太は目を見開く。
「な、なんで……」
湧き起こった焦りが、次の瞬間には怒りに変わっていた。手を振り払い、声を荒げる。
「なんでそんな勝手なことすんだよ!」
知られたくない。誰にも言わないで欲しい。そう言ったはずなのに。
「ふざけんなよっ! 俺が、いつそんなこと頼んだっ?」
久古は息を切らす自分を冷静に見下ろしている。爽太は俯き、布団を握り締めた。
全部、知られてしまう。拳の上に涙が落ちるのを必死に堰き止めようとするが、上手くいかなかった。
「もう泣くな」
静かな命令の後で久古が自分を抱き締めてきた。瞠目する自分に久古は言う。
「俺はお前の味方だ」
耳を疑った。
「味方……?」
自分にそんなものがいるはずない。誰も彼もが敵だ。なのにどうして。
「ほんとに……?」
縋りたくなるのだろう。この男なら自分を助けてくれるかもしれないと、そんな風に思えてしまうのだろう。
「俺を信じろ」
久古は囁き、自分の頬を伝う涙を手のひらで優しく拭った。この手は自分を傷つけない。なぜかそう確信した。
「警察も来る。全てを話せ。……できるな?」
唇を噛み締め、迷いを振り切るように頷いた。久古が味方なら、誰かに助けを求めることができるかもしれない。たとえ伸ばした手を振り払われても、久古がいる。
自分を抱き締める腕に力がこもった。
この腕が自分を救ってくれるなら、何があっても乗り越えられる。そんな気がして、無意識にしがみついた。
「誰かを信じるには強さが必要だ」
久古の言葉が心に刻み付けられる。
「強くなれ、爽太」
唇を噛み締め、嗚咽を堪えながら、深く頷いた。
「忘れるな。俺はお前の味方だ。この先も、ずっとな」
この日のことを、忘れることはない。恐らく、一生。
爽太は駆けつけた両親に全てを告白し、そのひと月後には転校が決まった。両親が自分の代わりに泣き喚き、怒り狂って加害者の両親と激突したのは、自分にとって確かな救いだった。
自分は救われた。久古がその道を示してくれたから、立ち上がることができたのだ。
けれど痛みを刷り込まれた心が、そう簡単に元に戻ることはなかった。他人に触られると痛みを感じるようになったのは、新しい学校に馴染んでしばらくしてからのことだった。
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