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変わるための強さ
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「なるほどな……」
ゆっくりと煙草の煙を燻らせながら、久古が呟く。陸斗の件を全て話した。
「俺、どうしたらいいのか分かんないんだ」
「お前でなくとも、教師の手には余る問題だ。家庭の問題と言うのはな」
灰皿の底で火を消し、久古が目を伏せる。
「芦田陸斗を助けたいなら、方法は一つしかない。……お前もそれくらいは分かっているだろう?」
久古の問いに頷き、拳を握り締めた。分かっている。だからこそ、こんなにも辛いのだ。
陸斗を助けるには、もう学校だけの力では足りない。やはりしかるべき機関に相談しなければならないだろう。児童相談所に。
「でも……」
陸斗はそれを望まなかった。父親を裏切りたくないと。
大人に助けを求めることが、どうして裏切りになるのだろう。
「この一件は菊谷には話してあるのか?」
「いや……まだ」
「なら話しておけ。児相に連絡を入れるのは、副担任のお前より担任の菊谷の方がいい」
それはつまり。
「俺の出る幕じゃないってこと?」
「そうだ。一年目の新人教師が何を言っても、説得力がないからな」
辛辣な言葉に俯くと、久古はふと声を和らげた。
「お前まで陸斗の苦しみを背負う必要はない。自分ひとりでは解決できないと思うなら、人を頼れ」
人を頼る。陸斗にできないことを、自分はやらなければならない。
「俺……陸斗に恨まれるかな」
父親と引き離されたら、陸斗は自分をどう思うだろう。味方だと言ったこの自分に裏切られたと思うだろうか。
「それがどうした。この先も教師を続けるなら、こういった問題は避けて通れないぞ」
久古の言葉はあくまでも淡々としていた。
「あんたも、生徒に恨まれたことがあるのか?」
問い掛けると久古は悲しげに微笑む。それは明らかな肯定だった。
「そっか……」
だとしても、それで救われた生徒は確かにいるのだろう。例え余計なお世話でも、結果的に救われた生徒がここにもいるように。
ふと身体の力が抜ける。もう迷ってはいられなかった。
「ありがと」
久古に相談してよかったと思う。ほんの少し心が軽くなった気がして、小さく礼を言った。
気が抜けると途端に疲れが身体を襲う。額がズキズキと痛み、目を瞬(しばた)いた。
「少し寝るか? 顔色が悪いぞ」
「ん……そうする」
久古の言葉に甘えてベッドに横になると、あっという間に眠りに落ちた。
だが少し無理をしすぎたらしい。夕方近くになって目が覚めた時には、高熱と悪寒で起き上がることすらできなくなっていた。
「一晩中外にいたのか」
久古に呆れた視線を向けられ、返す言葉もない。元々寒さに弱いことは自覚していたのに、気を抜いて無茶をした自分が悪いのだ。
結局翌日の日曜日は一日中ベッドで過ごすはめになった。こんなに見事に体調を崩したのは何年ぶりだろう。
久古はずっと付きっ切りで傍にいてくれた。氷嚢が温くなれば換え、汗を搔けば着替えを手伝い、挙句手ずからお粥を食べさせ、と甲斐甲斐しい看病をされた記憶がおぼろげにある。思い出しただけでも小っ恥ずかしい。しかも久古は弱り切った自分に終始穏やかな苦笑を向けていたのだ。あれは完全に楽しんでいた。
これ以上ない恥を晒したような気分になるのはおこがましいだろうか。とにかくもう二度とあんな弱り切った醜態を晒すべきではないと、爽太は一つ教訓を得たのだった。
久古の看病のおかげで、月曜の朝にはすっかり体調が戻っていた。久古と並んで電車に乗るという貴重な体験をし、学校へと向かう。久古に借りたスーツはやや大きいが、今日ばかりは仕方ない。自宅に戻る時間がなかったのだ。
校門が見える頃になって、胃の腑がどんどん重くなり始めた。今日、陸斗の件を菊谷に話さなければならない。
「どうしても言いにくいなら俺が代わりに話すか?」
青褪める自分を不憫に思ったのだろう、久古が気遣うような視線を向けてきた。だが爽太は首を振る。
「ちゃんと自分で話します。俺だって教師の端くれですから」
あえて教師としての立場で久古に告げた。ほとんどは自分に言い聞かせるためだったが、久古は「そうか」と一つ頷く。
久古に再会してから、自分は少しでも強くなれただろうか。全くそんな気がしない。
ここで全てを久古に任せてしまえば、きっと自分はこの先も同じような局面で躓いてしまうだろう。だから、この件はどうあっても自分の力で乗り越えなければならないのだ。
職員玄関で久古と別れ、職員室より先に生徒用の下駄箱を見に行った。陸斗が登校してきているかどうか確かめたかったのだ。
出席番号一番の芦田陸斗は一番上の段の左端――来ている。吐き潰したスニーカーを認め、踵を返す。
職員室に戻り、一直線に菊谷の席へと向かった。近づく自分に気づいた菊谷が邪険な視線を向けてくる。
「あ? 何だお前」
いきなりの喧嘩腰に若干怯んだが、大丈夫だと己を鼓舞して息を吸い込んだ。
「芦田陸斗君の事でお話があります」
「芦田? 芦田がどうしたってんだ? また登校拒否か?」
うんざりとしたような言い草にカチンとくるが、今はいちいち気にしている場合でもない。
「ここじゃちょっと……場所を移してもいいですか?」
「はあ?」
面倒そうな菊谷を何とか促し、保健室へと向かった。白川にも話を聞いて欲しいと思ったからだ。もしかしたら保健室には陸斗もいるかもしれないが、この際いてくれた方がいい。どの道本人抜きで話は進まないだろう。
「失礼します」
声を掛けて扉を開け、中を見渡す。
「あら、どうしたの?」
保健室には白川しかいなかった。ほっとしたような、少し当てが外れたような、複雑な心境で息をつく。
「おい、なんだってこんな場所に来るんだ」
「こんな場所で悪かったですね、菊谷先生」
ムッとしたように返す白川をソファに呼び、三人揃って腰を下ろした。自分と向かい合うように白川、その隣にだいぶ距離を置いて菊谷が座る。
「芦田陸斗君のことなんですけど……実は」
一昨日あったことを、順に話して聞かせた。早朝三時からの新聞配達、図書館で時間を潰していたこと、家に帰りたくない理由と父親に言われたという言葉のことも。
唯一つ、陸斗がスーパーで万引き未遂をしたことだけは伏せた。偽善的な判断だという自覚はあったが、どうしても言えなかった。陸斗だって好きであんなことをしていたわけでないのだろう。それを話すかどうかは、陸斗に決めさせたかった。
話の途中で白川が涙ぐんだのは見間違いじゃない。話しているこっちも精一杯だった。菊谷だけは憮然と腕を組み、面倒そうな表情を浮かべている。
「この件を、その……児童相談所の方に話して欲しいんです」
菊谷に向かってお願いすると、彼はあからさまに嫌そうな顔をした。
「簡単に言うじゃねぇか若造が。お前、自相に連絡するってことがどういうことか分かって言ってんのか?」
「もちろん、分かっています」
十中八九、陸斗は父親から引き離される。それはつまり、陸斗から父親を、父親から息子を取り上げるのと同義だ。
「でも、彼の現状を見れば、その方がいいと思うんです」
「そりゃお前の勝手な自己満足だろうが」
菊谷の言葉に胸を突き刺されたような気がする。自己満足。確かにそうかもしれない。
陸斗の望みを聞きもせず、勝手に動くのは。
「でも……」
「でも、私もそうするべきだと思います。今の話を聞いて、それでも放っておくという方が無責任でしょう」
助け舟は白川から出た。菊谷が唸る。ややあってつと鋭い視線が向けられる。
「お前、芦田を連れて来い」
顎をしゃくられ、思わず顔が強張った。だが嫌とは言えない。爽太は重い気持ちを抱えて立ち上がる。
陸斗は教室にいた。いつもどおり、一人ぼっちで教科書に目を落としている。
「陸斗君、ちょっといいかな?」
声を掛けると、目縁に濃い隈を浮かべた顔がこちらを向いた。恐らく今日も朝のバイトがあったのだろう。
「何ですか」
硬い声に警戒があった。いいから、と廊下へ連れ出す。
「君のこと、やっぱり見過ごせないから、菊谷先生と白川先生に話したんだ」
正直に告げると陸斗は明らかに表情を変えた。ただでさえ血色の悪い顔が紙のように白くなる。
「……なんで?」
震えた声で呆然と呟き、縋るような目でこちらを見上げてきた。
「なんでそんな勝手なことしたんですかっ?」
責められるのは覚悟の上だった。だから怯むことは許されない。
「さっきも言ったけど、見過ごせないんだ。君が抱えている問題は、もうとっくに君の手には余る」
「だからって」
「陸斗」
怯えたように身体を震わす陸斗の肩を強く掴んだ。
「俺は、間違ったことをしたとは思わない。お前一人が苦しむ必要なんてないんだ。だってお前は」
まだ、子供なのだから。無力でちっぽけな子供だから。
「自分ひとりでできることと、できないことの区別を、君はまだ出来ないだろう? できないから我慢しちゃうんだよ」
教師という人間が、一人の生徒のためにできることもまた、少ない。そういう点で、無力なのはお互い様かもしれないが。
「自分ひとりでできないことは、誰かに頼るしかないんだ。それができないと、いつまで経っても何も変わらない」
自分の言葉を、陸斗がどのくらい理解し納得してくれるだろうか。
陸斗は怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべ、唇を噛み締めて俯いた。
「これから多分、児童相談所の人が来ると思う。……全部話して欲しいんだ。君が背負っていることも、望んでいることも」
「……そうしたら、僕はもうお父さんに会えなくなるんでしょう?」
そんなのは嫌だと、陸斗は涙声で呟く。
(ああ……そうか)
陸斗は父親のことを憎んではいないのだ。むしろ好きで、大切に思っているのだ。
「そうとも限らないよ。君が望めば、きっと会うことができる。ただそのためには、お父さんにも頑張ってもらわなきゃならないだろうけど」
詳しいことは、児童相談所の職員に聞いた方がいいだろう。逡巡する陸斗を促して保健室に向かう。
「一つだけ、君が一昨日スーパーでしたことはまだ話していないから、話すかどうかは君が決めて欲しい」
そう言うと陸斗は一瞬驚いたような目を向けてきた。だがその表情はすぐに影を帯び、再び痛々しく歪む。
保健室に戻ると、菊谷はいなかった。児童相談所へ連絡をしに行ったと白川が小声で耳打ちしてくる。陸斗は追い詰められた表情のまま、じっと俯いていた。
児童相談所の職員が来たのはそれから三十分ほど後だった。担任の菊谷と、陸斗をよく知る白川がいれば自分の出る幕はない。そう判断し、後ろ髪引かれる思いで保健室を後にしようとした。だが――。
「夏井先生もいてください……」
そんな自分を引き止めたのは陸斗だった。頼りなく揺れる瞳に切実な感情が見えたような気がして、陸斗の隣に戻る。
児童相談所の職員に優しく促され、陸斗はたどたどしく話し始めた。その中には自分もまだ知らない芦田家の現状もあり、爽太はキリキリと痛む心を必死に宥めるしかない。
「陸斗君は、これからどうしたいかな?」
その問いに、陸斗は口ごもった。どうしたいのか、自分でも分からないのだろう。膝の上で震える陸斗の拳にそっと触れた。感じた痛みは、もしかしたら陸斗の痛みなのかもしれない。
「思っていること、言っていいんだよ」
白川が優しく声を掛けると、陸斗の肩が震える。
陸斗が自分の望みを言葉にするのに、長い時間がかかった。けれど彼は確かにこう言ったのだ。
『助けてください』と。嗚咽を堪えながら。
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